見知らぬ男
首が折れた状態で生存していられる人間は、知る限り、居ない。
目の前で、横向きの視線をこちらにくれる見知らぬ男は、僕の存在を認めるとニタリと笑んだ。笑みに関する語句はいくつかあるが、それはただただ不気味なだけに思える。嘲りも、苦々しさも、冷たさも無く、そして微かと言うにも大仰だった。
目と目が合ってしまったのが、良くなかった。しかし目の前にそのような男が居て、その首周辺に視線を向けないで居られるわけもない。案の定、はっきりと、お互いを認識してしまっている。
彼は生きていない。そんなことを改めて考え落とし込む必要などないのに、改めて落とし込んだ。彼は明確に、自分とは異なる存在なのだと理解する。
「俺を見えるやつが、本当に居るとはね」
男はそう言いながら、一歩、そしてまた一歩と、こちらに近付いてくる。世界が横向きになると歩きにくいものなのか、その足取りは覚束ない。酔っ払いのようにも見える。どちらにしても性質が悪い。
幽霊が見えてしまうからと言って、必ずそれと関わらなければならないなどと言った義務はない。見える。あるいは、見えてしまう。それだけの話に過ぎない。
だから当然、やり過ごそうと思った。過去、幽霊に関わって良い想いをしたことなどない。感動も、同情も、そこには無い。ただ彼らの利己的な目的のために利用されるのが、僕という立場なのだ。利用されて喜ぶ人間は居ない。常に誰かより上に居ると錯覚するからこそ、地に足が着くのだ。そして今現在、僕は生きているが故、彼よりも上の立場にあると、錯覚している。感情など全てが錯覚で、欠陥だ。
何より、このままでは講義に遅れてしまう。そもそもが、電車一つ乗り遅れたら間に合わないような時間に出ていることが悪いのだが。
脇をすり抜けようとしたところを、腕を掴まれた。ように感じたが、それはするりと通り抜け、彼は空振りを食って、代わりに舌を打った。どうやら、人間としての感覚が離れつつあるらしい。こういう種類は、今までに何人か出会ったことがある。
「ちょっと待てよ」
声によって制止を掛けられるが、それを無碍に、その場を去った。
薄闇の中、街灯の下に今朝の男の姿を認めた。輪郭ははっきりとそこに存在するが、当たり前のように影はできない。周囲に視線を散らし、ほかに人の気配が無いことを確認すると、彼に声を掛ける。彼の死んでからの時間の中で、半日程度誰かを待つことなどさしたる苦労でもなかったのかもしれないが、こちらの気分としてはそれを軽くは流せなかった。こういう部分が、人間として、損なのだろう。
男はこちらの声に反応して、また、ニタリと笑んだ。
「用件はなんですか」
「ある女に、会ってほしい」
「それだけならばあなたにもできるのでは」
「そうだな、できる」
「なら何をして欲しいんですか」
「会って、俺の名前を告げるだけで良い」
手短に会話を進めていく。こうしている間にも誰かが通らないとも限らない。幽霊が見える、話ができるからと言って、周囲に対してそれは認知されにくい。独り言を呟く怪しい人物など、願いもしない。
彼がその女性に会って自分の名前を告げることでどのような事象が起き、それが死んでいる彼にとってどのような利益や価値を持つのか、想像することはしない。彼らでなくとも、そんなことをあえて訊ねるのは野暮に違いなく、また、どのような間柄であろうと、訊ねる権利は存在しないのだと、知っている。
幽霊にとっても時間は有限か、という問いがあったのならば、その答えは、イエスだ。知る限り、見てきた限りでは、彼らにも存在できる時間の限りがある。いや、より正確に言うなれば、彼らは再度死ぬことはなく存在自体はし続けるのだが、そこに人間性が伴わなくなるのだ。要するに、下落していく。そして人間が自分の細胞の変異を自覚しないのと同じで、彼らも、彼ら自身の性質が醜悪で、粗暴で、汚いものに移り変わっていくのを自覚しない。それは、悪霊でも、鬼でもない。死して尚生きながらえようとすること自体が理から外れた所業なのだ。そんなものに、名前が付く筈がない。
彼がそうして一番下まで落ちきってしまうまでにあとどれくらいの猶予があるのかはわからない。人間の、寿命という概念と同じで、そうなったときが期限だったと、結果論でしかない。そして、それが自分に関係のないところで行われるのであれば、全く、どうだっていいことだ。
「わかりました」
その返答は、これ以上僕を待たれても困る、それこそ家にまでついてこられては困るという考えから導いたものだった。
男は満足そうに、しかしそれまでと変わらぬ様子で、笑む。
翌日には男の手引きでマンションの一つの前に立っている。ここに目的の女が居るらしい。
階段を上っていく。五階に着いて、男が示したドアの前に止まる。
「この時間は居るはずだ」
インターホンを押す。その動作のあと、果たしてなんと説明すれば良いのかと考えていたが、それを見越したように男が、
「名前を告げれば良い。聞かれたことには正直に答えるだけで良い」
続けたので、頷く。
出てきたのはラフな服装をした、同じ年頃の女だった。見知らぬ男が訪れる可能性を全く考えていなかったかのように無防備で、ある意味では、色気に満ちていた。
女は緩くパーマをあてた髪を揺らして、まるで隣の男のようにぐたりと首を曲げ、斜め下から見上げるように僕の顔を見た。
「誰?」
「中本悠太郎」
事前に聞かされていた男の名を告げる。
女は、はっとしたように顔の向きを整えた。こちらを直視する目に、色が宿る。それは、猜疑ではなく、衝撃に思える。男の名がどうしてその女にそのような事象を齎すのかは、考えない。
「嘘、だって、え、本当に?」
ひとりで何かを呟き、口元に手を当てる。その後、詳しく話を聞きたいと部屋の中に誘われたが、それを断る。できればここで話を終えたい。多分、聞かずとも、僕の中で、一つの推論が出来上がっていたせいでもある。
「とりあえず、中本さんはここに居る」隣を見た。男の顔に表情は無い。「頼まれたから来ただけなんだ。もう帰りますよ」
腕をさするような動作をしながら、
「そう……、ありがとう」
女はそう言った。
中本を置いてマンションを去る。
彼らの関係がどのようなものであれ、僕には関係が無い。死んだ人間の名を聞かされ、それでも恐怖や嫌悪を示さない様子を考えれば、ある程度の推測など、誰にでも立てられる。
誰かのために何かをしているわけではない。礼がなくとも、別に憤りなど生まれない。
ただ僕は、どうしてこのような能力が自分の身に、まとわりつくように存在しているのか、その意義を探しているだけに過ぎない。そんなもの存在しないことなど知っているのに、何か、意味のあるものであってほしいと願うことが、止められない。
利用されているとわかっていながらも、その手に乗ってあげるのは、優しさではない。
僕には僕自身こそが、見知らぬ男なのだ。
そろそろまた、大嫌いな夏が来る。それまでに、自分が誰なのか、理解してやれると良い。
頬を撫ぜる風は、誰かの息吹のように、通り過ぎていった。




