一歩前へ
帰って来た若葉さんの顔色は真っ青で、今にも倒れてしまいそうだった。
「若葉さん、顔色が」
「悪い、今日は……」
「若葉さんっ!」
言い終わる前に壁にふらりとぶつかって、若葉さんは玄関でしゃがみ込んだ。どうしたら良いか分からずに右往左往する私を見て、若葉さんが辛そうな顔をしたままうっすらとだけ微笑む。
「紫月」
「若葉さん?」
「ただの風邪だ。そんなに心配するな」
「しますよ…。風邪なら、薬と氷嚢と……ご飯はおかゆに、」
慌てながらも風邪に効く物を探していると、若葉さんはうろちょろする私の腕を掴んでそれを止めた。
「紫月の迷惑になるだろ。今日はメシは良いって言いに来ただけだから」
「……迷惑になんかなりません。出来るまでベッドで寝ますか?」
「おい……」
「はい?」
「それは、どこのベッドで?」
「え?私の部屋の……」
はぁ、と溜め息を吐く姿は風邪のせいか悲壮感が漂っている。若葉さんが掴んだままの私の手首はすっと引かれ、ストンと床に座り込んだ。目線が同じになった若葉さんと目を合わせると、呆れた双眸が私を捉える。
「馬鹿言うな。帰る」
「じゃあ、持って行きます」
「……迷惑じゃ、ないんだな?」
「はい」
「部屋、鍵開けとく。……ありがとう」
眉間を押さえ、ゆらりと立ち上がった若葉さんはふらふらしながら私の部屋を出ていく。気になってドアを開けたまま見ていたら、案の定とでも言うべきか――若葉さんはドアに頭をぶつけて、壁に寄りかかりながら部屋の中に入っていった。
――押し付け過ぎた、かも。
心配だった。だけど、若葉さんが嫌がったのなら私は諦めなくちゃいけなかった。それなのに押し付けた私に、若葉さんは不快感を示さない。優しいからって甘えちゃいけない。分かっているのに、心配で堪らなかった。反省と自己嫌悪は同時に襲い掛かって来て、何も食べていないし夜だから――と理由をつけて雑炊を作る。
食べられないかもしれない。だけど、少しでも何かを口に入れて欲しい。若葉さんが好きだと言ってくれた具の入った卵雑炊を作り、出来るだけ控え目に風邪に効く物を準備した。
「お邪魔、します。若葉さん」
深夜だから、と申し訳程度にドアをノックして控え目に声を掛けながら、若葉さんの部屋に入る。
同じ間取りの部屋だからか、何となく進みやすい。突き当たりのドアを開けると、若葉さんはぐったりと黒いソファーに凭れていた。
「若葉さん……」
きつそうな姿は痛々しく、毎日の疲労に加え風邪の攻撃に耐える姿はとても不憫だ。
「紫月」
ゆらりと起き上がろうとした若葉さんに、慌ててトレイをテーブルに置き近寄った。隈の出来た目許と青ざめた顔色に私の顔も情けなくなり、何かしたいという気持ちを起こさせる。
「寝ていて下さい。雑炊、食べられそうですか?」
「卵のやつ?」
「はい」
「食べる」
背中を支えて、若葉さんが起き上がるのを手伝う。怠そうに座ったのを確認してから雑炊の蓋を開けて、蓮華を若葉さんに差し出した。
「変な感じだな」
「え?」
「紫月が家に居るって」
雑炊を掬って、一口食べる若葉さん。ゆっくりと咀嚼する様子を見ながら、薬とペットボトルのミネラルウォーターをトレイから移動させる。
「明日もお仕事、ですよね」
おそるおそる聞いた私に若葉さんは浅く頷く。
きっと休めないんだろう。いつも遅くに帰ってきて朝は早く出ていくから、よっぽど忙しい職種なんだとは思っていたけれど、休めないのはきっと辛い。
「……紫月に話した事は、無いな。別に、隠してる訳じゃないが」
「言いたくないなら聞きません。あの、ただ、若葉さんの体調が気になっただけなので」
「それ」
「それ?」
「無理やり踏み込んで来ないから、紫月と過ごすのは居心地が良い」
一息吐いて、若葉さんは雑炊をまた口にした。
踏み込みたいと思うには、沢山の覚悟がいる。私のことも話す覚悟、嫌われても仕方ないと思う覚悟。
簡単に話せるなら、きっとこんなに苦労はしない。
「今日は、なんかあったか」
私の口数が少ないからか、若葉さんは珍しく聞いてきた。話そうかどうしようか迷って、少しでも若葉さんの気が紛れるならと今日あった事を話始める。
「今朝、タッパーを返しに行ったんです」
「ああ、いつものやつか」
「はい。そしたら、チャットのURLが書かれた紙があって」
「ちょっと待て。それは……コウイチからだよな」
「はい」
目を見開いて驚いた若葉さんに首を捻りながら、暫く口を閉ざして窺う。眉を寄せても格好良い顔を眺めていると、若葉さんはハッとしたように私を見た。
「悪い、それで?」
「あ、はい。それで、今日初めてチャットをしてみました」
「奏太か」
「え?」
「奏太も居ただろ?そのチャット」
どうして分かったのだろう。こくこくと頷いた私に、若葉さんは溜め息を吐いた。
「……なぁ、紫月」
「はい」
「恋人は、いんのか」
どきりと心臓が一跳ねする。艶っぽいその問い掛けに、首を横に振って否定した。
