私と若葉さん
“ディナー”とは。
一日で最も重要な食事のことである。
フランス語だとか、大衆の認識じゃ夕食だとか、そんなことはどうでも良い。
大切な部分は私と若葉さんにとってこの食事が最も重要であると言うことだ。
何の仕事をしているのか分からない若葉さんは、毎日午前二時に帰ってくる。
そして私とご飯を食べて、自分の部屋に帰っていく。
始まりは半年前の水曜日。
依頼された着物の納品がぎりぎりになって、がめ煮を届けるのが遅くなりそうだと火曜日の夜に言った私に、タナベさんは今からでも良いと言ってくれた。がめ煮がちゃんと冷えて味が染み込むのを数時間待ち、それでも仄かにまだ温かいまま水曜日の深夜に届けた。
勿論、タナベさんは文句なんて言わなかった。けれど、持っていく前に味見をした限りだともう少し置いた方が良いような気がしたのだ。渡してすぐに食べるかどうかなんて分からないし、一応タナベさんには作ったばかりだから置いた方が良いと言ったけれど、実際置いたかどうか分からない。奏太くんが言うには、毎週とても楽しみにしてくれているらしい。
その水曜日の深夜に、タナベさんにドア越しに置いた方が良いと話していた所へ若葉さんが帰って来た。
美味そうだ、と呟いた言葉がつい気になって、会話の中で夕食どころか昼から何もを食べていない事を知った。
職業柄、日中はとても忙しく、食事を取るなんて忘れてしまうと若葉さんは苦々しく語り――お節介が芽を出した私はつい聞いてしまったのである。
“今から食事を取られるんですか?”
そして、若葉さんは眉を寄せて。
“買い出しに行くのを忘れた。”
心底残念そうに言った。
若葉さんはがめ煮をじっと見ていて、それが気になった私は家から残り物を持って出てきた。
若葉さんにそれを渡して、その日は事なきを得た。
それから数日が経った時、ふいに気が付いてしまったのだ。アパートの壁は薄い。物音がよく聞こえるのは、どの部屋もきっと共通だ。
巴さんは深夜は仕事で部屋には居ない。だから物音が聞こえないのは当たり前だ。けれど、真下のミノリさんの部屋からは物音が聞こえているのに、若葉さんの部屋からは帰宅後も物音が聞こえない。
――まさか、帰って直ぐに眠ってる?過った思いは中々消えず、数日間は悶々とした。
ストーカーのようだと気付き、一時は考えないようにしたものの……一ヶ月が過ぎた辺りでごみ出しでばったり若葉さんに遭遇し、またしても私は余計な事を口にしてしまったのである。
“ご飯、食べてますか?”
ここの住民にしては珍しく、若葉さんは嫌な素振りも見せずに首を振った。
“朝に飲むタイプのゼリーを食ってる。片手で食えるしな。”
片手で食べられるならおにぎりでも良いじゃないですか…!とつい言いたくなったのを我慢して、その場は結局終わったのだけれど。
お節介だと知りながら、やってしまった食事の配達。
お弁当箱をドアノブに下げ、中に隣人だと言う事と名前を書いたメモを入れた。
このアパートでは全員が全員とも表札は出ていない。だから名前を知ったのは住んでから暫くしてからだった。
奏太くんと知り合って、ようやく住民を多少知ったくらいである。
若葉さんが私の名前を知らない可能性はあったし、気持ち悪がられる可能性だって充分にあった。
それでも、若葉さんは。その日の深夜二時を三十分程度過ぎてから、控え目に私の部屋のドアをノックした。
「電気がついてたから、まだ起きてるかと思って」と律儀に洗った弁当箱を返しに来てくれたのだ。
余計な事をしたと反省して縮こまっていた私は言い訳をするみたいに「食事の時間が不規則でこれくらいの時間なんです!」と主張して、若葉さんを笑わせた。
それから若葉さんが告げた言葉に、私は同調して頷く。
“一人だと何か味気ないよな”
“そうですよね”
“もし時間が合ったら、今度は一緒に食べないか?”
