宴
満月が空のまうえに昇るころ、夕の宴が始まった。
李は部屋に用意されていた水で体をふき、髪に櫛を入れ結い直した。背負ってきた荷から油紙で包んだ礼服一式を取り出し着替えを終えるあたりに案内の女儒が迎えに来た。
館の長い廊下には、ほのかに花の香りが漂っていた。青白い月明かりが眩しいほどで、軒を支える柱の影が床に等間隔で並んでいる。その静寂を李はしばし楽しんだ。
一転、通された広間は夜とは思えないほどの明るさで、李は目がくらんだ。多くのろうそくが惜しげもなく灯され、まるで昼のようだ。
広間の中央には長い卓がしつらえてあった。三十人分ほどの椅子がすでに埋まり、一番奥まった場所には上質の袍をまとった劉がいた。
劉は李を見ると不敵に笑い、玻璃の杯を口に運んだ。戸口に立っていた、ひげの老執事に促され、李はすくみそうになる足を動かした。
身なりを調え会場に現れた李を見て、先ほどから給示の女官たちが顔を寄せあい小声で盛んに言い交わしている。
李は自分の顔だちが皆とは若干ちがい、ことに礼服姿になったときに異質さをかもし出すことを承知している。女官たちの視線を気にせず、案内された席に座った。急な訪問のせいもあるだろう、ほぼ末席だった。
こういった扱いも劉が李の度量を試しているように思え、上座にいる劉を見ずにはいられない。劉は李には目もくれず両隣の男性客と話をしている。
「あなたさまは、西域から?」
隣に座った、丸顔にどじょうひげの年配の男が李の彫りの深い顔を注意ぶかげに覗きながら、声をかけてきた。
「いいえ、わたくしは都から……」
そう答えたとたんに、男は歪んだ笑みを浮かべ、わけ知り顔で何度もうなずき、口をつぐんだ。
「あの、なにか?」
李の問いかけを無視し、向かいの男性と商売と天気のことを話すばかりだ。
李は眉間にしわを寄せた。
「ぞんぶんに飲み、かつ食べようぞ」
りんと響いた劉の声が、乾杯の発声代わりだったらしい。
部屋の隅に控えていた奏者が琵琶をかき鳴らした。それを合図にして楽器の演者一団が、雅な旋律を奏で始めた。
料理が次々と運ばれ、卓が瞬く間に色とりどりの皿で埋めつくされていく。温かい湯気と、胃袋を刺激する匂い。昼から何も口にしていなかった李は、一気に空腹を実感した。
女官が料理を取り分け、杯に酒を注いでまわる。
皆が箸を動かすと、刹那、会話が途切れた。
誰からともなくため息がもれ感嘆の声があがる。
さながら美しく開いた扇のごとく薄く切られた筍が皿に盛られている。かけられている橙色のあんは何だろう。
筍をひと切れ食べてみた。
とたんに李は口の中に全神経を持っていかれた。
筍のやわらかい歯ごたえと、野菜の甘みが口に広がる。あんの正体はすりおろした人参だ。
初めて食べる味に李は夢中になった。
香草と牛肉の炒めもの、鶏肉とウドの辛味和え……空腹にまかせ、ひたすら食べていたが、ひと心地つくと不思議なことに気づいた。
李がいま食べているのは、いかだ。松かさ状の切れ目を入れて湯引きし、葱と生姜で味をつけてある。
……こんな山の中で、生のいかが調理されている。それだけではない。白身魚の紹興酒煮込みや、姿メバルの蒸し物、はまぐりの醤油づけもある。
信じられないような海の幸だ。もちろん干し鮑や干しなまこをもどして煮込んだ料理も並んでいるが、鮮魚を調理したものが目立つのだ。
「すごい食欲でございますね」
急に箸を止めた李を不思議に思ったのか、隣のどじょうひげの男が再び李に話しかけてきた。
「あの劉さまに引けをとらぬとは、なかなかですな」
男は李と劉のまえに重ねられた皿を目で数えているようだ。劉は酒も飲まず、誰とも会話せず、箸を休めることなく食べ続けている。
「なぜ山深いここに、海の魚が?」
「それは、まあ……虹陵の呼び物ですよ、あれと並んで」
翡翠の指輪がはめられた指が示したのは、楽器の演奏者のまえに現れた女性たちだった。
いずれも甲乙つけがたい美女ばかりだ。
「各楼一番の美姫です」
並んだ十人は、明るい曲調に変わった音楽に合わせてゆるやかに舞い始めた。
陣形をくみ、肩にかけた領布を揺らめかせ踊るさまは、まるで天女の図そのものだった。