居ないです、絶賛片想い中です。なんて、心の中で呟いてみて。
「好きなやつは?」
「あ、え、……い、います」
「……」
雑炊を掬う手が止まり、若葉さんが顔を上げる。じっと見つめられた視線にたじろぎながら、俯いた。
「普段はなにしてんだ?」
いきなり変わった質問の流れに、ほんの少し頭が冷えた。期待してしまった自分が恥ずかしくて、よそよそしい態度になる。
「な、何もしてません」
「休日も?」
「毎日が、休日というか、何だか今日の若葉さんは、珍しいですね。あんまり、色々なこと聞かないから……」
質問をする若葉さんは私から目を離さないままで、身の置き場がないような気まずいような気持ちになった。
「横から持ってかれるのは流石にな」
「え?」
「なぁ、紫月――」
紡がれる言葉の先に、じわりと頬が紅潮した。
もしかして、もしかすると。若葉さんまさか私のことを……。
「俺と結婚しないか」
ぽかんと開いた口を見て、若葉さんは苦笑いした。
「熱のせい、ですか?」
「いや、頭は正常だ」
ぴたりと若葉さんの額に手を当てた私に、念押しするような言葉が届く。何もかもをすっ飛ばして、若葉さんはいきなり“結婚”と口にした。その真意をはかりかねて、私は視線を宙にさ迷わせる。
「紫月」
「……はい」
「冗談で言ってるんじゃない」
「と、唐突過ぎませんか」
「そうでもしないと時間が取れない」
淡々と言っているように見えて、若葉さんの瞳は大真面目だった。
「ただ、付き合うだけじゃ紫月との時間が多分作れねぇ。恋人の為に休みを許すような奴等じゃないからな」
「それは職場の人が、ですか?」
「ああ」
どんな職場何だろう。考え込んだ私に若葉さんは深く息を吐き出して、最後の一口を口に運んだ。
「……若葉さんの言っている意味は分かりますが、前提が違うような気がします」
「前提?」
「若葉さん、私のこと……」
好きなのかどうかも聞いていない。結婚をすると言うことは、少なからず私を傍に置いても良いと思っていると言うことだ。……多分。なのに、告白も恋人も飛ばして、出てきたのは結婚の話。
「……紫月には、とっくに気付かれてると思ってた。そうか、なにも言って」
「若葉さん!」
くらりと後ろに仰け反って。言葉を途中で途切れさせ、若葉さんは真っ青な顔で床に倒れ込んだ。
――救急車っ!
まさか、連続で二度も呼ぶことになるとは思わなかった。けれど、私の行動は経験した事もあってか意外と素早かったと思う。
**********
――付き添いをしたのは奏太くんだった。本当は私が付き添いたかった、けれど。青い顔をしながらお願いした私に、奏太くんはあっさりと頷き若葉さんの付き添いを了承してくれた。
情けなくて涙が出そうだ。付き添い一つも満足に出来なくて、外が――老年の女性が怖くて。もしも会ってしまったらと思うと、身体が震えて止まらなくなった。青い顔をした若葉さんに寄り添っていたいのに、それが出来そうに無い。救急車が居なくなった後、私は今更ながらに気付かされた。
――無理だ。私が誰かと幸せになるには、このトラウマは大き過ぎる。若葉さんと結婚する、そんな夢はそもそも見てはいけなかった。若葉さんが本気で私にああ言ってくれたとしても、私は頷く訳にはいかない。軋む胸を押さえながら、部屋の鍵をかちゃりと閉めた。
この日を境に私は部屋から出なくなった。若葉さんがドアを叩いても、奏太くんが電話を掛けてきても、タナベさんがメールをくれても、私は一切応じなかった。
誰かと触れ合う事が、あんなにも楽しかったのに。ただ今は、情けない自分を戒めたくて仕方なかった。誰かと歩む将来が見えない。私は一人で居るべきだと、体調の悪い若葉さんを見送った時に痛いほど自覚した。一度だけ、巴さんがドアをノックして声を掛けてくれたけれど……それにも私は応えられなかった。
一日、また一日と、一人きりの時間を過ごし、気が付けば一週間が経っていた。納品が終わっていて本当に良かった。ただ閉じ籠って過ごす日々はとてつもない寂しさと、苦い悲しみに覆われている。
一人はさみしい。……お兄ちゃんの優しい手が、無性に恋しくなった。
若葉さんの体調は、きっと良くなったんだろう。心配で堪らなかったのは若葉さんが訪ねて来るまでの二日だけで、ドアの向こうから「紫月」と呼び掛けられたとき、ホッとして涙が出そうになった。
心配してくれている。それが分かっているのに、私は沈黙を貫く事しか出来ない臆病者だった。がめ煮も作らず、みんなとの接触をひたすら拒んだ一週間。ごみ出しに行かなければならないのに、部屋から出られず結局後回しにしている。
行かなくちゃ、と思うのに。誰かに会って話せば、きっと楽しくなってしまう。もっと話をしたいと欲張りな希望を抱く。もう誰にも、自分の惨めなトラウマを知られたくない。強く思ったその意思が今日も私を部屋に留まらせていた。