「胸がときめく」と言うのは、こんな感じなんだと思った。
お節介を焼いてしまったのは、つまるところ若葉さんが好きだったからだ。
深夜に少しだけ響く、帰って来てエンジンを切るまでのとても短いバイクの音。
朝、眠たそうに欠伸をして、それでも毎日時間きっかりに出掛けていくその姿。
何となく目で追う程度だったものが、日に日に楽しみになっていった。
だけど、発展したいとかこれが恋だとかハッキリ思っていた訳じゃない。
本当に何となくだったものが、若葉さんのあの台詞で明確になってしまっただけだ。
部屋に入れたくなかったのは、和服のポスターが沢山壁に貼ってあるからだ。全部私が気に入ったもので、縫った物の写真も大きなコクルボードに貼ってある。だけど、私は和裁士じゃない。他にも色々と触れられるのが怖かった。だけど、ここの人達はもしかしたら触れないんじゃないかって思ったから、巴さんを部屋に入れるのも私は平気だと思った。だから、若葉さんを入れたとしてもきっと大丈夫な気がしていて。
男女だからと言う理屈は、頑なに一線を引くここの人には当てはまりそうになかったのだ。
若葉さんを自宅に誘い食事をするようになったのは、私がそれを主張したから。
若葉さんは特に何も言わず、ただ「分かった」と返事をした。
毎日一緒に食べるようになったのも、私がついた嘘からで。
午前二時の食事は私がその時間に食べるからと言ったことで、その日から毎日行われるようになった。
深夜だからとチャイムを鳴らさず、控え目にノックした若葉さん。そんな気遣いも温かい。
一歩間違えれば、不審者にもなってしまいそうなお節介な私に若葉さんはきちんとした態度で応えてくれた。
余り話した事がない、ただの隣人に過ぎないのに。
ありがとうと、わざわざ手渡して返してくれた弁当箱は今も食器棚の中のある。
こうして始まったちょっと不思議な夜更けのディナーは、私にとっても若葉さんにとっても大切な――若葉さんは単純に栄養を取る為に大切な食事と言う意味合いだが、それでもお互いにとって大切なものになっている。
頂きますの挨拶のあと、若葉さんは私が見えなくなる。箸とお茶碗を持って、噛み締めるように目を細め「美味い」決して私に向かってではなく、料理達を誉めるように、ぽつりと小さく呟くのだ。
はにかんだ表情で、美味しいと心から言ってくれる。
その呟きと、はにかんだ可愛い顔が見たくて、今日も私は待っている。
午前二時のディナーの時間、遅すぎる“大事な食事”の時間を。
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思い出したように若葉さんはポケットを探る。
ライダースジャケットの右ポケットから小さなハーモニカを取り出して、かつんと音を立てながら私の方にそれを置いた。
「人に土産で貰ったから。俺はそういうのすぐ失くすタイプだし、紫月にやるよ」
「ありがとうございます。……でも、なんでハーモニカ?」
「……さぁな。暇になった時にでも吹いたらいい」
「どう見てもこれストラップですよね。すっごくミニのハーモニカ。」
「気に入らなかったか?」
「嬉しいです。明日にでも吹きます」
即答した私に若葉さんはふっと噴き出して笑った。
「明日にでも吹くって…まぁ、夜に吹くのは気が引けるだろうけどな」
わざわざ吹く予定を立てた私へ若葉さんは可笑しそうに口元を緩めてそう言う。
そんな小さなやり取りが、とても楽しくて堪らない。
若葉さんがくれるものは、大抵誰かから貰ったと言うものだ。けれど、一緒にご飯を食べるようになってから幾度となく贈られる物に流石の私も気が付いた。これはきっと、若葉さんが私に買ってくれたものなんだと。
間隔を開けて、それでも割りと頻発に贈られるプレゼントは毎回違うものだった。お皿であったり、アクセサリーであったり、縫いぐるみなんかも貰った事がある。私にそれを渡したとき、若葉さんはちらりと私の反応を窺う。
