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物語症候群

作者: 本条亨

 ――物語症候群 日本上陸――


 私が三年前に書いたスクープ記事だ。

 当時、現地の保健所に勤務していた友人から偶然その情報を得て、他者を完全に出し抜く形で独占記事を書いた。この記事が評価され、現在の社会部編集長という地位を得たともいえる。



 アムステルダムから三十キロほど離れた場所に、チューリップとラベンダーに囲まれた、牧歌的で小さな村がある。七年前、そこに住む夫婦と、周辺に住んでいた五人、合計七人が、最初の物語症候群の患者として認定された。

 物語症候群の特徴として、脳の海馬部分への異常があげられる。患者の脳をCTスキャンで撮影すると、海馬に必ず肥大化と白色化が認められる。アルツハイマー型認知症では海馬が委縮するが、丁度それと正反対の所見である。

 脳の海馬には、記憶を貯蔵する働きがある。デジャブという言葉をご存じだろうか。初めて見た景色のはずが、以前にどこかで見たと感じることがある、そんな現象である。これは、視覚情報が何らかのエラーで海馬より先に脳内に伝達、収納された結果、それを記憶として照会してしまうことで起こると言われている。今入ってきた情報を、過去に経験した記憶として判断してしまうということである。

 物語症候群の場合、前頭前野からの情報が海馬を経由することで記憶の誤認が起きると考えられている。前頭前野から発せられるのは、イメージや想像といった情報である。すなわちこれに罹患した患者の脳内では、想像したことが、あたかも実際に経験したことのように、“思い出す”という形をとって表出してくる。現実と想像、イメージ、夢の世界が混同し、本来あるはずの境界がなくなって、何でもありの世界が創造されるのだ。現実とのつじつまが合わなくなると、意識はその不合理や矛盾を無意識の中へ封印し、居心地のいい勝手な妄想、物語を綴り始める。綴られた物語は再び海馬に吸収され、記憶として処理された後で、思い出としてその真実性を強化される。患者にとって、想像したことは現実の鮮明な記憶となるのだ。

 この疾患の発症原因はまだ分かっていない。地域に集団で発生することから感染症が疑われているが、感染源はまだ発見されていない。

 治療法も見つかっていない。



 最初の村の夫婦は、実在しない一人の女の子を作り上げた。長年子供を授からなかった夫婦は、この病に罹患することによって、明朗活発な十三歳の愛娘を得たのだ。娘には部屋が用意され、ベッド、机、服や下着、生理用品に至るまで買い揃えられていた。

 七年前の五月六日、この夫婦は「娘が帰って来ない」と警察に届け出た。警官が夫婦宅を訪れると、庭一面に植えられたラベンダーの甘い香りの中で、夫婦が途方に暮れていた。警察が捜索を開始して間もなく、そもそもこの夫婦に娘などいないということが判明した。通っていたという学校に問い合わせても、そのような生徒は在学していないという答えが当たり前のように返ってきた。

 しかし、隣に住んでいた婦人が、確かに娘はいたと言い出したことで状況が一変した。周辺の五人の住人たちも、その後を追うように次々と、娘を見たことがあるとか、小さい頃によく遊んだとか、娘の存在を認めるような証言をし始めたのだ。警察は、娘の捜索と事情聴取を続けざるを得なくなった。

 一時はいかれた夫婦の思い込みということで処理されようとしていたこの事件は、奇怪な事件としてマスコミに取り上げられた。夫婦はどのテレビ局の取材でも、娘を探して欲しいと涙ながらに訴えた。切実な訴えのどこかで話のつじつまが合わなくなると、夫婦はさらにつじつまの合わない適当な話を“思い出し”、それを悪びれもせず、極真剣に、一つ一つ確かな記憶を辿るように訴えた。でっち上げられた話を五人の住人に確認すると、五人はその話を肯定するどころか尾ひれをつけて語り出す始末で、物語はまるで真実であるかのように装飾されていった。夫婦にしてみれば、つじつまの合わない部分を指摘される度にどうしてかと考え、直後に想像した一つの可能性を明確な事実として“思い出し”ているのであり、住民もまた、質問を受け、それをイメージすることによって、新たな記憶を“思い出し”ているだけなのである。

 結局、住人の一人が別件でCTスキャンの検査を受けたことがきっかけとなり、その他の住人と夫婦にも検査を受けさせられたところ、最初の住人の脳に発見されたものと同じような海馬の病変が、全員の脳から発見されたことで、この騒動は七人の脳の異常によるものと結論付けられたのだ。



