片翼を削いだ
空になった椀を、ひとしずくすら残さないよう舐める。両の手に収まる、一杯の椀。それが自分に与えられた、一日の食料だった。
スープどころか椀の木の味すらしなくなった器を置いて、地面に身を投げ出した。手足の枷に繋がる鎖が、じゃらりと鳴く。
ぼんやりと天井を仰ぐ。ごつごつとした土の壁。生まれてこの方見続けてきたそれに変化はない。
俺はずっと、ここで暮らしてきた。だからこの景色以外を知らない。食事を運んでくる世話人が、時たま外の話をするのをただ聞いていた。
外はどこまでも高く続く青が広がっているらしい。地面は草木で緑に染まり、どこまでも伸びやかに広く、朝と夜とで景色が変わるそうだ。
空とはこの天井よりも高いのだろうか。草木とやらは苔とどう違うのだろう、地平線って、地面と天井が狭まっていくのか? 光が少なくなるというのなら、誰かが扉を開け閉めして調節しているのだろうか?
外への興味は尽きない。聞けば聞くほどわからないことばかりが出てくる。
けれど俺は外に出るのを許されていない。
生まれたときに厄を連れてきてしまったから。来るべき祓いの儀式まで、外に出てはいけないそうだ。そうでなければ、俺が厄をばら撒いてしまうから。
かさこそと動き回る音に体を起こした。ちゅう、と鳴いたそれの、尻尾を摘み上げる。暴れもがいて逃げようとするネズミの頭を、指先でぐりぐりと撫でた。逃がして、観察して、捕まえて。それを繰り返す。そして飽きたところでネズミの胴体を掴んだ。
ネズミを握る手に力を込める。苦しげに鳴く声にも構わず。ぱきゃ、と軽い音。土くれを潰した感覚。それを最後に、ネズミは赤い反吐を吐いて動かなくなった。ひしゃげたその身体を投げ捨てる。明日には世話役が片付けるだろう。遊び終わった玩具にはもう目も暮れず、横たわる。訪れた睡魔に委ね、目蓋を落とした。
次の日、世話役が持ってきた食事は、いつものスープではなかった。嗅いだことのない匂いに臭いと零せば、これはいい匂いなのだと世話役は言う。知らない匂いを鼻が拒んでいるのだろうと。
運ばれてきたのは見たことのないものばかりだった。豚の肉がああだとか、牛の乳がこうだとか、豆がどうだとか、わけのわからない解説なんか聞いていられなかった。
これをすべて食っていいのかと問う。椀一杯とは比べものにならないほどの量。これがすべて俺のものなのか。世話役は肯定した。今日は特別な日だから、精がつくものを食べさせてくれるのだそうだ。
貪るように食らいついた。食ったことのない味。旨い、のだろう。水っぽいスープの味しか知らない舌では判断がつかない。
腹が満たされる。食った後に空になった器に寂しさを感じないのは初めてだ。満ち足りた腹を撫でる。常ならば皿を回収してすぐにここを出ていく世話役は、しかし、今日ばかりは留まっていた。
布や金色の輪が入った篭を手に、世話役が俺に近寄ってくる。厄が憑くからと遠巻きに見ていたのに、だ。それだけではない。あろうことか、俺の手足の枷を外し始めた。
今日は厄祓いの儀式の日です。世話役が言う。貴方が生まれてから十三の季節が巡り、厄を祓える歳となりました。
暖かい濡れた布で汚れを丁寧に拭われ、襤褸衣から着替えさせられ、枷の代わりに金の輪が嵌められる。細かな装飾が入ったそれは、初見でも綺麗だと感じられた。飾り立てられた後、冷たく輝く剣を渡された。
これを厄に突き立てるだけでいいのだそう。ただし俺が玩具としているネズミのようには簡単にいかない。抵抗もする、逆に襲い掛かってもくる。気を抜けば俺がネズミのようになるだけだ。外を見ていたいのなら、今日のような食事を摂っていたいのなら――自由になりたいのなら、生き残りなさい。言い聞かせられて頷く。折角自由を手に入れられるのだ、この機会を逃しはしない。弄ばれ、打ち捨てられるネズミには、なりたくない。
世話役に連れられ、初めてここを出る。外へ繋がる扉を開いた瞬間、見たことのない強い光に目が眩んだ。眩しい、とはこういうことなのか。目蓋をきつく閉じ、手で遮っても尚白い光に目が焼ける。
促されるがまま向かった先には、大勢の人が居た。見知らぬ顔の人たちが、俺に向かって手を振っている。その仕草が何を表しているのかわからず、疑問を抱えたまま人混みの合間を縫って広場へと放り出された。
人が円を描いて取り囲む。わんわんと聞こえてくる煩い歓声。興奮する人垣の中、俺と同じようにぽつりと佇む姿があった。
ぎらぎらとした眼差し。同じ装飾をされ、同じ剣を持つ相手。あれが俺に憑いてきた厄。あれを殺せばいいのか。
胸の奥がざわざわとする。あれを見ていると妙に嫌な感じがする。俺があれを殺さなければ、あのネズミと同じようにされてしまうからだろうか。それだけは、願い下げだ。
生まれてこのかた使ったことのない剣を相手に向けた。同時にあれも切っ先を俺に向けてくる。獣のように雄叫びを上げて、厄へと肉薄した。
とあるところの双子の儀式を元に。
鏡というものを知らない双子は、互いに同じ顔であることすら知らない。