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私の告白

 兄が来たのはそれから二日が過ぎた頃。私がメールを返さなかったから、と心配して来てくれた兄は仕事終わりにアパートを訪ねて来た。


「何かあったか?」

「ううん、何もないよ」


 苦笑して首を振る私に、兄はふにゃりと目許を和らげて微笑みを向けてくる。童顔とよく言われる兄は、隣に並べば私と同い年でも通りそうな若々しい容姿をしていた。


「言ってみろって。力になれるかも知れないだろ」

「本当に何もないから。心配掛けてごめんね」

「迷惑だとか思わなくて良いからな。紫月の事なら苦にならない」


 優しげな眼差しが、私の心臓をぎゅっと掴む。こんな風に一生兄を煩わせて生きていくのか、と心のどこかで責める声がした。重荷になりたくないと思いながらも、変わろうとしない情けない自分。惨めで、とても恥ずかしい。怖い、という感情はなかなか無くなる事がなくて。


「お兄ちゃん……」

「ん?」

「好きな、人ができた」


 若葉さん。――若葉、さん。好きな人が辛いときに、側にも居られない私が隣に立つ事は難しい。だけど、好きだ。若葉さんのことは、間違いなく好きだった。諦めなくちゃいけないと思いながら、諦められない。


「よし、お兄ちゃんに任せろ」


 え?と聞き返したら、兄は意味深に笑って見せた。



 思い返して見れば、兄は少々勘違いを起こす事があったような気がする。私の悩みが単なる恋煩いだと勘違いした挙げ句、色々な意味で勘違いをした。ちょっと待ってろ、と言って部屋を出たきり数十分戻って来なかった兄はどうしてそこに至ったのか、

「ひ、久し振りっすね……?」

 疑問符をたくさん浮かべた奏太くんを連れてきた。


「お兄ちゃん……」

「じゃあな、紫月。事情は分かってくれてるから」

「ちょっとそれどういうことっ……!」


 爽やかに笑ってドアを閉めた兄は、事もあろうに鼻唄混じりに帰っていった。


「……」

「……いやぁ、何かいきなり」

「ごめん、ごめんね!何か色々勘違いがあるみたいで!」

「ははは……」


 気まずい。知られたくないと思っていた特殊なトラウマをまさか奏太くんに知られてしまうなんて。

 考え無しの兄じゃない。お馬鹿って訳でもない。兄は兄なりに考えた結果、たぶん奏太くんが片思いの相手だと思ったんだろう。けれど、トラウマについて話したことはやっぱり責められずにはいられない。――兄から助けて貰っている以上、そんな事は言ってはいけないんだろうけれど。


「元気そうで良かった。紫月さん全然出てこないから」

「あ、うん。……ちょっと、忙しくて」

「……若葉さん、心配してましたよ」

「え?」

「最近、顔色がずっと悪いっす、あの人。仕事忙しいんですかね」


 奏太くんは後ろ頭をくしゃりとかいて、私に微苦笑を向けた。


「付き合ってんですか、若葉さんと」

「……ううん、付き合ってない」


 数秒遅れて答えた私に奏太くんが困惑を浮かべる。


「俺、紫月さん良いなって思ってるんですよね。……若葉さんはとっくに気付いてるでしょーけど」


 奏太くんからの突然の告白にぎょっとして固まったけれど、お構いなしに奏太くんの口は動く。


「だから、チャンスかなって。俺と付き合ってみません?」

「奏太くん……」

「事情があるのも別に気にならないし」

「ごめんなさい!」

「早っ!えっ!?早っ!」


 とりあえず、奏太くんとのお付き合いは考えられない。


「若葉さんの顔色が悪いって……?」

「あっ、そっち、あー…うん、紫月さんそっち系か。一途な感じか、……いや予想はしてたけど何か…うん」

「奏太くん?」

「……何でもないっす。若葉さん、体調良くなさそーだったんで、会ってあげたらどうですか」


 何だかとてもどうでも良さそうな奏太くんは、つっけんどんにそう言った。


「紫月さんの事情とか、若葉さんなら受け入れてくれると思いますよ。俺が言うのも何ですけど、あの人寛容だから」


 じゃあ俺帰るんで。と、さっさと帰ってしまった奏太くん。自分の事情を知っている人が増えて、良かったのか悪かったのか正直なところ分からない。でも、少しだけ。ほんの少しだけ、気が楽になったような気がする。


「大丈夫かな……」


 若葉さんのことが気になる。恋なんかして良い身分じゃないと、その思いが消えた訳じゃないけれど、体調を聞く位はしても良いか――と甘えに似た感情が沸き上がる。


 会えない、話せない。それは、ただの怖がりと自責の念から決めたことだ。受け入れてくれるかどうかは別にしても、若葉さんに心配を掛けた事や私が抱いた戸惑いは話してみよう、と思った。奏太くんの後押しで少しの勇気が湧く。


 何も、進展する訳じゃない。ただ――会って、話すだけ。


「……会って、くれるかな」


 今夜、若葉さんが帰ってきたら、迎えに外へ出ていこう。いつも待ってばかりだから、一度くらいは迎えに。



 **********



 深夜。若葉さんが帰ってくる前に、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。いつも通りの時間なら、もう少しで帰ってくる。ドキドキしながらドアノブを捻ると、少し肌寒い風が入って来た。