 その後、同じような症例がロンドン、フランクフルト、マドリッドでも発見された。それがアメリカ・ニュージャージー州にあるスコットンという小さな町に飛び火し、三十五人の集団罹患を確認した時点で、世界はパニックを起こした。

 スコットンは、ラベンダー畑に囲まれた長閑な町である。この町に住む農夫を中心とした三十五人の町人は、一人のメシア的存在である男を創造し、彼を市長選に立候補させようとしたところを市の職員に黙殺されたことがきっかけで、暴動を起こした。

 怒りは負のイメージを増幅する。その増幅された負のイメージ、つまりは不吉な想像が、すべて実際に起きた現象として彼らに認識されたのである。すなわち三十五人の患者たちは、好ましくない事態を想像すると同時に実体験としてそれを認識し、それが増幅したさらなる怒りにみるみるうちに呑まれていったのである。三十五人の怒りは際限のないイメージの増幅を繰り返し、職員を三人撲殺した時点で警察の武力制裁によって強引に鎮圧された。その後の検査によって、射殺された八人を含めた三十五人全員に、物語症候群の診断が下された。

 この事件が世界に向けて発信されたとき、人々は恐怖に包まれた。

 隣に狂気の集団が現れるかもしれないという恐怖。

 自分がこの狂気の病に感染するかもしれないという恐怖。

 実はすでに自分がこの病に侵されていて、今、現実と信じているもの、家族、恋人、功績、社会的地位、その他すべてのことが、単なる自分の思い込みでしかないかもしれないという恐怖。

 恐怖は、あっという間に差別と偏見と、恐怖になり得る対象の一切を身の回りから排除しようとする強烈なアレルギー精神を生んだ。矛先は、つじつまが合わないことを言う者、特に知的障害者や認知症患者に向けられ、彼らの隔離を訴える声や彼らに対する弾圧行為は、世界各国至る所で繰り返された。



 そんな中、三年前に日本で初めて患者が確認された。広島市郊外に住む初老の夫婦。海外旅行の経験もなく、感性経路は不明である。四年前に死亡したはずの初孫がつい先日中学校に入学したと言って、近所の親しい人たちに祝いの品を配ったことで発覚した罹患だった。

 夫婦の一人息子とその妻、そしてその娘――つまり今回、夫婦に生きていると錯覚された初孫を乗せた乗用車は、四年前、居眠り運転の大型トラックと正面衝突した。三人とも形を判別できないほどの損傷を負って、三人ともが即死だった。その事件を知っていた隣人が、夫婦が祝いの品を配り歩いているのを見て彼らに精神科への相談を薦め、物語症候群の罹患を疑った精神科医が保健所へ通報し、調査が始まったのだ。鑑別診断にはCTスキャンの審査が必要なのだが、強制的な調査権のない保健所は、夫婦の説得に時間を要していた。

 その折、その保健所に努めていた友人が、私に連絡を寄こしてきたのである。



 私は早速広島に向かい、夫婦の家を訪ねた。住宅街の一角にある、小さな平屋だった。呼び鈴を鳴らすと、憔悴した顔つきの初老の女性が扉を開けた。新聞社の名を告げると、夫人は困惑の表情を浮かべてみせた。

「入っていただきなさい」

 扉の奥から、主人のものと思われる声がした。

 婦人の後に続き家の中に入ると、居間の座椅子に浅く座り、低い木のテーブルに片腕を置いた格好で、婦人と同じくらいの年の男性が庭を眺めていた。敷き詰められた芝生の中央に植えられた一株のラベンダーが、紫色の無数の花を咲かせているのが見事だった。

「遺伝子組み換えで品種改良されたラベンダーです。綺麗でしょう」

 主人はこちらを振り返らずに、しかし優しい声でそう言った。物語症候群と聞くと、市職員を殺した狂気集団のイメージが強かった私にとって、理知的で穏やかな主人の態度は意外な感じがした。

「私たちもひどく混乱しているのです」

 主人は独り言のように語った。

「確かに四年前、私たちの息子は事故に巻き込まれ、妻と共に他界しました。息子の体は傷んでしまって、見るに堪えない状態でした……ただし、孫娘の恵美だけは、奇跡的に車の外に投げ出されて、無事だったのです」

 庭のラベンダーの香りが、ゆるやかな風に乗って部屋の中にも流れてくる。柔らかな甘い香りは思考を沈静化させ、外界の興奮を忘れさせてくれる。目を伏せたまま語る主人に、寄り添うように腰を下ろした婦人は、いつの間にか熱いお茶を入れてくれていた。

