14『決意と報告』
次の日。私はお父さんに会うためにいつものベンチに向かった。正直お父さんに会うのは怖かったけど、逃げたままでいれるわけない。
ところが、ベンチに向かってみるとお父さんは何もなかったのようにチェスを打ってて、気づいたら私は普段と同じようにチェスを付き合ってた。謝らなきゃって構えてた私は拍子抜けして、そのまま何もなかったようにあやふやにして流してしまった。
ちゃんと謝るべきだったのかもしれない。けど、お父さんが普段通りに振舞うのは『人間卒業はもう関わりたくない』っていう意思表示だと思った。だから私は何も言わなかったし、それから人間卒業の話が出ることはなかった。
けど、それはお父さんの信頼の上に成り立ってる無言のタブー。私が人間卒業するって信じてるから、お父さんは何も言わないんだ。
だから、私はその道を進み始めた。人間を卒業する準備を。
私が保健室のドアを開けると、鈴木先生が真っ直ぐ瞳に映った。鈴木先生は椅子に座って足を組んで、何かの書類をリラックスした体勢で読んでいた。
この人にも、ちゃんと言わなきゃ・・・
「おや、水城さん。またサボリですか」
言葉とは矛盾して鈴木先生は不快な顔一つせずに微笑んで、歓迎ムードで私を職員室に入れてくれた。いつものように、私にコーヒーを差し出す。私はコーヒーを受け取るとテキトーにベッドの上に座った。
コーヒーを口にすると、馴染んだ香りと苦味を感じた。この味も来年には忘れてしまうと思うと、少し不思議な感じがした。自分の中じゃ些細なことで見向きもしなかったけど、この味も『水城綾芽』の欠片になってたんだ・・・
「何か御用ですか?」
鈴木先生は自分のコーヒーを入れながら私に尋ねた。
「報告があるんです。私は・・・人間卒業を決めました」
「そうですか・・・」
そう言って鈴木先生はコーヒーを一口含んだ。その顔に笑みはなくて、ただ忘却の瞳が遠くを映していた。それは、私が始めて鈴木先生の本心を覗いているのかもしれない。
何を考えているんだろう。この私の決断に、何を感じているんだろう。彼のシナリオは、私の決断で狂ったんだろうか・・・
「あなたが決めたのなら、それでいいのではないでしょうか。私が口出しするものではありませんよ」
「鈴木先生は、いつからこの結果が見えているんですか?」
死神は「おやっ」とか「ほうぅ」とかとぼけることなく、ただ冷たい瞳で私のことを見つめていた。
その死神は、私の知ってる鈴木先生ではなかった。きっと私は、本当の彼を見てるんだろう。
「あなたと会ったときから、こうなることはうすうす感じていましたよ。水城さんは私と同じのような気がしましてね」
「私と同じ・・・ですか」
「えぇ、そうですよ。あなたもどことなく感じているでしょう?」
死神は飄々(ひょうひょう)とした表情でコーヒーを飲む。
確かに、そうかもしれない。私と鈴木先生は、どことなく似てる。いや、似てたんだ。
目に映るモノに幻滅を見出す瞳。それは生きることも死ぬことも、ありとあらゆるモノに期待が持てない人間なんだ。
あのとき、私とお父さんが似てるといったこと。あれは、私とお父さんと鈴木先生合わせて、そういう人間だったってことなんだ。
「人間じゃないんですよね、鈴木先生は」
「それはどうでしょう。それに、人間卒業者は過去のことを忘れてしまうのではないのですか。少なくとも、私は今まで人間だと思って生きてきました」
「鈴木先生は・・・」
私は思わず口を閉ざした。聞くのは失礼だと思ったし、私が望むような返答は来ないような気がした。
「何でしょう」
死神は微笑んで首をかしげる
「先生は・・・」
聞きづらくて、なかなか言葉が出てこない。
「それで、幸せですか?」
私は細く弱い声で尋ねてた。
死神は即答はしなかった。ゆっくりコーヒーを飲んで、じっと何かを思い出すように、考えるように遠くを見つめていた。
返答のない、無言の時間。この死神の口が開くまで気長に待つしかないって、私は少しぬるくなったコーヒーを、ちょっと早いスピードで飲む。
この死神にどんな過去があるのかなんて、私は知らない。この死神が何を考えてるかなんて私は知らないし、知る必要もない。
けど、この浮世離れした中年オヤジは、全てが見えてた。あの初めて会ったときから、この結末も、その先すら見えてたんだろう。
それは、幸せなんだろうか・・・
全てが見えて、全てが思う通りにいって。それじゃ、何も感じなくなる。楽しくもないし、悔しくもないし、面白くもない。嬉しいってことも、悲しいってことも何もない。
私のようだった。リスカに溺れる未来しか見えなくて、何も感じなかった私みたい。
それは決して、幸せではないような気がする。
その沈黙は長く続いたような気がして、私はもうコーヒーを飲み干してた。
死神は私の方を振り向く。唇を動かして、笑顔をつくって
「幸せですよ」
って笑った。その微笑は何かを堪えるような、そんな面影を見つけたのを、私は黙ってた。
「じゃあ、いいです」
私はベッドから立ち上がって死神にカップを返す。
「そろそろ行きます。もう二度と鈴木先生と会うこともないと思います」
これからは、人間卒業の準備があるから鈴木先生なんかに構っていられない。それに、卒業しちゃったら鈴木先生のことなんか綺麗さっぱり忘れちゃうだろう。
「そのようですね。寂しいものです」
「さようなら。今までありがとうございました」
「えぇ、お元気で。さようなら」
私は振り向かず、保健室を出て行った。そのとき、死神が呟いた独り言を、私は聴いてしまった。
『あなたに会ったことを、私は後悔していますよ』