挫かれた前進
若葉さんとの距離が遠くなった事を、寂しいと思ってはいけない。私が決めて選んだのだから、傷付くなんて許されない。
若葉さんは背中を向けた。その背中が、傷付いているように私には見えていた。だから、泣くのはお門違い。そうは分かっていても、涙は次から次に溢れて止まらない。
聞こえないように、と声を圧し殺して泣き続けた夜。三角座りをしていた私に、窓から朝日が差し込んだ。
朝だ。もう、朝。時計は午後四時を差していて、早朝の訪れを嫌と言うほど知らしめている。
若葉さんはご飯を食べたのだろうか。きっとまた、食べていない。物音で分かる距離に居る。それがひどく辛かった。
だけど、私は狡いから。引っ越したくないと思っている。若葉さんと近い場所に居ることを、厚かましくも望んでいる。
「……喉、痛い」
声は上げていないのに、渇いてカラカラになった喉が擦り合うように痛かった。
ごみを出しに行くと決意したのは、ふっきれたからじゃない。若葉さんがいつもより、一時間も早くに出掛けていく音がしたからだ。
「おはようございます」
冷やしたけれど、未だ熱を持ったままの腫れた目蓋。前髪で隠しながら、早足にごみを指定場所に下ろす。ブロックの横にはすらりと伸びた白い足、誰のものかは分かっている。何度か往復して溜まっていたすべてのごみを出した後に、私は巴さんの傍へしゃがみ込んで声を掛けた。
「巴さん。おはようございます」
「あー……ハイ」
寝惚けている。こんな所で眠れるなんて、ある意味賞賛に値すると私は思う。
「奏太くん呼んできます。巴さん、鞄しっかり握っていて下さい」
近隣の人は毎度の事だと慣れているが、誰か見知らぬ人が巴さんに何かしないとも限らない。珍しく鞄を放っていた巴さんに気が付いて、持ち手をぎゅっと握らせる。いつもは肩に掛かっているバッグが珍しく離れた距離にあって、夜明け前の泥酔具合を想像すると苦笑が自然に浮かんで来た。
「“はい”」
「おはよう、奏太くん。紫月です」
奏太くんの部屋のチャイムを鳴らせば、奏太くんはドアを開けて一番先に、ごみ置き場をちらりと見る。私を通り越して見た巴さんに溜め息を吐きながら、次に私へ視線を向けた。
「あれ、目腫れてるじゃないですか」
「……寝不足のせいかな。今日はゆっくり寝るつもり」
笑えていただろうか。うまく、笑えているだろうか。
「――そうっすか」
うっすら微苦笑を浮かべながら、奏太くんは外に出てきた。巴さんを背負って、奏太くんは二階への階段を登っていく。
「紫月さん」
「うん?」
「俺、いつでもチャットに居るんで」
素っ気ないように取り繕った、優しい言葉に少し戸惑う。何でもない風を装い、奏太くんは心配してくれている。有り難いとは思うけれど、相談しようとは思わなかった。相談しても、仕方がないことだから。奏太くんの優しさだけを受け取って頷く。
「ありがとう」
もしも奏太くんを好きになっていたら、私は楽だったんだろうか。――きっと、誰と結ばれようが楽なことは無かっただろうな。
「じゃ、また」
「うん。朝からありがとう」
「お礼はそこの酔っ払いに言われたいんすけどねぇ」
「あはは。じゃあ、また」
ひらひらと手を振りながら降りていった奏太くんを見送り、部屋の前に座り込む巴さんへと声を掛けた。
「巴さん。起きてください」
「……あ」
「おはようございます。大丈夫ですか?」
巴さんはうっすらと目蓋を開けて、とろんとした目で私を見る。
「おは、よ」
「はい。水持ってきますね」
「……いい。今日は、平気、だから」
眉間を揉みながら、巴さんは辿々しく答えた。今日は割りと意識がハッキリしているらしい。
「いつもありがと。平気よ」
ゆっくりと、ふらつきながら、巴さんは立ち上がる。いつでも支えられるようにと私も一緒に立ち上がり、巴さんを窺う。鞄に手を突っ込んで、巴さんは何とか鍵を差し込んだ。ちらりと私を見る瞳は、やっぱり困惑に歪んでいる。
「ありがとう。迷惑掛けてゴメン」
そう言って部屋に入る巴さん。首を振って気にしていない旨を現し、微笑んで見送った。巴さんの複雑そうな表情が気にならないと言ったら、嘘になる。だけど、見てみぬ振りをするのはある意味マナーのようでもあった。他人へ踏み込まない人達、境目を決めた不思議な住人。それぞれに理由があると身をもって知っている。
部屋に帰ってキッチンに立ち、朝御飯の準備を始めた。食べたくなくても食べなきゃいけない。病院は、怖いから。
不協和音が鳴り響くのを、私は察知出来なかった。
警告の兆しもなく、それは唐突に現れた。