初編
わが国の紫式部なる方は「源氏物語」を書き記したるがために、不妄語戒を侵して地獄に落ちたといわれ、かの唐土の羅漢中は「水滸伝」を生み出しちまったから、子孫三世ともども言葉が不自由になったと言い伝えられている。そいつぁ、きっと後にも先にもない大作を生み出しちまったことによる他人の妬みってやつだろう。視野も狭く、出来の悪い手前が書き綴った与太話なんざ人の噂にも上りゃしないだろうし、実際に地獄に落ちたりガキどもがしゃべれなくなるなんてこたぁあるまい。ただの戯言、寝入り端の寝言ってのが関の山だろう。
この物語の主人公だか、この正月と時節もぴったりな七草四郎と若菜姫ってぇんだ。除夜の鐘にかけたわけじゃねぇが、始まりの場所は西海筑紫にあるっていう鐘の岬。響灘にあやかって世の中に響き渡れと、まぁ、正月の挨拶がわりに述べさせていただく次第でございやす。
嘉永2年巳酉歳孟阪発市 柳下亭種員
正月も幾分か過ぎ、如月がそろそろ追いつきそうな頃、鐘の岬では一枚の高札が海を背にひょっこりと立てられていた。岬では大抵の者が漁を生業としてその日その日を送っていた為、その札が何と書いてあるか知るわけもなく、内容については村の庄屋が皆を集めて伝えることが当たり前となっていた。鐘の岬より北東に位置する水茎が岡の漁民もそうであり、庄屋が語るのを聞き終えると、誰も彼もが唸り声を上げてしまった。厄介事に他ならぬ内容であったからである。
だが、その中で一人だけ、高札のことを聞いて目を輝かせる者がいた。彼はいつも色を失ったように蒼白の肌色をしているのに、今は朱を帯び、決意の表れか、唇を真一文字に引き締めている。集まった漁民の群れからそっとその身を引き上げると、彼は一目散に家の方へと駆け出してしまっていた
「父上。」
その声は、とても弾んでいた。
そうして月が変わり、春の足音伺う如月のある日、筑紫の領主菊地貞行は袖の湊より、近年こしらえた大型船、乾坤丸に乗って出掛けていた。空はうち晴れ、沖からは海の中道や松浦潟、霞たなびく香椎浜や長門路の浦々まで見渡せた。波もなく、船に乗っているのにまるで畳の上にいるかのようである。船内では様々な興が催され、端から見れば船遊びのそれであり、乗り合わせた者たちのほとんどがそれ以外と考えることはなかっただろう。本当に穏やかな日だった。
やがて船が鐘の岬に差し掛かった時、貞行は近習の武士に語りかけた。
「今より20年程まえになるか。この地に異国の海賊が渡り、沖を行く船の荷を掠めたり、陸に上がっては悪さをして、しばしば民を苦しめておった。父上が策を巡らせこの鐘の岬において海賊めを討伐したのだが、その時、海賊の大将・丁礼なる者が異国より奪い取って来たという釣鐘を担いで海に飛び込みおった。その時よりここを鐘の岬と呼ぶようになったのだ。」
しかし、と繋ぎながら貞行は渋面をこさえた。
「最近になって、ここの海が夜な夜な妖しく光るのだという。これぞまさしく、かの鐘が沈んでおる為ではないか?釣鐘さえ引き上げれば、光も自ずと消え去るに違いない。そこでだ。」
今度は得意げな笑ってみせた。
「私はこの磯のものどもに『海に入って釣鐘の龍頭に綱をつけた者に数多の褒美を与える』と触れておいたのだ。今日の舟遊びも実はこの見分の為よ。磯育ちであれば水に慣れておることだろう。」
そう貞行が言い終わらぬうちに、磯の方より櫓を漕いで、ただ一人、乾坤丸に近づいて来る少年がいた。周りの人々は遠目にこれを見ながら、何者であるかと訝しがっていた。その人は乾坤丸に舟を寄せると謹んで申し上げた。
「私はこの浜に長年住みついております梶作という漁師の倅で春吉と申します。生計も細く、釣り糸を垂らして老いた父を養って参りましたが、あの妖しい光のせいでますます魚が獲れず、親子共々飢えて死ぬのを待つばかりとなっておりました。そんな時に浜辺に立てられた高札には、沈んでいる鐘の龍頭に綱をかければ数多の褒美を下さるとあります。これは天から与えられた好機。賤しい身分であるのも省みず、斯様に参上した次第です。この千尋の海底に沈む鐘の龍頭に綱をかけて参ります。たとえ運拙く海の藻屑になろうとも、それが出来たならば、褒美は私の父に何卒お与え下さい!」
とても思い詰めた様子が実に健気で、貞行は彼の孝心に心打たれて、かねてより乾坤丸に乗せていた綱を春吉に与えた。春吉は喜び勇み、さぁ飛び込まんとする所、乾坤丸より二人の人物が躍り出て、春吉の舟に飛び乗った。
「殿様の船の舟漕ぎに参上したこの鮫七と鱶八の許可なく勝手は許さぬ」
「まだ前髪のある小童に手柄をたちられちゃぁ、男が立たねぇ!お前より先に我ら二人で龍頭に綱をかけた上で褒美にありつくとしよう。」
