唐突な事件
ごみ出しの無い日、または比較的余裕のある時は起床時間も割りと遅い。
目覚めてから一通りの家事を終わらせて、最終チェックに取り掛かる。
来月はもう七月だ。手元に届いてからもし不備を見つけても、送り返せるだけの余裕が出来るように遅くとも二十日には必ず発送していた。届くまで約二日、今日は十七日だからいつもより早く仕上がったと思って良い。
明日の朝必ず来て貰えるよう集荷の依頼を今日済ませて、久し振りに自分の為の物でも作ろうかと思い立つ。
タナベさんにお願いして作って貰ったコサージュは着物にも合うようにと言う私の希望通り、全体的に和テイストだ。
造花と片付けるにしては鮮やかでリアリティに溢れる椿は豪華で、それでいて品を失わない程度の淑やかさを持っている。
コサージュの入れられたケースと紙袋を見る限り、タナベさんは恐らくコサージュ作りを生業にして生計を立てている。
二度遭遇した事があるけれど、タナベさん宛の荷物はどうやら奏太くんの部屋に届けられているらしい。
「タナベさん、印鑑か署名を此方にお願いします」と言った配達員に、奏太くんは手慣れた様子で印鑑を押した。
私とは段違いに引きこもりのレベルが高いタナベさんはきっと“人”自体が嫌いになってしまったのかなと何となく思う。思うだけで、詮索なんてしないけれど。
がめ煮との取引で作って貰っているのは、概ね和服に合うものだ。私が和裁をしている事は、恐らく知らないと思う。
それでもタナベさんなりに考えてくれた“和服に合うコサージュ”はどれも素晴らしくて、見ているだけで時間を忘れる程だった。
少し考えて、作務衣でも作ろうかと思い立つ。季節を考えると甚平も捨てがたい。
どちらにしようか迷った結果、使い勝手の良い甚平を縫う事にした。
洋裁と違い、ミシンを使わない和裁は時間も掛かるけれど、その分仕上がりがやっぱり綺麗だ。
兄が探してくれたモデルの一切載っていない反物だけの切り取られたカタログを開き、色合いや生地を選り好みする。
無難に紺か、冒険して柄物か。選ぶ時間もまた楽しい。カタログは老婆が載っている部分を切り取って、その後に兄が渡してくれていた。こんな所でも迷惑を掛けていると落ち込みそうになる気持ちを押し込め、日頃のお礼に兄の甚平を作ろうと決める。
妹は昨年の浴衣をまた着ると言っていて、着付けだけ今年は頼まれていた。
自分の為に作る筈が、いつの間にか兄の為に作る事になったけれど、気持ちは先ほどよりも浮上する。誰かに作ると言うだけで、胸は温かくなるものだ。
綿麻の生地を選び、色を濃紺にするか黒にするかで悩んでみる。
「うーん……紺かな」
何となく濃紺に決め、注文する為に携帯を出した。
**********
午後からはゆっくりしようと、積み重なっていた本の山から一冊を抜き読書へ勤しむべくソファーに座る。
テーブルには淹れたての珈琲、それを一口飲んで表紙を開いた。
好きな作家の新作――とは言え、一ヶ月も前に出版されたものだけれど、楽しみにしていた分、期待度はとても高い。
いざ読み始めようとした瞬間、
「……えっ?」
階下から響いた鈍い音。
ドシンッと何かが落ちた音に、思わず息を潜めてしまう。
真下はミノリさんの部屋だ。
そこから響いた今まで一度も聞いた事のない落下音に不安が募るのは自然な流れだった。もしもこれが、物が落ちただけと言うなら気にしない。けれども、今の音はまるで人が落ちたような……と考えて、取り合えず携帯を手にして立ち上がる。
「ミノリさんが落ちた?でも、いや、そんな訳……」
だけど、よく分からないまま放置するのはどうなのだろう。
何もないならそれに越した事はないけれど、心配になって来たのか鼓動が少し早くなる。
アドレス帳から奏太くんを呼び出して、躊躇いながらもボタンを押した。
「“やっぱり聞こえました?”」
同じアパートでしかも壁が薄いとなれば、当たり前と言えば当たり前だが、奏太くんにも音が聞こえていたらしい。
「うん、何だか気になって……」
「“ちょっと覗きに行って来るっす。何かあったら後味悪いし”」
「私は行かない方が良いかな?」
「“あー…でも一応ミノリさんも女の人なんで、居てくれた方が助かります。何かあった時の為にも”」
「分かった。今から出るね」
