プロローグ・ゼロ
夢を、見た。
心地よい、あたたかな夢を。
柔らかい、春のような夢を。
今はもうほとんど思い出せないが、とても美しく、そして儚いものだったことだけは覚えている。僕には眩しすぎて、手の届かないようなものだったことも。
雨が体に激しく打ちつける。閉じかけていた目蓋を開くと、そこでようやく我に返った。
町の一番高いところ。小高い丘に生える大木に、僕はもたれかかっていた。
全身を奇妙な感覚が包んでいる。首を動かそうとして、ピクリとも反応がないことに気がついた。それでも動かそうと懸命に試みたが、ほんの少し頭が傾くだけだ。
意識がはっきりとしてくると、そこでようやく自分の状態がわかった。
右足は雑巾を絞ったようにズタズタになり、腹にはポッカリと大きな穴が開いている。向こうに転がっているのは右腕だろうか。辺り一面血の海だ。誰の血なのかは考えるまでもない。先ほどから聞こえる耳鳴りは、どうやら自分の呼吸音だったようだ。
「ははっ……そうか、僕は……」
雨の音にかき消されそうなほど小さな声で、無意識にうめき声を上げた。
いつも通り街に出かけて、その後……。
ダメだ。もう考えることすらままならなくなってきた。どこまでが現実で、どこまでが夢かわからない。もっと肉食っときゃよかったと、生まれて初めて思った。
「ここで終わりかぁ。なんだかあっけないな」
半ば諦念の気持ちを込めて、自嘲混じりに呟く。
一瞬、真っ黒な空に楽園が見えたような気がしたが、あそこが世に言う天国だろうか。だとすればかなり近い。幽霊が出るのも、当然と言えば当然だ。すでに死んでいるのなら、わざわざパラシュートをつけてスカイダイビングする必要もない。まあ、その分帰りは辛そうだが。
思えば、後悔と自責にまみれた人生だった。
過ちを犯し続け、命を殺め続け、間違い続けた結果がこれである。人間失格もいいところだ。
無意味に罪を重ね、誰にも罰せられずに生きていくのは許されない。どこかで自らの行いを清算するように、この世界はできているのだ。
因果応報。まさにその通りだと思う。
……でも、少しは幸せだったと言える人生を送れただろうか。
僕はみんなから、たくさんのモノをもらった。
彼女に出会った星の降る夜。
娘に出会った日の昇る朝。
息子に出会った春の日。
どれも大切な宝物だ。
今ではもう、その恩返しすら叶わないけれど。
せめてこれだけ。
「ありがとう」
とてもいい夢だった。