華麗に結いあげられた艶やかな髪に、赤い牡丹の花を差し、どの娘も磨きあげられた玉のような白い肌をしていた。
「ほら、いまいちばん前に出たのが、うちの楼閣自慢の姫ぎみ、美齡です」
中央で踊る娘を李は見つめた。
豊かな胸に柳腰、紅をさした唇がちいさく歌を口ずさむ。弧を描く眉、二重の大きな瞳……華かな美しさだ。
「いや、金鈴楼さんがうらやましいですな」
向かい側に座る派手な衣をまとった中年の男性が話しかけてきた。
「あの娘は、青願を受けていないのでしょう? それでいてあの器量とは」
「まったく、天は気まぐれですな。惜しげもなく贈り物を与えるものには与える。……ただ、悪い虫がまとわりつなかないように目を光らせないと」
杯を手に取り、あきらかに李に意味ありげな目を向けた。
「ああ、あの……」
相対する男にも心当たりがあるのか、うなずいている。
「けれど、長くはないでしょうな、あの男は」
李は奥歯にものがはさまったような会話に内心いらつき、口に運んだ酒が苦く感じた。
美姫たちの舞い、みごとな演奏、極上の料理。どれも都にひけをとらないだろう。
それだけを考えると、李はつかの間、帰京したように感じ、気がまぎれた。
姫たちをじっと見つめているうちに、李は奇妙なものをみたような気がした。
彼女たちが青白い光をまとっているように見えるのだ。
いや姫たちばかりではない。琵琶をかき鳴らす男も笙を吹く女も、料理を運ぶ女官、客たち……明るい室内に混じる青い光。
酒に酔ったのだろうか、それとも長旅の疲れだろうか。李は何度も目をこすった。
「なんだ、これは!」
だん、という音と怒鳴り声が響いた。
驚いて顔をあげると、劉が盆を捧げ持つ女官を怒鳴りつけていた。
「こんなみすぼらしい料理を客に出すとは、料理長を呼べ!!」
音楽はやみ、姫たちは怯えて手をとりあい縮こまっている。
怒鳴られた女官が小走りで広間から出ていった。
李の前にもすでに配膳されていた椀の中身を確かめた。
片手で簡単に持てるほどの小さな陶器に粥のようなものが入っている。米ではなく、雑穀が炊かれているようだ。木の匙が添えられており、確かに他の料理に比べればあまりに素朴だ。
ほどなく女官は厨房から料理人を連れて戻ってきた。劉は立ち上がり、渋面でその人物を見おろした。
「本日、料理長が体調を崩したため、わたくしが代役を務めさせていただきました」
白い前掛けの人物は凛とした声で劉の前に立った。
「あ」
李は桂花の姿に目をみはった。この素晴らしい料理のすべてを桂花が作ったのか。
「なんだ、この粗末な料理は! わたしに恥をかかせるつもりか」
劉は語気をあらげ桂花をねめつけた。しかし桂花は臆することなく、それどころか微笑んでみせた。
「温かいうちに、召し上がってください」
誰も手をつけようとしなかった粥を李は匙ですくい口に入れた。
「……美味い」
李から素直な言葉がこぼれた。いや、今夜の料理はすべてが美味かったのだ。ただ、この粥は単に美味いだけではなく、別のものも感じた。
「甘くて……ほっとする味ですよ」
李が話し終わると、まわりのものが次々に粥を食べ始めた。
「美味い」
「確かに」
賛辞の声があがる。劉は広間をひとわたり見渡し、悔しげに唇を噛んだ。
「劉さま、その料理人が不要でしたら、我が店にくださいませんか?」
声がしたほうを劉が睨んだ。
「これほどの腕前ならば……」
「誰が不要と言ったか!!」
劉は荒々しく椅子に座ると粥を一気にかきこんだ。
みな劉に注目した。
「……」
劉は桂花に鋭い視線を投げる。桂花は笑顔で応じる。劉は疲れたようにため息をつくと、そのまま立ち上がり広間から立ち去った。
主の急な退席に来客はざわついた。
「お時間の許すかたは、そのままお楽しみ下さい」
老執事が進み出て言葉を述べ、ついで桂花を呼んだ。
桂花は皆の前に来ると、無言で丁寧なお辞儀をした。万雷の拍手がわき上がり、それを受ける桂花の微笑みは、美姫たちに負けないほど美しいと李は思った。
食べてばっかし。 この宴会はたぶん商工観光組合の方を招いてのものだと思う。