通話を終えて早足に玄関へと向かう。サンダルを履き外に出ると、真下でチャイムの音がした。階段を降りて、ミノリさんの部屋の前に立つ奏太くんに目を向ける。奏太くんは微妙な顔で私を見て、怠そうに再びチャイムを鳴らした。
「出ないっすね」
「大丈夫かな……?」
「いや、微妙だと思いますよ。ミノリさんちょっとヤバいかも」
「ヤバい?」
思いのほか親密な関係なのか、奏太くんは何かを考えるような顔をしつつ、チャイムをもう一度押してドアを叩く。
「紫月さん、ミノリさんに会った事は?」
「何回かだけ」
「ヤバそうだと思いませんでした?」
「え?特に思わなかったけど……」
何が“ヤバい”のか今一理解していない私に、奏太くんはがっくりと項垂れる。中から返答のない状態に痺れを切らしてしまったのか、奏太くんはドアノブに手を掛けて私が何か言うより先にノブを捻った。
ずかずかとミノリさんの部屋に上がり込んで、奏太くんは「うわ、やっぱり」と、声を上げる。
玄関先で奏太くんの行動に呆気に取られている私は、状況を把握する事が出来ずに突っ立ったままだった。
「――紫月さん!救急車呼んで!」
ハッとして我に返り、握ったままの携帯電話を開く。119と番号を押し、全く何も考えないまま私は救急へ連絡をした。
**********
事態を把握したのは、ミノリさんが運ばれてから数十分後。
救急隊員が担架を持って部屋に入るのを茫然と見ていた役立たずの私に、奏太くんは丁寧に教えてくれた。
「まぁ、見ての通りミノリさんぽっちゃりでしょ。ぽっちゃりで済まないビッグなぽっちゃりだから、微妙にヤバそうな気はしてたっていうか……」
奏太くんの言っていた“ヤバい”がそういう意味だったと気付いたのは今頃で、体型を指していたのだと今更ながらに納得した。何がヤバいのか直ぐには分からなかったけれど、確かに細いとは言えない。
奏太くんからしたら太ったミノリさんは“ヤバい”という対象に入るらしく、受け取り方が違うことに愕然としてしまったのも事実だった。
「多分、生活習慣病だと思うんですよね。それか落下してどっかぶつけたとか」
何とも言えない表情をしながらそう言った奏太くんに、私も微妙な顔をしか出来なかった。
「デ……肥満が原因じゃないっすか。それに生活も不規則だし。まぁ、それは俺らもだけど」
「ミノリさん大丈夫かな……」
「どうでしょーね。嫌な予感はしてたんですよ。やたらごみは沢山だし、ひっきりなしにスナック菓子の開ける音はするし」
やれやれ、とでも言いたげに奏太くんは溜め息を吐いて、それでも心配そうな目をしながら壁に背中を預けた。
「ミノリさん見て、太り過ぎだなとか思いませんでした?」
「ふくよかだなーくらいしか……」
「紫月さんって良い人っすね。心があんまり汚れてない感じ」
「そんなこと初めて言われた」
今だかつて言われた事のない誉め言葉に目を見開くも、お世辞だと気付き苦笑いが滲んで来た。
「奏太くんも良い人だと思う。こうやって話してくれるし」
「そりゃ、紫月さん来るまでは引きこもりと多忙な人ばっかでつまんなかったですからねー」
「あー…そっか。若葉さんも巴さんも留守が多いもんね」
引きこもりには触れずに、多忙な二人にスポットを当てる。
「そういやもう三年目っすね」
しみじみとそう口にした奏太くん。覚えていた事にびっくりしたけれど、つい嬉しくなってしまった。
「三年目ですよー。あんまりそんな気がしないけどね」
「話す機会がないとそんなもんっすよ。俺なんかもう七年?意外と長いなぁ」
初耳の情報に聞き入りながら、驚くことにもう七年目だという奏太くんを失礼ながらまじまじと見る。
七年、というにしては見た目が若いような気がした。
「あ、紫月さんにはまだ言ってなかったっけ。俺、中坊んときからここ住んでるんっすよ」
「……そ、そうなんだ」
これはスルーするべき所なのか、それとも何か聞いて欲しいから奏太くんが口にしたのか分からない。
微妙に遅れて応えた私に、奏太くんは薄く笑った。
「出てく様子も無いし、末長く仲良くしましょーって事っす」
どうやら入居三年目にして、漸く奏太くんから認められたらしい。深入りしないようにしていた私が、徐々に深みに嵌まっていくような気がした。
**********
「奏太がそれを紫月に言ったのか?」
ディナーを食べながら、若葉さんは眉を寄せた。
今日のディナーは鮭のムニエル。昨日は肉にしたから今日は魚だ。付け合わせの野菜を食べきって、若葉さんが少し考える。