と、左右より邪魔立てしたが、春吉はそれを振り払い、鮫七にもんどりを打たせてうち倒し、もう一方の鱶八に当て身を喰らわせて、そのままひらりと海に飛び込んだ。
やがて時が経ち、貞行は春吉が海中より姿を現すのを今か今かと待ち構えていたが、海は静まりかえったままだった。仕方なく乾坤丸を磯につけると、近習の者たちに場を整えさせ、床几に腰を下ろすと、ずっと沖を眺めていた。しばらくして、はるか向こうの波間に何かが浮かび出た。貞行が扇を上げてさし招くと、それは軽快な様子で磯へ泳ぎ着いてきた。間違いなく海に潜ったあの少年、春吉である。貞行は春吉を近くに寄ることを許した。そこで目にした春吉の姿に誰もが息を呑んだ。浜育ちに似合わずとても色白で、目元も涼しく、世に類なき美少年だったからである。
貞行は言葉を失ってじっくりと春吉を見つめていたが、やがてはたと我にかえり、
「綱の首尾は?」
と尋ねた。春吉は手をついて、
「仰せを受けて海に入り鐘のある所まで向かったのですが、海底の水の流れは凄まじく、それは言葉に出来ないほどでした。ことさらに、鐘の周りは激しさを増し、近寄ろうとすれば打ち返されてそれを何度も繰り返してしまいましたが、何とか龍頭に綱を引き結び、浮上して参りました。」
「よくやった!すぐさま鐘を引き上げるのだ!」
そう言って、数多の人夫を呼び集め、春吉が鐘にかけた綱をしきりに引かせることしばし、鐘が水際までその姿を現した。だが、随分と太い綱であったにも関わらず、龍頭の際よりふつと切れてしまい、鐘は再び海の中へと落ちて行ってしまった。この有様に、貞行は気に入らない様子だったが、
「たとえ鐘があがらなくても、約束は約束じゃ。春吉に褒美を与えよ。」
と、近習の者に命じて、約束の褒美を与えた。
「近いうちにそなたに申したい事がある。追って沙汰を待て。」
そう告げて、貞行は立ち上がった。
春になって日が長くなったとはいえ、もう既に夕暮れ時である。貞行一行は鐘の岬の浦づたいをまわって、悠々と館へと引き上げていった。
筑前国遠賀郡水茎が岡という所に梶作という漁師がいた。妻はとうの昔にこの世を去り、近頃では自分自身も病に体を蝕まれ、魚を獲ることも侭ならなくなっていた。彼の一人息子の春吉は大層な親孝行もので、老いた父を楽にしたい、とその一心で身を粉にして働いていたが、それでも生活は苦しくなる一方だった。そんな中での先日の立札である。春吉は大喜びで父に内容を伝え、領主の船遊びの日には、日が登る前に出掛けて行った。けれども、すでに日が落ちて随分と時間が経つのに、帰ってくる気配がない。梶作は非常に心配して、家から出たり入ったりを何度も繰り返して、落ち着かない様子だった。ようよう帰って来た息子の姿を見かけると、ほっと長い息を吐いた。
「随分と遅かったのだね。綱はかけることが出来たかい?」
「ええ。菊地様の御船が岬に差し掛かるのを待って、願い出て海に潜りました。難なくこなしましたよ。でも、沢山の人手で使う綱を引いて鐘を引き揚げようとしましたが、鐘が汀まで姿を現した所で、綱が切れてしまいしまい、再び海に沈んでしまいました。でも、ちゃんと綱を付けて来たのだからと褒美はしっかりと頂きました。見て下さい!」
懐中より百両の包みを取り出して見せた。父は喜び、
「きっとお前の日頃の孝行振りを見て、神仏がお助け下さったのだよ。まず神棚に御供えして来なさい」
と言うと、春吉も頷いた。
「褒美を頂いた経緯を庄屋様にも知らせて、お礼を言って参りますね。少しばかり休んで待っていて下さい。」
神棚に百両を御供えすると、春吉はそのまま庄屋の家へと出掛けて行った。一人残された梶作は息子が帰って来るまで一眠りしようと、枕を引き寄せ、炬燵に足を入れようとした。が、その瞬間、いきなり床下より白刃が突き出し、梶作の肋骨の辺りを刺し貫いた。
「うん…!?」
くぐもった苦しみの声が漏れる。刃はするりと床に戻り、しばらくすると縁側の方から何者かが這い出て来た。顔に掛かった蜘蛛の巣を乱雑に振り払い、刀にはベッタリと血糊が付いている。梶作は早い息をしながら、必死の思いで相手を目にとらえようと首を回すと、そこには見知った顔があった。同じ浜辺の漁師で灘蔵といい名のしれた悪党だった。
「な、灘蔵!何の恨みがあってこのような騙し討ちをしおったか!」
灘蔵はニタニタと笑いながら梶作を見下ろした。
「恨みなんざねぇよ。ただ、今日は春吉の奴が岬に沈んだ鐘に綱をつけたってんで、沢山の金を貰ったそうじゃねぇか。帰って来て神棚に供えて出ていきやがったから、これ幸いと、下屋に潜って仕掛けただけのこと。」
そう言いながら、灘蔵は神棚の金に手を伸ばすと、懐中に押し込んだ。