「息子のことは非常に残念だが、恵美のためにも強く生きていこうと、妻と二人で涙ながらに励まし合ったのです」

 規則的な時計の音が耳に入った。部屋の中を見回したが、時計はどこにあるのか分からず、その代わりに、入ってきたときには気づかなかった睡蓮の小さな掛け軸に気づいた。澄んだ空気の中、近辺は静けさに包まれていて、遠くで犬が鳴く声もはっきりと聞こえてくる。その声に応答するように、今、別の方角から遠吠えが聞こえた。

「親のいない寂しさを感じさせぬように、運動会や学芸会には毎回出席しました。」

 徒競争で一等賞を取って得意げに走ってきた恵美の笑顔。玄関から聞こえる、ただいま、という恵美の明るい声。肩が凝ったと言うと、いつも揉んでくれた恵美の小さな手のぬくもり。突然やってきた保健所の人間から、それらすべてが空想だと言われた。

「そんなことを言われても……そんなことを言われても、何をどう考えてよいのやら……」

 主人は声を詰まらせて、話は妻が引き継いだ。

「運動会の次の日、振替休日で学校がお休みだった恵美を、一等賞を取ったお祝いにデパートに連れて行きました」

 そこで夫妻が買ってやったというクマのぬいぐるみを、彼女は今でも大切にしているらしい。婦人は愛おしそうに目を細めながら、買い物の後にレストランで注文したハンバーグ定食を、恵美が美味しい美味しいと、それは嬉しそうに食べていたことも話してくれた。そして、

「恵美は、昨日もここへ帰って来たんですよ」

 訴えるような目で私を見た。えっ、と思わず声を漏らす。

「保健所の職員が帰ってから、しばらくして恵美は確かに帰宅しました。人が大勢いたので怖くて家の中へ入って来れなかったと言っていました」

「今も恵美さんはこちらにいらっしゃるのですか?」

「今は出かけています。でも、今朝もここで一緒に朝食を食べました。最近は、朝はご飯よりもパンを食べることが多くなって、私がご飯と味噌汁の方がいいでしょうと言うと、おばあちゃんは古いんだよって、笑われてしまいました。……正直言って、私は何が起きているのか、よく分からないのです」

 部屋に、妻人の嗚咽する声が響いた。



 その後も、物語症候群の患者は増え続けている。

 感染源も治療法も、見つからないまま。



 ラベンダーの香りが部屋に漂っていた。以前、友人から編集長就任祝いとしてもらったものだ。品種改良された香りの強い種類のラベンダーで、花が咲きだすと甘く安心感を与える香りがこの部屋を包み込む。まるで、夢や希望が何でも叶えられるかのようにさえ思えるほど、リラックスした気分になる。先日、テレビでこのラベンダーが世界中でブームを起こしているという特集をやっていた。

 昨夜から、妻と息子は妻の実家に帰っていた。ちょっとした骨休めで、明後日には戻ってくる予定だ。自分にはもったいないほどよく出来た妻である。私は心から彼女を愛している。二歳になる息子は、私が仕事から帰ると喜び勇んで胸の中に飛び込んでくる。可愛くて仕方がない。

 ――ただ、こうして一人でいると、ふと不安にかられる。抱きしめたときに感じる息子のぬくもり。妻と出会ったばかりの頃、初めて触れた唇の感触。夢にまで見ていた社会部編集長という、現在の地位。これらがもし、もし、幻であったとしたら。

 私は頭を左右に軽く振って、机に向かった。こういうときのために、引き出しには、家族三人で撮った写真を入れてある。今年の初めにハワイに旅行に行ったときに撮ったものだ。その写真を見れば、少なくとも妻や息子が空想の産物ではないことは証明される。引き出しの金属製の取手に手をかけたとき、指先がやけに緊張しているのが分かった。

 ゆっくりと取手を引く。ノートや筆記具、資料のコピーなどが狭いスペースに詰め込まれている、綺麗とは言い難い引き出しの中。見慣れた光景の中に、どうしても写真が見当たらない。

 私は恐ろしくなって、三つある引き出しを三つとも引き抜いた。手近なものからしまい込まれたノートを取り出し、資料を片っ端から引っ掻き出して、見逃すものかと見開いた目を、手の動きに合わせて左右に素早く走らせる。徐々に震えてくる手で紙類を一掃してから、ごちゃごちゃと中に入っていたものを絨毯の上にすべてひっくり返したが、見つからない。額に汗が噴き出してきた。



 そうだ――、そうだ。

 昨夜、妻が親父に見せるからと持っていったのを、すっかり忘れていた。



 ハワイの写真をまだ見せていないから、と幸せそうに笑っている妻の姿を、今、思い出した。


読後感がホラーであれば幸い。「世にも奇妙な物語」からのスカウトを目指します。笑

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