そんな事が続いたら、やっぱり気が付いてしまうのだ。
もしかしたら、本当に誰かから貰ってるのかも知れないけれど、全体的にプレゼントを見ると私が会話の中で話した好みに合わせられているように思えた。都合の良い解釈だと自分でも思う。だけど、若葉さんが私に何かをくれると言う事だけで、無性に嬉しくなってしまう。
じたばたとベッドの上で、幸せを噛み締めて浸りたい。
そんな衝動を誤魔化しながら、食事をする若葉さんをそっと見つめる。
「――大変なんじゃないのか?」
「え?」
「糸が髪についてる」
骨張った男性らしい指が、ふいに私の髪を指差した。
「えっ?どこですか?前髪?」
糸屑をつけていた間抜けな自分に恥ずかしくなり、わしゃわしゃと前髪を探る。日中ずっと作業に没頭していたとは言え、若葉さんが来る前に鏡を見るくらいすれば良かった。
「ここ。ほら、取れた」
親指と人指し指の間に挟まれた黒い糸を、私は手のひらを出して若葉さんに落として貰う。身嗜みを整えていない女だと思われたかも知れない…と顔を上げると、特に何も思って無さそうな、むしろ少し笑みを滲ませた若葉さんの表情が視界に入った。
「ありがとうございます……」
「今が大変な時期なら無理するなよ」
「大丈夫です!もう終わりそうなので。若葉さんの方はどうですか?」
「まぁ、それなりなんじゃないか。忙しさは変わらない」
私の方は部屋に和服の写真があるから、簡単に想像もつくだろう。けれど、私も若葉さんも何の仕事をしているか、明確に口にしない。
若葉さんはとにかく多忙な人で、本当に毎日疲れた顔をして帰ってくる。
「……そうだ。この部屋、テレビが置いてねぇんだ。何か違和感があると思った」
「えっ、今更ですか」
「あー……分かってスッキリした」
そういえば、若葉さんは部屋の中を見渡すような事は一度もしなかった。
これはもしかすると、興味を持って貰えたと言うことかも知れない。
料理だけでなく、部屋に興味が移り、あわよくば私自身も少し位は見て欲しいなんて思ってみたり。恋する女は思考回路が厚かましくて仕方ない。
「電波の雰囲気って何となく感じるだろ?……って、分かりにくいか」
「あ、いえ、分かります。こう……ああ、テレビついてるなって感覚ですよね?」
「それ。テレビがないからか。妙に飯が美味く感じる。腕が良いってのもあるんだろうけどな」
確かに、食事をする時にテレビがついていたらそっちに意識が取られたりする。妹なんかは食事をしながらテレビを見る癖がついていて、余り料理の感想を言った事は無かったような。意識が完全にテレビに向いていると、どうしても食事はおざなりになる。
若葉さんとの食事は短い時で三十分弱、長い時で一時間。食事を終えて手を合わせ「ご馳走さま」と言ってから、若葉さんは席を立つ。
いつものように、私を見て
「美味かった。ありがとう。じゃあ、また明日な」
少しだけ申し訳なさそうに、だけど笑みを滲ませて、そう言って帰っていく。
後片付けをすると言った若葉さんに遠慮したのは、ある意味当然の事だった。
遅くに帰って来て、朝は早く出る。
そんな若葉さんへ、後片付けをさせるなんて事は出来ない。
元より、私のただのお節介で始まったディナーだ。若葉さんには少しでも長く睡眠を取って欲しかった。
ちゃんとした年齢を直接聞いた事はないけれど、恐らく二十代だと思う。二十代前半から半ば。それくらいの若い顔立ちに、シンプルで然り気無くセンスの良い服装。
雰囲気だけならもっと上のような気もするけれど、私が年下と言うことは恐らく間違いない筈だ。
小さいハーモニカのキーホルダーを手に取って、別段突飛な所はないのにまじまじと見つめてしまう。
好きな人から貰ったものは、何でも愛しく感じるのである。
ミニハーモニカは部屋の鍵に付ける事にしよう。
――家から出るなんてイベントは悲しい事に滅多にないけれど。