「身に余る大金はかえって不幸を呼ぶもんだぜ。さて、あいつが戻って来る前に退散するとしようか。」
血の滴る刀を梶作の身の上に掲げもち、止めを見舞わんとした時、春吉が二人の間に割って入り、素早い動作で灘蔵の刀を取り上げると、肩先深く斬り込んだ。咄嗟のことで対処出来ずに深手を受けた灘蔵はその場に倒れこみ、春吉はそれには一瞥もくれず、瀕死の父を抱き起こした。介抱しようにも傷は梶作の呼吸を狭め、血が泉のように吹き出す有様に施す術がなかった。
「ああ、これでは私にはどうすることも出来ません。せめて、今、この手で敵討ちを果たしてみせます!それを土産に成仏して下さい!」
と、灘蔵に見返る。
「一度ならず二度までも私から父を奪うとは、決して許さぬ。重ねてのこの恨み、ここで晴らせるなら少しは胸がすくというものだ!!」
春吉は父をそっと床に横たわらせると、刀を引き寄せた。春吉の言葉に合点のいかなかった灘蔵は肩を押さえながら、
「二度までも?一体俺がお前に何したってぇんだ!?」
と、問うと
「いいだろう、教えてやる。苦痛に悶えながら聞くがいい!」
春吉は灘蔵を蹴り飛ばして、炬燵櫓の上に腰掛けた。
「父の貧苦の助けになろうと、俺は今日、領主の褒美を目当てに鐘の岬の海に潜った。海底の鐘まで辿り着くと、そこに佇む人影があったのさ。その人は俺を指し招いてこう語り出した。」
「汝をずっと待ち続けておったわ」
鐘の上に座るその人は鋭い双眸で春吉を見据えた。海底の潮の流れも水の持つ浮力も全て無視して、まるでここが地上であるかのような態だった。人の成りをしているがすでに人外の存在、亡霊であることは春吉も理解していたが、不思議と、恐ろしくはなかった。いや、彼の人の姿はどちらかと言えば山賊か海賊のようで、顔全体に刻まれた皺は仁王のそれのようにいかめしい。荒々しい雰囲気に目を合わせることもためらいそうな程だったが、春吉は平気だった。逆に、なんとも言えない高揚感が胸の奥底から湧き上がってさえいる。
「儂はこの地の生まれではない。唐土の福州の舟人であったが、気付けば海賊の群れに入り込み、そこでのし上がって、いつしか奴らの頭となっておったのよ。名は七草官丁礼という。」
その名は聞いたことがあった。春吉が生まれる少し前に、この地で悪さをしていたという海賊の頭だと父が言っていた。けれど、その海賊は…。
「数多の手下を従えて、日本や唐土と問わずに自由自在に渡海して、17年前にこの筑前の沖にやって来たのだ。往来する船を襲っておったが、かねてより我が首を狙っていた貞行の父、秀行にまんまと出し抜かれてしもうたわ。」
そうだ、先代領主、菊地秀行はことさらに武勇に優れ、将軍家にも覚えがいいと聞いている。確か春吉が産まれて間もない頃、隣国の領主が謀反を起こしたことがあった。その国もまた優れた兵力を持ち、将軍家がさし向けた討伐軍を何度も打ち負かしたそうだが、秀行の参戦により戦況は覆り、勝利をおさめることが出来た。それ故に、現領主がどんなぼんくらであっても先代の功績のおげで安泰なのだという。
「月のない闇夜に儂の船は襲われた。奴らは数多の舟で取り囲み一斉に火矢を放ったのだ。雨のように降り注ぐ火矢に味方の者は応戦も出来ず、気が付くと船内には海水が流れ込み、見る間に沈み始めおった。」
「はっ、そいつぁ、俺の仕事だったなぁ」
灘蔵の嗄れた声が春吉の語りを遮った。
「先代の命で火矢の混乱に乗じて、海賊の船の底をくり抜いて穴を開けてこいってな。泳ぎの得意な俺にとっちゃあ朝飯前よ。そんだけで仕舞ぇなんて随分とあくびの出ることだ、ついでに敵将の首でもころりと落としてやるかと思ったんだが…」
「雪岡大多夫」
春吉の合の手に灘蔵はくわっと目を見開き、憎悪の表情を浮かべた。
「おお、そうよ!雪岡大多夫!涼しい顔をしたいけすかない野郎だ。俺が海賊の頭と対峙してる時に飄々と舟で近づいて、弓矢で持ってそいつのこめかみを射抜きやがった。手柄を横取りしやがって!!」
ブツブツと恨み言を言い始めた灘蔵の目には、17年前の光景が映し出されていたのだろう。春吉が刀で灘蔵の右の手の甲を刺し貫くまで、その行動に気付かずにいた。
「少しは考えろ?まな板の上にのってるのは、あんたの命だろうが。」
「流石の儂も急所を殺られては如何とも出来ず、今はもうこれまでと唐土より奪い盗って来た鐘を道連れに海へと飛込み、藻屑と成り果ててしもうたわ。」
可可と自著気味に笑い声をあげたが、目だけは決して笑っていなかった。春吉はその目に引き込まれる感覚を覚えながらも、完全に呑み込まれまいとする抵抗が、まだ、あった。このまま呑み込まれて戻れなかったら、年老いた父はどうなるというのだ。
「…当時、儂には言い交わした女がおった。」
