雲上の楽土 1
舞台はあくまで、なんちゃって中国です。
SF SEA FooD です。
かぐわしい湯気が鼻先でふわりとほどけた。侍女の優雅な動きに見とれているうちに茶は淹れられ尚羽の前に置かれた。
澄んだ琥珀色の茶をたたえる白磁の碗を左手で取り、右手を添える。
尚羽はまずその薫りを楽しんでから、茶碗に唇をつけた。
茶を口にふくむと、先ほどの料理の後味が舌のうえから引けていく。けれど不思議なことに、余韻は消え去るどころか一皿一皿の料理すべてが鮮やかに記憶に刻まれた。
碗を戻し、両目を閉じて深くため息をついた。
「満足していただけたかな?」
声をかけられ尚羽はあわてて目を開け、椅子のうえで背筋を伸ばした。
「は、はい」
目の前の壮年の男性は柔和な笑みを尚羽に向けていた。声をかけられるまで、ここがどこか失念していた。
「ご挨拶に伺いましたのに、はんたいにご馳走になってしまい、恐縮です。どれもが素晴らしく、美味しゅうございました。李史湖さま」
上気した頬を恥ながら尚羽は答えた。李は尚羽の様子に満足げにうなずいた。
齢五十を前にしているが、その容姿はまだ青年の面影を残している。顔の彫りが深かい。そういえば祖先に西域人がいると聞いている。
いつの間にか夕闇は濃く、侍女が部屋の四方に灯りをともし退出していった。
これといった調度品はない。名のある官吏の屋敷になら、どこにでもある三彩の壺も、額装された詩文や書も。
ただ部屋は隅々まで掃き清められ、扉の花を象った格子から月光が射し込み黒檀の卓に花模様の影を落としている。それを見ていると静かで心が落ち着く。
先ほどより、中庭から幼子の舌足らずの歌声が聞こえていた。
「まだ月見には早いが、今宵の月もなかなかに見事だよ」
李は庭に目をやり、幼子の声に耳を澄ませているのか優しくほほえんだ。
尚羽は先刻に供された料理を順に思い返した。鮮やかな色合いの前菜、秋茄子の薬念醤煮込み、黄にらと鯛のすり身炒め、あんかけ炒飯……。
食材は自宅で食べるものとさした違いはないが、どれもが心配りが行き届き、繊細な味がした。
「見事な食べ方だったね。噂どおりの健啖家だ」
視線を尚羽に戻し、李はお茶を飲んだ。そういう李も若い尚羽と同じくらいの量を平らげた。自身の父親と同年代だが、食欲は比べるべくもない。
「料理長が喜ぶよ。たくさん食べてくれる人が好きだからね」
大食いは呆れられても誉められたことはない。尚羽は大きな体を縮めた。
「さて、本題に入ろう。わたしは見ての通りの貧乏役人だ。書生として雇う君に支払う賃金も充分とはいかない」
「いえ、武挙を落ちた私を雇って下さるだけで充分です」
それは嘘ではない。武官になるための試験、武挙に何年となく挑んだが、ことごとく不合格に終わった。
落馬さえしなければ、矢をすべて射損ねたりさえしなければ、楽に合格できるはずなのに。
尚羽は自分の大きな体がまったくの見かけ倒しなことを痛いほど知っていた。
それはわかっていたはずだ。父も母も兄たちも。
「なんとも情けないほど、不器用で……私は書と向き合うほうが……」
だからといって、いまさら科挙を受けるのは遅すぎる。
茶葉を商う、それなりの大店を営む両親は、神童と言われた歳の離れた長男を官吏にし、商才に長けた次男には店を継がせ、体格に恵まれた三男の尚羽を武官にしたいと願った。
幸い兄たちは親の望みどおりになったのだが、尚羽だけが叶わなかった。
「行き場のないわたくしを拾って頂けるなど、夢のようです」
その言葉に偽りはない。けれど視線は自然と下を向く。
「……月餅はどうかな?」
李は肩を落とした尚羽に月餅を盛った器を差し出した。
「尚羽殿は二十三歳?」
ええ、と尚羽はうなずき見た目より持ち重りする月餅を一つ取った。
「わたしの妻の一つ上だね」
仕事一筋な李が数年前に年若い妻を迎えたことは尚羽も知っていた。
「わたしがきみくらいの年だった頃の話を聞いてくれるかな」
薄い闇の中で李はほほえんだ。
それはわたしが役人になってまだ二年目のことだった、と李は語り始めた。
春の始めに都を立ってすでに二月あまり。
李史湖は農夫が引く牛車の横をついて細い道を歩いていた。
「こんな山の奥に、ほんとうにあるというのですか」
都から船で河を遡り、支流からは歩いてここまで来た。小さな荷物を背中にくくり、沓をすり減らして市街から町へ。町から村へそして集落へ。国府発行の手形を見せ、一夜の宿と食事を請願する相手は、長役からいつしか顔利きになり、それに伴い広い田畑の風景は山を切り開いた棚田や段々畑に変わった。
今、都は春を過ぎ初夏の入り口だろう。甘い花の香りに満ちる都を懐かしく思う。しかし、李が今いる場所は日中こそ汗ばむことはあっても朝晩は吐く息が白くなる。
それだけ高い位置にあるということだ。
「あと少し行げばぁ、道も広ぐなる、いっぺ人にも会うがら」
野菜を積んだ荷を牛に引かせて農夫はのんびり答えた。
「信じらんねぇくれ、おっきいどごだヨ。ま、オレみでな田舎もんはぁ、こいづ売ったらすぐ帰るどもな」
そう言って荷台をぽんぽんと叩いた。
「あそごには、あだりまえのヤヅはいねがら」
「魔物か何かでも住んでるんですか」
農夫は日に焼けた顔を李に向けたが、答えなかった。
「あど、ペッコだ」
余計なことを語らない農夫はなぜか賢者のように見えた。
李はこれから果たす使命が容易くないことを知っている。
その街に国府から遣わされた官吏三名はいまだ戻らず、怪しい噂が都まで届いた。
『雲上の楽土を覗いた者は帰れない』
最後の使者は李の親友、朱だった。
「見えるべ?」
農夫の声に顔をあげると、遠くの荒涼とした山肌の中に城郭の一部があった。
その手前に行き交う豆粒ほどの人波も見える。
李は額に手でひさしを作りひときわ目立つ塔が突き出た城壁を見つめた。
「虹陵」
街には異名がある。雲上の楽土、または怪かしの都……。