「散歩、したいな……」


 玄関を出て外を眺める。

 好きだった。意味のない散歩も、静かな夜も。今じゃ出歩く事にさえ、怯えてしまう情けない自分。

 カン、カン、と音を立てて鳴る階段を降りて行くと、遠くからバイクのマフラーをふかす音が聞こえてきた。


「――若葉さん」


 聞き慣れた音。求めていた音。待ちわびて、ときめきと切なさで一杯になっていたディナーの前。思い出せば溢れてくる。若葉さんを想いながら、ご飯を作っていた日々が。


 近付いてくるバイクの音に、心臓が早くなる。来ないで、会いたくない。緊張のせいでそんな風に考えてみたり、早く来て、会いたい、なんて真逆の感情を抱くジレンマ。


 街灯に反射して、きらりとヘルメットが光った。若葉さんはアパートの前でエンジンを切って、ヘルメットを豪快に脱ぐ。それからヘルメットをハンドルに掛けて、バイクをゆっくりと前に押す。暗がりに居る私には、まだ気が付いていないようだった。

 声を掛けるのを躊躇ってしまい、どうにも前に踏み出せない。そうして、おろおろしている間にも、若葉さんはバイクを押して近付いてくる。


「わ、」


 私の口から飛び出た名前の最初の音に、若葉さんが顔を上げた。


「紫月……?」


 大きく見開かれた瞳に、驚きを隠せない表情。私に気付いた若葉さんは、一瞬きょろきょろと周囲を見てからバイクの後輪に足を払った。

 ザッと地面を蹴る音がする。置き去りにされたバイクは、若葉さんが手を離してもずっと立ったままだ。


「若葉さ……」


 おかえりなさいと久し振りに、若葉さんを労りたい。さほど距離のない私の若葉さんの間は、あっという間に縮められた。何かを口に出す前に後頭部へと、手のひらの感触が伝わって来る。骨ばっていて、すらりと伸びた細い指。だけど、私より大きくて逞しい手のひらが背中と後頭部に伝わった。


「……心配した」


 安堵の息は震えているような気さえした。抱き締められたのだと気付くまで、ほんの少し時間が空いて。


「良かった。元気そう……だが、何処か悪くしてないか?体調が悪いとか……」


 私の後頭部に当てられた手が、髪を何度も撫で回す。確かめるようなその手つきに、溢れる想いはひどく切ない。


 どうして分からなかったんだろう。どうして気付かなかったんだろう。

 ――心配した。

 その台詞がいとも簡単に出てくる事こそ、若葉さんの“気持ち”の真実。


 疑っていた訳じゃない。ただ、簡単に信じられなかった。若葉さんが私を好きだと素直に受け入れられないのは、きっと未来が無いことを無意識に理解していたからだ。


「おかえりなさい、若葉さん……」


 張り裂けそうだ。胸が痛くて、顔が引き攣って仕方ない。若葉さんと結ばれないなら、恋愛なんてしなくて良い。もしも、引きこもりの私を好いてくれる誰かが現れたとしても、きっとこの想いがある限り本当に好きにはなれないだろう。


 若葉さんが、好き。私が普通だったなら、私にトラウマなんかが無かったら。付き合う事も結婚も、飛び上がるくらい嬉しいイベントだったんだろう。


「紫月。いきなり悪かった。つい焦ってしまって……」


 身体を離して、若葉さんを見つめる。申し訳なさそうに歪んだ眉と、ヘルメットを脱いだ衝撃で乱れた前髪が気になった。自然と手は伸びてしまい、若葉さんの前髪を触る。誤魔化したかったのは、消し去りたかったのは、歪んだ眉か乱れた前髪か。どちらも直してあげたかった。それだけだ。


「若葉さん」

「ああ。紫月のペースで良いから、少し考えてみてくれないか。結婚じゃなくたって良い――」

「ごめんなさい」


 機械みたいに出てきた言葉は、無感情に響いていた。


 例えば、若葉さんのお母さん。例えば、若葉さんのお祖母さん。若葉さんの職場の人に、若葉さんの親戚の人。老年の女性が居ないと言う保証は何処にも無い。

 挨拶すら出来ない。顔も見れない、会話も出来ない。こんな特異で面倒なトラウマを持った私が若葉さんと生きていく事はどう考えても難しい。


「ごめんなさい、若葉さん」


 シンとした静かな深夜、私は唇を噛み締めた。

 泣いてしまいそうだ。若葉さんを前にして、そんな顔は見せられない。


「それが、紫月の気持ちなのか?」


 落ち着いた低音が愛しくて堪らなかった。


 好きです、好きです、若葉さん。内心では何度も繰り返している告白を、私を口にしてはいけない。

 若葉さんに、迷惑を掛けたくない。只でさえ忙しい若葉さんの重荷になるなんて絶対に嫌だった。

 だから、ここまで。ここで、終わらせなくちゃいけない。


「――はい」


 絞り出した私の返事に、若葉さんが息を吐き出す。心なしか下がった若葉さんの肩が、くるりと私に背中を向けた。


「分かった。……悪かった、長いこと付き合わせて」


 違うんです。付き合って貰っていたのは私の方です。若葉さんは、いつも私の押し売りのようなディナーを温かく受け入れてくれていた。


「俺は、紫月が好きだ。断られてもすぐに忘れられる性質(タチ)じゃないから、暫くは紫月にも嫌な思いをさせるかも知らねぇけど」


 嫌な思いなんてしない。それを口に出して言えたなら。


「なるべく、紫月には近付かないように気を付ける。……なぁ、紫月」

「……はい」

「好きでも何でも無かった、のか」


 想いを口に出して言えたなら。


「はい」


 どんなに良かっただろう。


 あんなにも大事にしてきた、二人きりの夜更けのディナーがここで終わる。


 若葉さん。――若葉さん。


「おやすみなさい、若葉さん」


 あなたのことが、私は好きです。



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