不意に話が変わり、春吉は戸惑ったが、丁礼は気にも止めずに続けた。
「肥前の長崎という所で傾城をしておった女で、名を連山という。彼女は儂の胤をその身に宿しており、ようやく五ヶ月経った時に儂は討たれてしまった。連山は頼るべき儂を失い、年季があけると仕方なく親里の元に戻り、兄の世話になって子を産んだ。この兄というのが梶作と申す。」
「?!」
「そう、御身の父。そしてその時に産まれたのが御身である。そなたは儂の子じゃ。」
「あ…ああ…」
春吉は心が崩れる音を聞いたような気がした。今、自分を包み込んでいる亡霊が本当の父であったとは。
なんと哀れな姿であることか。
「連山はそなたが儂の子であることを兄に告げることが出来ず、故に梶作もこの事実を知ることはなかった。そうして歳月は流れて亡霊となった儂は、ここで夜な夜な光を放つようにした。そなたを呼び寄せ、これらを話聞かせる為じゃ。」
「なれど、敵たる菊地秀行はもうこの世の者ではありません。」
「息子の貞行がおるではないか。」
「…菊地一族を滅ぼせとの御所存ですか?」
春吉の一言に丁礼は壮絶な笑みを浮かべた。恨みという言葉を人の顔に宿せば、きっとこういう表情になるのかもしれない。
「我が子よ、この修羅の思いを晴らすのだ!さぁ、早くこの鐘に綱をかけてここを立ち去れ!儂の一念が宿りしこの鐘は決して陸へは上がらぬ、決してだ!!」
そう叫ぶと同時に海の底が逆巻き、激流となって親子を包み込むと、丁礼の姿を掻き消していった。春吉の懐に一つの髑髏を残して。
春吉はボロボロと涙をこぼし、その髑髏をそっと抱きかかえた。
「私は春吉ですが、今ここであなたの名を引き継いで七草官四郎年正と改めます。」
そして、丁礼に言われた通りに鐘の龍頭に綱を掛けると、一路、海上を目指して浮上していった。
「父上…」
懐にある父の髑髏と共に。
「お前は二度も私から父を奪ったのだ。」
炬燵櫓からゆらりと立ち上がると、春吉は懐から髑髏を取り出した。
「父上の船底をくり抜いて窮地に追いやり、そしてまた、産みの親より大恩ある梶作様を手にかけた。その痛み、苦しみ、今ここで思い知れ!!」
「ひぃ…っ!!」
鈍い音をがした。肉を潰し骨を砕く音が部屋中に充満し、壁が床が激しく揺れた。灘蔵が悲鳴をあげる度に、春吉の口の端が釣り上がり、歪んだ。
梶作は遠のく意識を必死になって繋ぎあわせて、
「やめよ…」
と、息子に言った。とても小さな、聞き取り難い声だったが、春吉の動きを止めるのには十分だった。
「連山はお前を産んですぐに消え入るように死んでしまったが、そういうことだったか。私はお前を自分の子として育てようと決めて、連山のことはずっと黙ってきた。」
春吉が自分の方に振り向いた気がしたが、息子と思われる影は黒い霞のように見えるばかりで、梶作は息子と信じて話し掛けるしかなかった。
「恐ろしいことを考えるんじゃない。お前の父が滅んだのも、悪を憎む天の采配というものだ。菊地殿に何の恨みがあるというのだ。」
影は首を振ったようだった。
「意志を継ぐと父の尊霊の前で誓いました。一度誓ったことを覆すことは出来ません。」
「はっ!盗っ人の子が小賢しい!!」
灘蔵の怒声が聞こえ、戸に激しくぶつかる音がした。いつの間にか玄関先にまで這い出し、必死になって立ち上がると、春吉に言葉を投げつけた。
「お前があの海賊の倅だとお上に注進してやる、覚悟しておけ!」
「大事を知った敵を逃すと思のか?」
言うが早いか、春吉は灘蔵を引き戻しとどめの刀でその体を刺し貫いた。
梶作は何かもの言いたげに悶えたが、それを言うことなく息絶えてしまった。
そして、しばらくすると夜中であるにもかかわず、庄屋の案内で郡の代官である奥村弥平次が梶作の家へと訪れた。
家の中の惨事に二人は驚きつつも、転がっている屍が梶作と灘蔵だとわかると、庄屋は何もかも悟ったように呟いた。
「灘蔵が悪さをしたんだねぇ。梶作も気の毒に…。」
春吉が頷くのを見て、庄屋は奥村に説明をした。日頃から悪さばかりをしていた灘蔵が、今日の釣鐘引き上げの件で春吉に大金が舞い込んで来たのを知り、それを狙って梶作が一人の時に押し込み、彼を斬り殺して金を奪ったのだろう。そして、その灘蔵を春吉が敵討ちしたのだと。
奥村は頷き、春吉に向き直った。
「それがしは我が君の仰せで参った。今日の汝の浜辺での働きや、その孝心深さに心打たれ、小姓として召し上げるとの仰せだ。この衣装と大小の刀を受け取りなさい。」
と、持ってきたものを差し出した。春吉はそれを受け取ると、
「数ならぬ我が身をそこまで思って下さるとは有難い事です。拒む理由もございません。それに今、父が討たれてのすぐの敵討ちについても、お目見えの時に説明いたしましょう。」
