11『私と死神』
人間卒業・・・人間卒業・・・人間卒業・・・
あのあとずっと、お父さんが言った四字熟語がグルグルと頭の中を回り続けた。
おかげで授業にも集中できないから(まぁ、何もなくても集中するつもりはないんだけど)、保健室でサボリ。
保健室の椅子に座りながら、じっと私は左手首を見つめた。私の手首はお父さんがくれたリストバンドが守ってくれてる。このリストバンドは私とお父さんとの唯一の繋がりのような気がして、私の大事な大事なタカラモノ。
ぼんやりと考えていると、ふと衝動に駆られて手首を切ってしまいそうになる。お父さんからの信頼は捨てられないから、手首がうずくのを必死に私は抑えている。
人間を卒業する。考えたことがないわけじゃない。お父さんと会うまでは、その道も進路の一つに入れていたんだ。
けど、まさかお父さんからそんなこと言われるなんて思っても見なかった。きっとお父さんは私のことを想って言ってくれたってわかってるけど、頭の中じゃわかってるけど・・・ショックだったよ、傷ついたよ。
わかってる? 人間を卒業するってことは、『水城綾芽』っていう人間を捨てるってことだよ。私はお父さんとは違う生き物になって、何もかも忘れて、新たな存在として生きてくことになるんだよ。
そりゃ、完全にリストカットと決別できるかもしれない。一人目のお父さんの死も、ここまで歪んでしまった私の心も、全てゼロにすることができるかもしれない。けど、それはお父さんのことも忘れてしまうってことなんだよ。
「どうしたのですか、水城さん?」
ふと呼ばれて前を向くと、私の視界に唯一保健室にいる他人、鈴木先生が映った。少し心配そうに、けれど裏を持った何色ともいえない瞳が、私を見つめる。
鈴木先生は保健室に住み着いた死神。って私は思ってる。浮世離れしすぎてて、謎の人。明らかに私とは合わない人。絶対に関わり合いになりたくないタイプ。
ところが、私が一騒動おこして(授業中にリスカしちゃったんだけどね)、彼の指導を受けることになって、それで私とこの死神は知り合いになった。それから、この死神とは変な縁が続いてる。
「切りたくなっているのですか?」
私が左腕を抑えてるから鈴木先生はそんなことを尋ねたんだろう。
私は鈴木先生の顔を見つめる。この人に気を許してはいけない気がするけど、この死神なら的確なアドバイスを返してくれる気もする。
賭けだね。腹の探り合いで勝敗が決まる。
「わかりますか?」
「えぇ、わかりますよ。さらに言うと、何か悩んでいるのでしょう。水城さんは強い方ですから。何かに悩んで、切りたくなるほど心が弱くなっているのでしょう」
鈴木先生は変な自信と余裕を含ませてニヤリと笑った。やっぱ、この死神は油断できない・・・
「何でそんなこと・・・」
「曇木さん、お父さんのことですね」
えっ・・・
ドキッとして、私は動けなくなった。何で・・・何で私が曇木夏樹を『お父さん』って呼んでることを知ってるの? 恥ずかしいから、人前で曇木夏樹を『お父さん』って呼んだことはないのに。もちろん、鈴木先生の前でも。
「相談なら、いつでも受けていますよ♪」
あ~あ、この死神には勝てないな。何も隠しておけない。
私は肩を落として、諦めムードで鈴木先生に全部話した。
人間卒業をお父さんに勧められたこと。それで私が傷ついたこと。
人間卒業がベストな選択肢だってわかってるけど、怖くて仕方ないこと。
それでいろいろ迷ってるってこと。
「・・・また曇木さんも冷たいことを言いましたね。いくらそれが正しいといっても」
予想外だった。鈴木先生がお父さんを責めるなんて。本当に予想外だったから、私はお父さんを否定したってちょっと怒ってた。
「水城さんのことなど何も考えていなかったのでしょう。でなければ、水城さんが傷つくことくらい簡単にわかるでしょうに」
さすがに、言いすぎだ。
「別にあいつはそんなつもりじゃ・・・」
「ですが、結果あなたを傷つけ困らせています」
鈴木先生は切り捨てるように言った。その顔に笑みはなくて、ただ虚ろな瞳が私の顔を映していた。
反論なんかできやしない。だって、客観的に考えたら鈴木先生の言うことが正しいから。お父さんが人間卒業のことを口にしなかったら、心の中に留めてくれてたら、私は傷つくこともなかったしここまで悩むこともなかった。今こんなにリストカットを我慢することもない。
私が何も言わないでいると、急に鈴木先生はクスクスと笑い始めた。
「本当に面白い方ですね」
「どういう意味ですか」
私はしかめっ面で鈴木先生に尋ねた。
「あなたは正しいですよ。私が言っていることはムチャクチャです」
鈴木先生は不器用に微笑む。
「私は何も解決策を出すことはできません。これは、あなたの進路なのですから。水城さんが自分で悩んで、自分で出した答えでないと。それは私が決められることではありませんし、曇木さんも同じです」
鈴木先生は微笑んだ。その笑みは、前に一度見たことがある。私に曇木夏樹を紹介したときの笑みだ。何か面白そうなものを見る瞳。何もかも見通す瞳。結末すらも、見通す瞳。
鈴木先生には何が見えているんだろう。
「他でもない、あなたの歩く道です」