ページ7・失意
ーー聞こえたのは、幼さの残る声だった。
夕暮れの公園から聞こえるような楽しげなものではない。
凄まじい気迫を纏っている。まるで言葉が質量を持ったみたいだ。
たった一言だけなのに。
こいつ、何者だ。
予想もしなかった展開に、思わず目を見張った。
見知らぬ彼女が俺の理想を知っていたことよりも、こんな所に子どもがいることに驚いた。
この公園は今、空間魔法によって捻じ曲げられている。普通の人間では入ってこられないはずだ。
もし万が一足を踏み入れたとしても、わざわざ危険な場所に近づくような輩はいない。
だが、ここにいる奴は吹っ飛ばされた俺のところまで寄ってきた。
普通じゃありえない。
俺は重くなった目蓋を動かし、数度瞬きをしてから声のした方を見た。
視界が徐々に晴れていく。
ゆっくりとピントが合う。
目の前に立っていたのは、不機嫌そうに腕を組むの女の子だった。
「っ、う……」
「なんじゃ。じろじろと見おって。儂の顔に何か付いておるのか?」
彼女は首を傾げた。
着ていた白いパーカーが揺れる。
地面に付きそうなほど伸びた金髪が、肩から音もなく落ちた。
「……」
「用があるならとっとと言え! イライラする!」
少女はパタパタと両手を振る。
服のサイズはかなり大きいようだ。余った袖が腕の動きに合わせてたなびいた。
言葉遣いは老人そのものだが、見た目だけなら可愛らしい子どもそのものだった。
しかし。
なんというか、彼女の周りにある空気だけ普通とは違う。
現実味が無い、と言えばわかりやすいだろうか。
暗闇の中なのに彼女の姿はくっきりとしていて、そこだけ綺麗に入れ替えられたようだった。
「ぐ……ぅあ……」
「おや、よく見れば怪我だらけじゃなぁ。どこかで蹴つまずいたか?」
少女はニヤリと笑う。俺の傷のことを言っているらしい。
けれど、この傷は冗談にするには重過ぎた。
致命傷ってやつだ。このまま放っておけば俺は死ぬ。
「阿呆め。ちゃんと前見て歩け」
彼女の不敵な笑いは止まらない。ガキのくせに、とも思ったが、もう大声を出す力も残っていなかった。
と、ここでふと気になることが脳裏をよぎる。
(この子……味方なのか?)
予想だにしなかった疑問は、一瞬のうちに思考を埋め尽くした。
どうして今まで考えなかったのか。
この非常事態で、なおかつ相手が敵が味方かもわからない状況だ。警戒くらいしとけよ。
なんで無防備なまま横たわってんだ俺は。
体をピクリとも動かせない俺と、捻じ曲がった空間に平気で飛び込んでくる少女。
力の差は歴然だった。
考えてもみろ。こっちは瀕死の重傷を負っている。逃げることだって出来ないような傷だ。また敵が来てしまえば今度こそおしまい。為す術なく殺される。
必死の抵抗とばかりに、刺すような目で彼女を睨み付けた。
「おー、怖い怖い。そんな目をするな。年寄りは大切にするもんじゃぞ」
少女は肩をすくめてそっぽを向いた。
大きくため息を吐き出すと、
「安心せい、お主の敵になる気は無い。そんなに怪しまんでもええわ」
ムスッとした表情で続けた。
どっこいしょ、と彼女は近くの瓦礫に腰掛ける。
「にしても情けないのう。たかが一発蹴られたくらいで。もうくたばるのか」
「……!」
「簡単に諦めおって」
少女の言葉が重くのしかかった。
本当は、「お前に何がわかる」と言いたかった。
だが、言葉が出ない。言い返すための言葉が見つからない。
何か言おうと口を開いても、掠れた音が漏れるだけ。声は届かなかった。
彼女の話はまごう事なき正論なのだ。認めたくないけれど、今この場で誰よりも悪いのは自分だとわかっていた。
「ーーそんなじゃから、大事なものも守れんのじゃ」
鼓膜が震える。
急速に血の気が引いていく。
脳が理解するまで数秒かかった。
『守れない』
そう。
そうだ。
俺は守れなかった。
大切な人を守ることができなかった。
凛とした表情も、愛らしい笑顔も、二度と見る事は叶わない。
「身の程を知れ。この愚か者め」
少女は俺の傷口を抉るように言う。
心の割れる音が聞こえた気がした。
さっきから耳鳴りも酷い。平衡感覚が曖昧になり、今俺はどんな状態なのかわからなかった。
(どうして……)
靄がかった意識の中で考える。
(どうして水野を守れなかった……?)