腹には色々思うことがあったが、それだけを言って平伏した。
梶作の亡骸を庄屋に頼み、灘蔵が奪った百両を懐に入れると、春吉は奥村弥平次と連れ立って館へと向かったのだった。
大原や芹生の里の煙をば
まだき霞の立つかとぞ見る
そう詠んだのは山城の愛宕郡辺りのことで、京の都に近いのにも関わらず、ぽつりぽつりとまばらにしか家がない村里のことである。この芹生の里に長く住み着き、木こりを生業としていたそま七という男がいたが、五年ほど前にこの世を去り、残された妻のたつきは、数え年で今年十六となる娘のすずしろと二人で暮らしていた。すずしろは山里育ちに似合わず気品を兼ね備え、大層な器量良しで評判だった。母娘は機を織り糸を紡いでは細々と暮らしてしたが、この春より母のたつきが風邪っぽいとうち臥せって、次第にその症状は重くなり、初秋には命も危ぶまれるほどになってしまった。このたつきにはたった一人、お牛という妹がいたが、方々で悪事を働いていた為、暗闇のお牛と呼ばれていた。ある日、ふらりとやって来たお牛はすずしろを呼びつけると、姉に見つからないようにひそひそと囁いた。
「お前、今度の姉御の大病をどう思っているんだい?アタシも心配で医者殿に詳しく聞いてみたんだが、なんでも大層高価な薬を飲ませなきゃ完治することはないんだってさ。でも、たとえ家財一式売り飛ばしたって金を調達できやしないだろうね。」
青ざめるすずしろを見据え、お牛は殊更に深刻そうな表情を作った。
「ところでさ、常日頃からのお前の親孝行さを見込んでひとつ相談があるんだ。言い難いんだが、九条の廓に身を沈めて、その身代で薬を求めて母様を救ってはくれないかい?姉御はあの通りの堅物だ、全部を話しちまうと絶対に許しちゃくれない。だからお前さんさえ承知してくれるんなら、あとは私に任せな。私にとっちゃぁたった一人の姉さんだ、お前が居なくなったあとはしっかりと看病させてもらうよ。」
と、様々に口説き、諭すと、すずしろも母の病を何としても癒してあげたいと神に誓い、仏に祈りながら心痛の日々を送っていたので、お別れするのは悲しかったが、他に薬代を用立てる術がなく、涙ながらに身売りを承知した。
お牛は内心大喜びだったが、そうとは気どられぬように、何気なさを装いながらたつきに話した。
「姉さんの病気には大層高い人参を使わないと治らないそうだよ。あたしも途方に暮れちまってね…。けど、運がいいことに都の金持ちが妾を探してるって言うんですずしろの話をしたら、大金を出すって言ってるんだ。もうこの話に乗るしか手立てはないんだよ。」
と、様々に言いくるめて、渋々納得させることが出来た。そして、お牛はあくる日の夕方には駕籠と一人の男を伴って、すずしろを迎えに来たとたつきに引き会わせたのだった。男は懐より二百両の金を取り出した。
「これをやるから、今すぐにすずしろを連れて行くぞ。」
との言葉に親子は今更ではあったが、どうしても離れ難くて泣き崩れてしまった。最後の別れをしたいとしばしの間だけ二人にしてもらい、たつきは弱々しい小さな声でこう言った。
「そま七殿の遺言でしたので、今まで黙っておりましたがそなたは私達の実の子ではありません。ほんに、まるで夢のように過ぎ去って行った15年程昔のことです・・・。」
そま七が日雇いの仕事を受けて肥後の国へと向かった、その帰りのことだった。雲の多い夜だった為、月明かりも星の光も途切れ途切れにしか見えず、豊前豊後の国境にある松尾峠という所で道に迷ってしまった。困ったことだと頭を抱えていたところ、丁度道の傍に辻堂があり、これ幸いとその中で夜が開けるのを待つことにした。ほっと一息つけたことと、山路を歩いてきた疲労からか、いつの間にかうとうとしまったが、にわかに辻堂の外が騒がしくなり、刀の交わる音が聞こえて、一気に眠気が吹き飛んでしまった。いつの間にか雲が晴れて辻堂の前は月影で白く輝いていたので、そま七はその騒ぎの原因をすぐに目に捉えることが出来た。
そこには、二十歳ぐらいの若い女が刀を抜いて立っていた。彼女の周りを四、五人の山賊と思われる男たちが取り囲み、彼らもまた血刀を構えてじりじりと女との間を詰め寄っている。死に物狂いの斬り合いに、そま七は辻堂から出るに出られず、一体どうなってしまうのだろうと見ていると、女は見事な腕前で山賊全員を討ち取っていった。だが、その代償に己の身にも多くの手傷を負い、虫の息となって倒れこんでしまった。そのあまりにも痛々しい姿にそま七は胸が痛くなり、おそるおそる辻堂から出てくると傍に駆け寄った。
「御身はどなた様でありますか?何故に斯様な災難に・・・。気をしっかりとお持ち下さい。」
