アネモネの魔女
「おばあちゃん、お話して」
小さな女の子がおばあさんの元にかけよって言った。
女の子はおばあさんがするお話が大好きだった。
おばあさんはにっこりと微笑んで女の子の頭を撫でた。
「いいわよ。それじゃあ今日は何の話にしようかねえ…」
しばし思案して、おばあさんは手を叩いた。
それは彼女がお話を始める合図であった…
むかし、小さな国のはずれの森にすみれ色の瞳に艶やかな黒髪を持った若い、美しい魔女が住んでいた。
両親を早くに亡くし、ひとりぼっちで暮らしていた魔女はいつもどこかさみしかった。
ある日のこと、森にその国の王子が狩りをしにやってきた。
その森には人が来ることがあまり無く、魔女にとって久々に人が来たことは嬉しい出来事だった。
魔女は幼い時に両親に、「人にはあまり関わってはいけない」と言われていたが好奇心に負けてひっそりと見に行った。
魔女の見たことのない、王子のしている「狩り」という遊びは彼女の心をときめかせた。
喜びと好奇心とでふわふわとした気持ちの魔女は王子から少し離れた木の影からその姿を見ていた。
その時、魔女の隠れている木の方に兎が走ってきた。
しかし、王子の姿を見るのに夢中な魔女は気がつかなかった。
王子は兎に気がつき、矢をはなった。
自分の方に矢が飛んできたことに魔女はびっくりして小さな叫び声を上げてしりもちをついた。
木の瘤にしりを打ち付けて痛みで目をつむった魔女の頭の上から低く、通る声が降ってきた。
「大丈夫かい?」
魔女が目を開くと、目の前に王子がいた。
魔女は驚き、また叫び声を上げそうになった。
「大丈夫かい?」
心配そうに王子がもう一度魔女に尋ねた。
魔女は頷いて、立ち上がろうとした。
けれど、魔女は立ち上がれなかった。
しりをぶつけただけでなく、腰もぶつけていたようで両方がひどく痛んだからだ。
「君の家まで送ろう」
王子はそう言って魔女をおぶった。
魔女はその広い背中にもたれ、どきどきと鳴る心臓に戸惑っていた。
その日から、王子は魔女の怪我の様子を見ると言って度々森にくるようになった。
そう、どこか浮世離れした美しい魔女に王子は惚れていたのであった。
また、魔女も今までひとりであったさみしさもあり王子が来ることが嬉しく、心惹かれていった。
そうしているうちに、二人は互いを好きになり、恋人同士になった。
それからしばらくして、王子は小さな国を強くするため隣国の姫と結婚することになった。
けれど王子と魔女の交流は続いており、王子はそのことで頭を悩ませた。
もちろん、魔女のことを愛していないわけでは無かった。
しかし、彼にとっては国の方が優先すべきことであったのだ。
悩んだ末に、王子は魔女にこう言った。
「遠くの戦にならねばならない。もうここには帰って来られない。」
その言葉を聞いて魔女は涙を流して王子に別れを告げた。
そうして数年後。隣国の姫と結婚した王子は王となり、お世継ぎとなる男の子を授かった。
盛大な祭りが開かれて、国中が喜びに包まれた。
そんなことなどつゆ知らず。魔女は相変わらずひとりで森の中でひっそりと暮らしていた。
彼女は王子との思い出を抱いて生きていた。
そんな時、森に小鳥がやってきて澄んだ声でこう歌った。
王様にお世継ぎ様が生まれたぞ。
かつてこの森にいらっしゃった。
あの王子様が立派になられた。
魔女は驚いて小鳥に尋ねた。
「あなたが今歌ったことは本当なの?」
小鳥は言った。
「本当だよ。魔女様。私はこの目でお祭りを見たんだから!数年前にご結婚なさった王様と隣国のお姫様の間に御子が産まれたのさ!」
そのことを聞いて、魔女は別れを告げた時の王子の言葉が嘘であったとさとった。
裏切られたことへの絶望感と、今まで味わったことの無い激情が魔女を押し潰した。
その日の夜、怒りに突き動かされた魔女は短刀を懐に忍ばせて城へと向かった。
あれだけ愛していた王子へ憎しみが芽生えかけていた。
真夜中に城についた魔女は窓からこっそりと王子、否、王と妃の寝室に入った。
短刀を懐から出して、足音を消して一歩ずつ、天蓋付きのベットへと魔女は進んだ。
その時、目の端の方にちかりと何かが光った。
魔女は光の方を見た。
光の正体は鏡に写った月の光であった。
そうして、その鏡の中には月とともに血走った目の鬼のような女の姿があった。
そう、それは魔女の姿だった。
己の醜い姿を見て、魔女はふと我に返った。
手の中の短刀をじっとみて魔女は思った。
(ああ、わたしは何故こんなものを持ち今ここにいるのか、わたしは彼を、そして彼の妻と子も殺そうと思っているのだろうか)
確かに、魔女は王に怒りと憎しみを抱いた。
けれども、魔女は今だそれ以上に王を愛していた。
魔女の心は水面のように頼りなく揺らいだ。
(彼はわたしを裏切った。)
けれども、どうしようもなく魔女は王を愛しているのだ。
魔女は目をつむり、顔をその白い手で覆った。
しばらくして、魔女は目を開けて、短刀を懐にしまった。
彼女は怒りと憎しみを心の中にしまうことにしたのだ。
魔女は森へ帰ろうとした。
そのときだった。
魔女の心臓を背後から刀が貫いた。
魔女が驚いて振り向くと、そこにはかつての王子がいた。
「妻も、子も、私も、お前の手にはかけさせぬ」
かつてとは違う冷たい瞳で、されど昔と変わらぬ声で王がいった。
魔女の心はどうしようもない哀しみで満たされた。
その哀しみは憎しみも、怒りも、愛さえも超えた。
魔女は地に倒れ、月の光に照らされて一筋の涙を流し息絶えた。
「今日の話はこれでおしまい。」
祖母のことばに女の子は不満そうに頬をふくらませた。
「なんか…納得いかない!」
女の子の言葉におばあさんは少し笑ってしまいました。
かつて、おばあさんがはじめてこの話を聞いた時に、女の子とまったく同じことを言ったからです。
おばあさんが笑ったことに不満な女の子は怒っていいました。
「だって、おかしいでしょ。嘘ついたのは王子様なのに、魔女は悪いことしてないのに」
おばあさんは女の子の瞳を見て言いました。
「これはね、わたし達魔女への教訓なんだよ。」
「教訓って?」
女の子はふくれてたずねました。
「魔女は深く人には関わってはいけないということさ、特に王子にはね。
王子と魔女は相性が悪いんだよ。
お前も人間の童話で魔女が王子に倒されることが多いのは知っているだろう?」
魔女の言葉に女の子は言いました。
「でも、それは悪い魔女じゃない。悪いことをしない良い魔女だっているのよ」
おばあさんは女の子の頭を撫でて言いました。
「お前の言うことは正しいよ。だけど、人間の中には魔女という存在をひとくくりで見ている人がいるのさ。
だからね、」
「この話を忘れないでおくれ。」
女の子は納得していないようでした。
そんな女の子の姿を見て、おばあさんは愛おしそうに、そして少し悲しそうに微笑みました。