12『亀裂』
朝早くから、私はいつもの場所でチェスを打つ。お父さんはまだ来てない。
私はチェスを本を片手に、駒を動かす。ただ読んでるだけよりは、実際にやってみたほうがわかりやすいから。だけどこんなおじさん臭いところお父さんにも誰にも見られたくない。それに、全て内緒のままお父さんをボコボコにしたいから。
「他でもない・・・私の歩く道・・・」
ふと、私は鈴木先生の言葉を口にする。
本に書いてある必勝法は全然頭に入らない。人間卒業のことが、頭から離れられないんだ。
逃げられないよ。このままあやふやにできるなら、今すぐにでも忘れたいけど・・・だけど・・・
私が考えようと忘れようと、いずれ私は卒業しちゃう。受験だってある。もう残された時間は少ないのに・・・
「そんなの・・・決められるわけないじゃん・・・」
「どんなこと?」
突然声が聴こえて、後ろにお父さんがいた。私は慌てて本を抱えるように隠して、顔を紅くしてお父さんを睨んだ。
「・・・おはよう」
「おはよう。一局だけなら、付き合おうか?」
お父さんは私が返答する前に私の向かい側に座って、駒を並べ始めた。私はそっと本を後ろに隠す。
「で、何が決められないわけ?」
こいつ・・・わかってるくせに・・・
「・・・なんなのさ」
私はポーンを動かして、小さく呟くように言った。
私はお父さんにむかついた。私の気持ちも知らずに、人間卒業なんて言い出すお父さんに。すごく悩んで苦しんでるのに、茶化し始めるデリカシーのないお父さんに。
『結果あなたを傷つけ困らせています』
鈴木先生の言葉を思い出す。一度油を注いじゃった私の怒りは止まることを知らなくなってしまって、私は憤怒の瞳でお父さんを睨みつけた。
「お父さんは、私のことからかってるの? ふざけないでよ! お父さん自分が何やってるかわかってないでしょ! 突然あんなこと言うなんて、遠まわしに『人間やめろ』って言ってるのと一緒じゃん! もし冗談であんなこと言ったなら、非道すぎる・・・最低だよ」
言ってから後悔した。やっちゃった・・・終わった・・・
いろんなことが、瞬時に頭の中をグルグルと巡り回っていく。こんなこと言うつもりなんて全然なかった。最低だなんて、思ってるわけないじゃん・・・
私はお父さんを悪く言える人間じゃない。現に、こうやって何も考えずお父さんのことを傷つけてるから。カッとなっただけで、平気でそんなことができる冷酷な人間だから。
けど、私は何も言えなかった。『ごめん』の一言も、『違う』の一言も。お父さんを批難したまま、時間だけが過ぎていく。
ゴメンナサイごめんなさいゴメンナサイごめんなさいゴメンナサイごめんなさい・・・
私は心の中で謝り続けた。その中で、どうかお父さんが私を見捨てないようにと祈ることしかできなかった。
チェスは私が止めたままで、私が駒を動かさないから進展することはない。
「冗談じゃない」
お父さんはただ、それだけ言い捨てた。普段通りの、無表情な顔で。
すっとお父さんの手が伸びる。お父さんの細い指は私の手を掴んで、左手のリストバンドを掴んだ。
私はドキッとしたけど、その手を振り払うことは無かった。優しく左手首をさするお父さんの手を、その感触を、その重みを、その温もりをただ感じて、少し官能的な気分になる。
「苦しいんでしょ」
お父さんの声は、私の頬を撫でるように優しかった。
「リスカ。我慢するの、苦しいんでしょ」
何も言えなかった。図星だから。私は暗い顔をして、ゆっくりと頷く。
「信じてないわけじゃない。君が必死に我慢して耐えてることは知ってる。けど・・・何て言うか・・・君はきっとリスカから離れなれない。切らなくても、これから一生耐え続けなきゃいけないような気がする」
そうかも・・・しれない。それぐらい、勘付いてた。だって、私ここまで深く自分のこと傷つけてて・・・手首の傷が治っても、私がリスカに溺れた時間は、お父さんを失った苦しみは絶対に消えることはない。それは、私の心を深くえぐった傷になる。
「そんなの・・・わかってるよ・・・」
私は惨めで、正論なんか言えなくて、ただお父さんの言葉に反抗するだけ。
「頭じゃわかってるよ、ずっとリスカに苦しめられることぐらい。でも・・・心がついていかない。だって、お父さんを失うなんてつらすぎるから・・・」
「それも全部、綺麗に忘れてくれたらいい」
お父さんはそのまま私の左手をギュッと掴んで、そんな寂しいことを言った。
それは優しすぎて、優しいから私にとっては痛かった。
「・・・やっぱり何もわかってない」
気づいたら私は盤上の駒を握ってた。その勢いのまま、私はお父さんに向かって投げ捨ててた。駒は散らばっていって、もうチェスどころじゃなくて、私は無表情なお父さんを睨む。
「もういいよ」
自分で言ったことだけど、何がもういいのかわからなかった。お父さんに対して? 自分に対して? それとも、この状況に対して?
けど一つわかるのは、その理由もわからない怒りをお父さんにぶつけてることだけ。
私は逃げてた。そのまま、この場から逃げた。お父さんの顔を見られなくなって。こんなことになっても何も感じないのは、きっと現実から逃げてる証なのかもしれない。
その日は授業なんかに集中できなかった。でも、お父さんとはどういう顔をして会えばいいのかわからなくて、昼休みも放課後もあのベンチに行くことはなかった。