と、声をかけて介抱すると、女は少しだけ生気を取り戻して、懐の辺りを手探りだした。よく見るとそこには大事そうに抱きかかえた赤子がおり、その子をそま七に託すと女は伏し拝んで言った。
「この子は大切な御主人様の御子様です。去年お生まれになられたばかりなのに・・・行く末を思うと・・・心残りです・・・。」
それだけを言うと、女はそのまま息を引き取ってしまった。そま七は途方に暮れてしまったが、腕の中の幼子を見てみると大層愛らしく、また赤子とはいえ高貴な顔立ちをしていた。身につけていた錦の袋の中を開いてみると、お守りではなく、龍を彫った目貫が入っていた。意を決したそま七は、女の亡骸を埋めるとその子を連れて一路家へと歩き出した。
「そうして育て上げたのがあなたなのです。後の証明になるだろうとあなたの首に下げている守り袋がその時の錦。中には目貫が入っていますよ。」
ほとほとと涙を流すすずしろの頭を撫でて、たつきは優しく微笑んだ。
「本当の親子ではない、そのこととでお前を傷付けることになってはいけないと、そま七殿と話し合って今まで打ち明けてきませんでした。」
「今、初めてそれを知りました。実の子ではないのに、今まで育ててくださった恩に露ほどにも報いてこなかったことが悔やまれます。」
親子は泣き沈み、これからのことを考えるだけで心が押し潰されてしまいそうだった。だが、そんな二人の様子にまったく気にすることなくお牛が割って入った。
「死に別れするわけでもあるまいし!姉御が本復すりゃ私と一緒にお前の所に訪ねて行ってやるよ。それを楽しみにすりゃぁいい!」
と言って、泣いているすずしろを無理矢理引っ張って駕籠に押し込むと、迎えに来た男に目配せした。男は承知とばかりに頷いて、駕籠を飛ばして立ち去った。
たつきは臥所より這い出してそれを見送ったが、あまりにも深い嘆きに襲われた為か、病いに蝕まれた体が痛みだし、差込みを押さえて苦しがった。お牛は驚き慌てて、姉の背後に廻ると背をさすって介抱したが、その目はせわしく辺りを見回し、誰ぞ人の気配がないかと様子を伺っていた。そして、よしとばかりに頷くと肩にかけていた手拭いを取り、すばやく姉のたつきの首に巻きつけた。強く引き締めあげると、ただでさえ体の弱っているたつきは抵抗することが出来ず、声さえ上げずに息絶えてしまった。お牛は手の力を緩めると、駕籠の行った先を見ながら、
「後の仕上げは糺の河原で、だね。愚図な奴らに任せたままで仕損ねられたら厄介だ。早く行かないと。」
と、一度は駆け出して行ったが、思い直して姉
の家へと戻り、納戸に入ると出刃庖丁を取り出した。たつきの首を締めた手拭いを引き解くと、それで庖丁を包んでしっかりと腰に差し、姉の亡骸には布団をかぶせて、そのまま駕籠を追っていった。
夕暮れは既に過ぎており、空は夜の色で染め上がっていた。
たつきの家に来たのは夢八という男で、九条の里の轡屋(遊女屋)をやっていたが、お牛が彼に話を持ち掛けて、
「都の中の金持ちの妾に抱えるってことにして迎えに来ておくれ。そいつはかねてよりあんたも知っているあたしの姪のすずしろだよ。」
と告げた。夢八もすずしろが見目良いことを認めていたので、二百両出すということで商談が整い、今日迎えに来たのだった。
そうして駕籠を急かしながら糺の河原に来た時に、顔を隠した二人の男が木立の陰より現れて、件の駕籠を奪い取り、夢八は突き飛ばされてしまった。
「何奴だ!この駕籠に手を出すってんなら怪我させるぜ!」
と、夢八は息巻いていたが、また一人木立より現れてものも言わずに斬りかかった。だが、夢八も心得たもので、刀を引き抜いてそれと切り結んだ。この有様に駕籠かき達は驚き、後ろも見ずに逃げ去ってしまった。最初に現れた二人は放り出された息杖を取り上げると、夢八の後ろから足を薙ぎ払って打ち倒し、刀を持った者が畳み掛けるように何度も何度も切りつけて、遂に止めを刺してしまった。すずしろは駕籠の中でそれらを見ていたが、生きた心地もせず転び出て逃げ出そうとしたが、男達にそのまま駕籠に押し込められて、林の中へと連れ去られてしまった。そしてそこで引きずり出され、三人のいやらしい視線に晒された。
「俺たちゃお前の叔母のお牛に頼まれてな、最初から待ち伏せしていたのさ。お前を廓なんぞに売り飛ばさずに引きさらって、遠国へと八重売りする。その身代を山分けしようって寸法よ。」
すずしろは驚き、
「叔母上の悪巧みだったのですか?私だけではなく母様まで騙して・・・。母様が心配だわ。」
と呟くのを、一人がうち笑った。
「たつきも今頃はお牛の奴が片付けていることだろうよ。やがてここで合流する手筈になっている。お前を最初に売り飛ばす先は芹生、花園、八瀬、小原って所から骨折り賃を頂戴するんだが・・・。」