水野が貫かれた映像が、何度も何度も脳裏に蘇った。
忘れようとしても忘れられない。
記憶にこびりついて剥がれない。
瞬くたび再生される悲劇。どれほど脳内が混濁していても、それだけは鮮明に残っている。
(何が足りなかった? どうすれば水野を救えた?)
繰り返される後悔の末、俺は無意識に原因を考え始めていた。
過去に対する問いなど意味を持たないと知りながら。
(誰が悪い。誰のせいでこんな事に……)
時折、蹴られた脇腹から耐え難い痛みが襲い来る。肋骨の刺さった肺は息をするだけで悲鳴を上げ、今か今かと死神の訪れを待っていた。
(そうか)
しばらくして気づく。
今日起こった惨劇は、全て自分のせいだったのだと。
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俺が弱かったから、誰も救えなかった。
実に単純で分かりやすい答えだ。ほんの少し考えれば簡単に出たのかもしれない。
それをしようとしなかったのは、きっと自分を肯定していたかったから。
弱い自分を直視することを恐れ、無意識に思考を止めていた。
……まあ、今更気がついたところでもう遅いのだけれど。
過去の過ちなんて、取り戻せるはずがなかった。
「ようやく気づいたか」
俺の心を感じ取ったらしい。
少女が呟いた。
「そう、全てはお主の弱さが原因じゃ。弱者は生きるだけで罪。歩く肉袋に過ぎん。
おまけに相手との技量の差もわからないなど。片腹痛いわ」
何一つ言い返すことができない。本当に彼女の言う通りだった。
水野はちゃんと「逃げる」という選択肢を残していた。
きっとどうやっても勝てないことを悟ったんだろう。
でも、俺は従わなかった。逃げたくなかった。
ここで待ってヴェルゴを倒せば、自分の弱さも克服できる。そう盲信していた。
「結果、魔導師の女は死んだ。人狼の娘も死んだ。お主の起こした過ち一つで」
少女の目線は、真っ直ぐに水野たちの方を見ている。
ああその通りだ。お前の言うことには寸分の狂いもない。
でも。
「じゃあ、俺はどうすりゃ良かったんだよ……」
自分が弱さと向き合えていなかったこと。それはわかった。
けれど、頭で考えることだけが正解じゃない。心を殺してまで望むものが、果たして本当に価値のあるものだとは言えないんだ。
あの時、俺は助けたかった。力量がどうとか、ややこしい話は抜きにして、なんとか水野を救いたかった。
「…………」
少女はいつの間にかこちらを見下ろしている。無言で俺の話を聞いていた。
「弱いやつが誰かのために戦っちゃいけないのか。黙って守られるだけでいろって言うのか」
溜まった不満を吐き出す。
「そんなバカな話があるかよ。人を想って命をかけることの、どこが間違いだってんだ」
湧き出る泉のように、言葉はとめどなく溢れ出した。
「俺はどうなってもよかった。ただ、大切な人を守りたかっただけ」
……今は何を言っても届かないけれど。
と、不意に大きなため息が聞こえた。
少女のものだ。
「……生きるも死ぬもお主次第じゃが。
少しだけ猶予をやろう。今のお主は道端の糞と同じじゃ。存在する価値すら無い。儂が戻ってくる前に、せめて己の価値くらいは見つけておけ」
そう言うと、音もなくどこかへ消えた。
また、静かになる。
俺は失意のドン底にいた。
心に光なんて欠片も残っていなかった。
全部、俺が悪いんだ。
俺が判断を誤ったから。
俺が意地を張ったから。
代償は大き過ぎたのに、得たものは何もない。
滑稽を通り越して、もう哀れだ。
そう思うと自分でも笑えてくる。いっそ笑い話として後世に残してもらおうか。
「……ははは」
喉の奥から乾いた笑いが出た。
ここには俺を笑ってくれる人も、気にかけてくれる人もいない。
完全に一人ぼっち。見まごうことない孤独だ。
笑いでもしなければ本当に気が狂っていただろう。
目の前は真っ暗だ。進むはずの道も、目指すべき場所も、もう見えない。
前を向こうだなんて思えなかった。