ミノリさんの弟さんとばったり部屋の前で会ったらしく、急遽入院したと聞いたのだとか。
その話の流れで、入居して三年目になる私の話をしたら、若葉さんは五年目だと教えてくれた。
奏太くんが住んでもう七年になると若葉さんが口にして、私もそれを今日初めて知ったと言った所――若葉さんは急に顔を顰めたのだ。
「え?はい。今日聞きました」
「――まぁ、三年も住んでたら話しても可笑しくねぇけど。他にも色々聞いた?」
「……少し」
奏太くんの父親が有名な芸能人で奏太くんはメディアでは知られていない内緒の息子らしい、とか。
今まで核心に触れるような事は何も話さなかった奏太くんが急に暴露した事情は、私にとって戸惑いをもたらす物だった。テレビを見ない私には、父親がどんな有名人だったとしても全く分からない。しかも、雑誌も読めないせいで、その人が奏太くんに似ているかどうかすら知り得ないのだ。兄に頼めばその人の写真くらいは雑誌を切り取って来てくれるかも知れないが、そこまで兄を煩わせる程に見たいかと言われれば頷けない。
つまるところ、父親の名前を教えて貰っても私にはそれが誰なのか分からないのである。
奏太くんはテレビつけたら多分出てますよー、と教えてくれたが、家にはテレビがない。
「父親の事、聞いたのか?」
「……はい。でも、どうして良いか分からなくて」
「どうして良いか分からない?」
「家にはテレビが無いじゃないですか。でも、どんな人かくらいは見ておいた方が良いのかなって……奏太くんが折角教えてくれたのに見ないままって言うのは悪い気がして」
次にもし会ったとき、奏太くんからどうだった?と聞かれても、今の私には答えられない。
格好良いと思いました等と無難に言って実は地味な名脇役の人だったりした場合、見ていないと即座に分かる。
頼もしそうだと言ってみて、実はへたれキャラを確立した人だったりしても、嘘がすぐにバレてしまう。
結局、本人を見なくては感想すら口に出来ないのだ。
「……ちょっと待った」
「え?」
「そこか?そこに食い付くのか?」
「若葉さん?」
「もっと普通に……こう……奏太の父親が芸能人だって所はどうでも良いのか?」
「いや、だって、本人に会う訳じゃないですし。父親の話ですよ?」
「それは、……まぁ、そうかも知んねぇけど」
若葉さんは微妙な顔をしたけれど、父親が芸能人だからと言って、騒ぎ立てる程に芸能界に憧れを抱いていない。
老婆が完全に駄目になる前はドラマやバラエティーも見ていたけれど、それでも老婆が出る度にチャンネルを変えたりしながら見ていた。
楽しむ為の物が恐怖を与える物に変わって、とんとテレビに執着は無くなったのだ。
芸能人をテレビで見る事が出来ないせいで、全く興味が湧かなくなった。
だけど、それを口にするのは何となく気が引けて話を反らした。
「若葉さんは見たことありますか?」
「ああ。普通に見た。年に一回くらいここに来てるんじゃないか」
「え!去年も来ました?」
「一昨年は来てたな、確か」
「そうなんですか。じゃあ私はタイミングが合わなかったんですね。三回とも見てないです」
「まぁ、コウイチ――タナベも奏太も基本的に部屋の中に居るしな……」
そこに私の名前を入れなかったのは若葉さんなりの気遣いなのか。ちなみにコウイチはタナベさんの名前らしい。
「あと、ミノリはそろそろ出ていくんじゃねぇの。入院だろ?流石に強制送還されるだろうし」
若葉さんがいつになく饒舌に語るのは、もしかして奏太くんが私を認めたからなのかも知れない。普段は住民の話を余りしないのに、今日は何だか知る事が多い気がする。
「紫月が思ってる以上に紫月の話もされてると思うぞ」
私の複雑そうな顔に気付いた若葉さんは、麦茶を飲みながらそう言った。
ディナーを終えて帰った若葉さんとの時間の余韻に浸りつつ、自分の話をされている可能性に今更ながら気が付いた。
私が住民の事を推測混じりに考えているならば、逆に向こうから考えられていても可笑しくない。
その事実に本当今更気付いた自分が妙に可笑しくて、つい苦笑いをしてしまった。
どんな風に話されているんだろう。奏太くんやタナベさん、ミノリさんや巴さん。
もしかしたら私の知らない所で、みんな細やかながら交流をしていたのかも知れない。
何となく疎外感のようなものを感じて、少しだけ寂しくなった。