三人は共に不気味な笑みを浮かべてお互いの顔を見合うと、泣いている娘の手足を押さえつけた。
「近郷きっての大評判、人知る所の器量よし、荒れ野育ちにゃ珍しい、そのすずしろの初を頂くとしようか!」
あわや可憐な花が横暴な力によってその花弁を散らそうとしたその時、一朶の黒雲が舞い降りてきて、すずしろを包み込むと虚空遥かに上昇していった。三人は呆気に取られながらも、足を爪立て、両手を上げながら雲めがけて追いかけて行った。この三人は、ぐれ八、まや助、邪魔蔵といって、日頃からお牛の悪だくみの下働きをする者どもだった。
谷へと注ぐ水の音が心地よく、松に吹く風が頬を撫でていることに気付いて、すずしろはようやく意識を取り戻した。辺りを見ると、ここが一体何処であるのかとんと見当もつかない。人気のない深山であり、ただ中空に月が照り輝いている。その月だけは里のものと同じだったが、はたしてこれが夢なのか現であるのか心迷うばかりで、すずしろは落ち着くことが出来ずに、きょろきょろと目や首を動かした。すると、向こうにあった巌に誰かが佇んでいるのが見えた。近付いてみると、その異様な姿に足が竦んでしまった。例えるなら、姿は匂える弥生の花のように艶やかでありながら、髪は秋の野のススキのように乱れていた。身につけている着物は元々は白綾の色であっただろうに、今は鼠色となって煤けてしまっていた。だが、その気高き様子は上流階級の夫人を彷彿とさせた。女性はすずしろを目に止めて手招きした。だが、すずしろは怖さ、恐ろしさが先立ってしまい、その場で打ち震えてしまっていた。件の女性はにっこりと微笑み、
「御身の危機を救ってここに呼び寄せたのには訳があるのじゃが、怖がらせてしもうたようじゃの。どれ、少し手助けをしてやろう。」
と、呪文を唱えると、すずしろは自分の身に何かが入り込んだ感覚に驚き呆然としたが、たちまち腹の底から勇気が湧きあがってくるのを感じた。つっと女性の前に寄って正座をすると、
「そもそもここはどこの国でなんという山なのですか?」
と明瞭な口調で尋ねた。女性は満足そうに頷くと、
「見事な問いじゃ。ここは豊後の国、大分郡の錦が瀧の谷間で、そなたの故郷の山城より百里離れてある。瞬く間に辿り着いたのは妾の通力に他ならなぬ。そして、何故ここに呼び寄せたのかも詳しく語ってやろうぞ。」
そう言って着物の袖を整えると、長い話を始めた。
「もとよりそなたはただの匹婦ではない。当国、臼杵の城主であった大友入道宋隣の忘れ形見、その名を若菜姫と呼ぶ。赤子の時に父宋隣は隣国の城主、太宰の少弐経房に遺恨を受けることが有り、幕府の室町殿に讒言されてしもうたのじゃ。謀反の様子、これありとな。討伐の軍と戦う羽目にあったが、最初は武勇優れたる宋隣が連勝し、敵もせめあぐねていたのじゃが、将軍家は筑前の国守、菊地修理大夫秀行に命じて精鋭の一万余騎を投じて臼杵の城に押し寄せて来た。宋隣は『このままのんびりと敵を待っていては遅れをとることになる。こちらより打って出る!』と、一族郎党を従えて間髪入れずに打ち出たのじゃ。両軍は船岡川で対峙したのじゃが・・・よし、その様子を眼前に再現して見せようぞ。」
口に呪文を唱えて印を結ぶと、不思議なことに山が鳴りそれに呼応して谷が震え、辺りを流れる谷川より数多の沢蟹が群がり出て、また近くの古木の根元からは多くの蜘蛛が同じように群がり出てきた。双方は河原を隔てて向かい合うように並び、その様子はまるで陣を張っているかのようだった。
「蜘蛛が大友勢、蟹は菊地勢じゃ。さぁ、勝負の様を見よ。」
左右の蜘蛛と蟹は 入り乱れて 、入り乱れて、蜘蛛が巣を吐いて沢蟹を引っ張ろうとすれば、蟹は鋏をあげてこれを切り、しばらくの間一進一退の攻防を保っていたが、中でも一匹の優れた蜘蛛が糸を吐き出して沢蟹の群れを一斉に薙ぎ払った。すずしろは嬉しそうに脇目も触れずにそれに見入っていた。
「大友の勝利は誰が見ても確定しておった。じゃが、保身の為に宋隣の弟である刑部宗連が菊地方へと寝返り、父をはじめとする一族郎党はその場で残らず討ち死にしてしもうたのじゃ。」
一匹の蜘蛛が蟹に加勢したと見るや、同類を食い散らかし、蟹はこれに勢いづいて見る間に蜘蛛を殺し、制圧してしまった。すずしろは、
「菊地勢に模した蟹の勝利を見ていただけとはいえ、なんと口惜しいことか!!」
と言いながら、辺りにあった岩を持ち上げて、沢蟹の群れに投げつけると、一匹残らず押し潰してしまった。はっと我に返り、どうしてこのような怪力が出たのだろうと訝しんでいると、女性がにっこりと笑いながら、
