8『スティール・メイト』
「今日こそ勝つよ」
お父さんへの宣戦布告。今日は、負ける要素がひとつもないから。
「本当に勝つ気?」
「逆に負ける理由が見当たらないけど」
お父さんは「そうなんだ」って言うと、駒を並べ始めた。相変わらずの余裕めいた表情が気に食わない。今日はその顔をズタズタにしてやる。
「じゃあ、私から」
私はポーンを進ませてビショップの道を開けた。
リストカットはもう、やめることにした。そろそろ飽きたし。リストカットに代わる、大事なものを見つけたから。新しいお父さん、曇木夏樹。
私が本当に欲しかったのはお父さん。そう気付いたから、私はリスカから逃れても案外やっていけそうな気がする。『リスカ依存症』だから、そう簡単にはいかないかもしれない。でも、お父さんがサポートしてくれるなら、やってみる価値はあると思う。
「ねぇ、何か賭けてみない?」
「賭けるって何を?」
「お互いの恋愛」
私が何気ない表情で提案すると、お父さんはいつものように動揺せず「ふぅん」って呟く。
「OK。ただ、君が勝てたらの話だけどね」
こういうのって初めてで言いにくいんだけどさ。
二人目のお父さん、曇木夏樹は『男性』だった。一般的にも男性で、私の中でも男性なんだ。今まで、お父さんしかいなかった私の『男性』に、雲木夏樹がドカドカと入ってきた。
彼がとても愛おしい。それは私がお父さんに向ける感情で、リスカに向ける感情で、『私=曇木夏樹』の公式が成り立てば、どれだけいいことなんだろうって、思ったりもするんだ。
「チェック」
両方の駒が少しずつ減っていって、お父さんがチェックをかける。
「君が望むなら、何をしてもいい。綾芽さん、だっけ?」
私はルークを壁にして、キングを奥に逃がす。キャッスリング。
「本当に、君が望むのなら」
一手一手、攻防がどんどん進んでいくなかでそう言ったお父さんの顔を見る。
「『だっけ』は余計でしょ」
「チェック」
気がつくと、ポーンの壁の前にお父さんのナイトが進んできて、チェックをかけてきた。とっさにビショップでナイトをとる。ちょっと、まずくなってきたかなぁ・・・
「やっぱさ、三回勝負にしない?」
「そうすると、君の勝つ確率より俺の勝つ確率の方が上がると思うんだけど」
うぅ、確かに・・・けど、大丈夫。今日は負けるはずないから。
お父さんがポーンを動かすと、私は大きく深呼吸して、お父さんに微笑んだ。
「私が望むなら、何でもしてくれるんだよね?」
「君がチェスで勝ったらね」
お父さんも私に、微笑を返してくれる。
「私がリスカしようとしたら、止めてくれるの?」
「君が望むなら」
「その約束、破ったらどうなるか保証できないけどなぁ?」
私が黒い笑みを浮かべると、お父さんは私の前で初めて苦笑した。
「手加減したつもりはないんだけどね」
リストカットほど、気持ち良いものはない。なのに、私はそのリスカを手放そうとしてる。
「それで、君の欲しいものは手に入るの?」
お父さんの問いに、私は自問自答してる。今でもわからない。リスカで、私が得てるものって何なのだろう。
だから私は、別の道を探すことにした。リスカに溺れて逃げても何も得られないのなら。
じゃあ、そろそろ逆転の時間かな。
「チェック」
私は余裕たっぷりに笑みを浮かべて、顔を歪めるお父さんを見つめていた。