雲上の楽土 2-3
昼過ぎ、意気込んで面会にのぞんだ劉との対面はあっさりと終わった。
「聞く耳もたず、か」
李はあてがわれた客室の寝台のうえに突っ伏していた。
館の三階部分にあたる大路が見下ろせる眺望の良い部屋だ。けしてないがしろに扱われているわけではないだろう。
しかし、執事の案内で通された豪奢な部屋で待っていたのは、あくびを夜着の袖口で隠す、劉だった。
「遠いところからの、わざわざのお越し。かたじけなく存じ上げます」
低く威厳のある声だ。
劉は四十ほどに見えた。がっしりした体つき、上背もありそうだ。切れ長でま じりがつり上がっている。
「天子さまの命により参りました、李史湖と申します。虹陵の領主、劉僥光さまであらせられますね」
磨きこまれた螺鈿の卓のうえに、李が渡した書状と手形が無造作に置かれているのを認めた。
「口上はいい。要件を述べよ」
李は唖然とした。県尉である劉の官位は李よりも上だが、政府からの勅使である自分になんとぞんざいな物言いだろうか。いや、それ以前だ。服装にしてもいくら絹とはいえ夜着、髪も結わえずにいる。起き抜けの姿、そのままだ。
李の戸惑いや憤慨を見透かしたように劉は肘かけに頬杖をつき、威圧的な視線を送ってくる。
「おおかた、滞っている税の支払いのことであろう?」
李は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出すと気持ちを切り替えた。
「ええ、そうです。ここ五年間に天子さまに支払うべき税が未納です」
ふふっと劉は唇の端をあげて笑った。
「いいさ、払ってやっても。でもどうせそれは詩ばかり詠んでいる無能な官吏どもへの給金となるのだろう? とんだ死に金だな」
「……民が暮らしやすくなるようにも、使われております」
李だとて劉の言葉を否定できなかった。たしかに一部の官吏にはそういった風潮がある。人民のことに関わる実務を軽んじる者が。
「いずれは支払う。虹陵の自主性を重んじて頂けるのならば、十年先まで支払ってやってもいいがな」
自治を認めろというのか。李はあまりに大きな要求に怒りすら覚えた。
「わたしの前に虹陵へ三名の特使が訪れたはずです」
その言葉に劉はひたと李を見据えた。
「三名の消息をご存知ありませんか」
さあて、と劉はちいさく呟いた。
「……気がすむまでご滞在を。部屋を用意させましょう」
山羊を思わせる白髭の執事を傍らに呼び言いつけると、そのまま立ち上がり部屋を出る前に劉は李にもう一度視線を向けた。
「夕の宴には少しはましな服装でいらして下さい。なんなら礼服を手配いたしましょうか?」
言われて李は気づいた。埃にまみれ汗臭くなった自分の体に。
どんな姿でいようが、自分は特使であるという驕りが李の中にもあったのだ。特使だから下にもおかぬ扱いを受けられるだろうと。
慢心を言い当てられ、李は沈黙した。
劉は李を見下すようにして退出していった。その背中を李は唇を噛みしめて見送った。
劉との面会は最悪に終わり、李は今、寝台のうえに寝ころんでいる。
以前の虹陵は、県の中でもとくに裕福でもなく、むしろ貧しい場所だったと記録にあった。
虹陵は作物を作る土地も狭いうえに痩せていた。これといった産業もなく、打ち続く冷害で人民の流出が止まらなかったと。
『雲上の楽土』などという呼び名は昔を知るものにとっては、皮肉にしか聞こえない。
変わったのはここ二十年ほどだ。今は一大歓楽街として近隣に名を馳せている。
『計算が合わない』
劉が四十前とすると、劉が領主になったのは十代ではないか。劉の父親が先代の領主……いや違う。以前この地を治めていたのは姜一族のはず。姜氏はどこへ消えた?
眠くて意識が無関係なところに飛んでいる。
長旅での疲れが上等な布団によって引き出されていくようだ。
李はずるずると眠りの沼に引き込まれていった。友人の朱玉儒の消息を案じながら。
「史湖」
学寮の中庭で李は声をかけられ、文から潤む目を上げた。四つ歳上の朱玉儒がひさしの下にいた。
「……お腹、減ってないかい?」
たぶん李の読んでいる文のなかみを察したのだろう。朱は文には触れず、小さな饅頭を二つに割って李に差し出した。
「さっき家のものが届けてくれたから」
いつものように、大きいほうを李に渡す朱は笑っている。
「お食べよ。甘いから」
李は目を手の甲で拭って、饅頭をかじる。
「ありがとう、玉儒兄さん……」
饅頭を持った自分の手の小ささに不安になる。
こんなに小さな手で、科挙の合格を掴めるのだろうか。……母の願いを叶えられるだろうか。母が元気なうちに。
涙をこらえて饅頭を食べる李を見守るように、朱はいつまでもそばにいた。
遠くからざわめきが聞こえる。人々が言葉を交わしている。それに混じる管弦の音色。
琴の弦をつま弾く白い指……玉儒、なぜ報せをくれない?柳樹が心配している。おまえの帰りを待っている。
李はゆっくりと眠りから覚めた。目を開けても暗闇しか見えず、一瞬まだ眠りの中だろうかと混乱した。
人々の声も管弦の演奏もまだ聞こえる。
李は体を起こし、窓辺まで歩み寄った。
「あ!」
思わず窓の枠を強く掴んだ。眼下に広がる光景は昼と一変していた。
大路にはまっすぐに赤や橙色の灯りがつけられ店の入り口や通りを明るく照らしていた。
一直線に延びるさまは、さながら光の川だ。
その中を青い灯がまるで泳ぐ魚のように揺らめいている。
青い光は、足元を照らすための明かりだろうか? それにしては頼りないほど、小さい。
李は身を乗り出して『雲上の楽土』をしばらく見いった。
名前には一応、それっぽくルビを振りましたが、適当にお読みください。