「妾は数百年この地に棲み、人からは山の主とまで呼ばれておる。ここは大友代々の領地ではったが、この地には杣人一人として立ち入ってはならぬと言い伝えてそれが守られてきておった。じゃが、かの一族が滅び失せ菊地の所領となって以来、守りは破られてしもうた。更に近年には乾坤丸とかいう大船を作るためにこの山にある大木を悉く切り出し、あまつさえ妾をも退治せんとの噂まである。ゆえにそなたの力を借りて菊地の家を滅ぼそうと思うたのじゃ。先程の力は妾がそなたに授けたもの。あとは人を服従させる奇術がなければ大望も叶わぬじゃろうて。これよりそなたに希代の術を授けよう。そなた自身の為にも父の仇を討って恨みを晴らすがよいぞ。」
そう言って幾つかの術を授け、また一巻の秘書を取り出してこれを渡した。すずしろはこれを拝領し、すべてを読み終わると瞬く間に会得してしまった。術を試みてみようと呪文を唱え印を結ぶと、今まで転がっていた蜘蛛や蟹が全て消え失せて、先程の動かした岩が動いたかに見えると、世にも恐ろしげな蜘蛛の姿となってすずしろを守護するかのように寄り添った。すずしろは大喜びした。
「このような奇術を会得したならば、菊地のなどあっという間に打ち倒してしまえるわ!色香に惑わせたり、時には男に変化して策を弄し、そしてたくさんの味方を集めましょう。ご安心下さいな。ああ、でも・・・」
差込みを手で抑えながら、笑顔が一転して曇ってしまった。
「芹生にいる母様は一体どうなってしまったのでしょうか?」
女性は瞼を落とし、薄く長い息を吐き出し、吸い込んで、何かを察知したかのように目を開けてすずしろを見つめた。
「・・・たつきはもう既に妹のお牛の手に掛かって命を落としてしまっておる。その仇もそなたの手で討つがよい。」
現実を突きつけられて、泣き出しそうな顔をしたがすぐに首を振ってそれを打ち消すと、すずしろは大きく頷いた。
「うむ。だが、一つだけ恐れることがある。菊地の家に代々伝わる花形の名鏡に顔を映してはならぬ。あの鏡に顔を映せば、たちまちにその術は破れてしまうのじゃ。このこと、ゆめゆめ忘れるでないぞ。」
そう言い終えると、女性は身を起こし立ち上がった。すずしろに寄り添っていた大蜘蛛が女性の先に立ち、まるで車輪のように素早く動き出すと、谷を隔てた向こう側の岩室に飛び移りその後ろには千筋の糸が伸びていた。女性がそれにうち乗り、谷の半ばまで歩いて進むと、疾風が巻き起こって木の葉をバラバラと打ち落とし、沢の水が溢れた。山中に凄まじい音が響いたかと思えば、次の瞬間には女性の姿が跡形もなく消え去ってしまった。
すずしろは手に持った一巻を大事そうに懐の中に入れて、谷の向こう側を伏し拝むと、山を降りるために歩き出した。が、不意に熊笹の繁みが揺れて、ぬっと人の手が突き出し、それらを押し分けると、山賊らしき男一人が姿を現した。山賊はすずしろの姿を見ると何も言わずに彼女の帯を取って引き寄せようとしたが、すずしろは体勢が不利であると判断してそれを振り払い、身をかわして男の背後をとった。が、繁みの奥から重藤の弓が矢を放ち、すずしろの着物の肩先を穿って取り留めた。
「女一人に・・・物々しいこと。」
すずしろは印を結んで術を繰り出し、繁みに隠れていた弓を引っ張り出した。出てきたのは、前髪のある狩場姿の凛々しい武士であり、行縢を左右に蹴り開きながら弓を投げ捨てると、すずしろに詰め寄ってきた。明け方近くではあったが、月は雲に隠れて辺りは真の闇。二人の男がすずしろを生け捕りにしようと取り囲み、武士の手にはすずしろの袖がしっかりと握られている。緊迫した空気の中、最初に動いたのはすずしろのほうだつた。袖を振り切ろうと体を回転させると、力負けしたのは武士でもすずしろでもなく着物の方で、肩口から破れて武士の手中に残った。雲が晴れて月影が左右よりあらわれても、すずしろは驚くことなく鳥のように舞って男たちの刀から身を躱すと、刃は岩に当たって火花を散らした。その隙に口に呪文を唱えて印を結び、雲か狭霧のような靄が沸き立ち上がってすずしろの姿を覆い隠すと、そのまま姿を消してしまった。
初編 了
すずしろ、蜘蛛の妖術をうけて男に身を変えて博多の廓へ入り込むことは第二編にて著し、引き続いて出版致しますのでどうぞお買い上げの程、奉願候。めでたしめでたし。
第二編は若菜姫はますます蜘蛛の術を使いこなし、様々に身を転じて菊地の家を詮索し、七郎四郎は青柳春之助と名乗って、貞行に媚びて国の撹乱を企てるのであります。そこに菊地第一の忠臣、鳥山大膳之助(秋作)の生い立ちに、初編の口絵にありました蔭沢夏之丞と雪岡冬治郎両人の美少年の行動や、暗闇のお牛の動向などを説いて参りましょう。けれどそれは三編、四編でのお話。年々順調に出版できればお目に出来ますので、御好評奉願上候。
書物類 草子 東錦画販売
通油町 藤岡屋慶治郎