私のお仕事
ブランケットを手に部屋へ戻り、ぴかぴかとランプの光る携帯を見る。
着信ではなくメールが一件。
“起きてる?”
それだけの短いメールに笑みを洩らしながら返事を打つ。
“はい。今からいきますね。”
“うん”
そんなやり取りを終えて、冷蔵庫から煮物のタッパーを取り出した。タッパーを小さめの紙袋に入れて、再び玄関のドアを開ける。
階段を下り、一階の一番左の部屋へ向かって、その部屋のドアノブに掛けてある紙袋を受取り持っていた煮物の紙袋を掛けた。
「入れ物は明後日取りに来ますねー」
いつもならば翌日だけれど、明日はちょっと忙しい。大詰めになりそうな予感がするので、回収はその翌日にする予定だ。
「……分かった」
ドアの向こうから、くぐもった声が聞こえる。理由を聞かない所がやっぱりここの住民らしくて笑みが滲んだ。
一階の一番左、そこに住むのは本物の引きこもりさんだ。家から出る事はなく、姿を見たことがあるのは奏太くんだけ。何でも、奏太くんはこの部屋に住むタナベさんと歳が近い友人らしい。
このアパートで一番の古株は実は奏太くんだったりする。
次にタナベさん、そして若葉さん、それからもう一人の女性であるミノリさんと巴さん。
三年目でも、私はまだまだ新入りだ。
タナベさんと縁が出来たのは本当にたまたまで、知り合う切っ掛けになったのはさっき置いてきた煮物だった。
九州地方では煮物はがめ煮と呼ばれていて、別名では筑前煮。蓮根や牛蒡など、根菜がたっぷりと入っているがめ煮の話をごみ出しの帰りに奏太さんとしていた時、タナベさんはその会話を偶然にも聞いていた。
タナベさんは九州出身で、私の祖父も九州出身。婿養子に入った祖父のリクエストで祖母が作るようになり、祖母から私に引き継がれた。
今は亡き祖父母との大事な思い出の味だからか、煮物を作るときはやっぱり蓮根や牛蒡、里芋に筍なんかがたっぷり入ったがめ煮に仕上がる。
一年前、作り過ぎて奏太くんにいらないかとごみ出し帰りに聞いたのを、しっかりばっちり聞いたタナベさんは私が煮物を“がめ煮”と呼んだ事に食い付いて来た。と言っても、勿論直接私にではなく奏太くんに電話で凄く食い付いたらしい。
「がめ煮ってあのがめ煮か」と聞いたタナベさんに奏太くんは私からお裾分けされた現物を持って行き、そこからタナベさんは私にがめ煮を作って欲しいと奏太くん経由で言ってきた。
その代わりと言っては何だけれど、タナベさん作のコサージュを頂ける事になっている。
取引に出来る物が自作のコサージュしかない事から事情を教えて貰えたけれど、タナベさんの引きこもりは、男性がコサージュを作っていると言うことが一種の原因となっているらしい。奏太くんはとても言い難そうに説明してくれたけれど、男性がコサージュを作る事に抵抗はない。タナベさんの作るコサージュはお店で売られている物と比べても見劣りせず、がめ煮では取引にならないんじゃないかと思うくらい素敵だった。
本当はわざわざ取引にしなくても良いのだけれど、私の事情もありコサージュは一定の期間で作って貰う事になった。がめ煮は毎週水曜日に作り、コサージュは三ヶ月に一度、一つ貰う。それがタナベさんと直接メールのやり取りをして決めた取引だった。
コサージュは良いもので一万円以上は優に超える。その値段から考えるに毎週一度の煮物なんて安いものだ。しかも一万円以上は確実にするだろうという手の込んだコサージュなら尚更だった。タナベさんとのお付き合いは煮物とコサージュくらいしか無いけれど、それでも充分過ぎるくらいに交流があると言える。
ちなみに、奏太くんは一番右の部屋に住んでいる。
私の真下、つまり一階の真ん中はミノリさんの部屋だ。
彼女は引っ越しの挨拶の時と偶然二回だけ会ったきりで、三年が過ぎた今でも大した交流は持てていない。ミノリさんの弟さんとはごみ出しの時に会うけれど、一緒に住んではいないらしい。一週間に一度だけ、様子を見に来ると言っていた。
部屋に帰って朝食を取り、片付けが終わったなら一度大きく背伸びをして気合いを入れる。
それから身の回りを小綺麗にし、作業をする為の部屋に籠った。
今から、仕事の大詰めだ。九割方仕上がったそれを畳紙と呼ばれる和紙越しに見つめ、息を吐く。
片面染めの正絹生地、黒地に桜模様が散らされた手触りの良い反物を取り出し、丁寧にテーブルに置く。
四段になっている木箱を開けて、ずらりと並んだ裁縫道具の数々を見つめ必要なものだけ取り出した。
部屋の中で、人と関わらず、それでも自分が入り込めるもの。
選択肢はほぼ無かった。
それでもその中から選んだのは、惹かれて止まない和裁だった。
「納品は明後日、明日までには仕上げて見直しもしなきゃなぁ」
やってみると、肩は凝るし指は疲れるしで案外楽しいものじゃない。けれども遣り甲斐と達成感は群を抜いて素晴らしいと私は思う。
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和裁技能士になろうと思ったのは、高校二年の時だった。
三年生の卒業式に来ていた保護者の中でも一際目立っていた和服の女性。凛とした立ち姿、しっとりとその場の空気を静かに見せる着物の魅力に取り付かれて、その一ヶ月後に和裁技能士を目指したいと思い立った。
専門学校に行くにしては決める時期が遅くなり、卒業まで教師から諦めるように度々説得されていた。それでも首を縦に振らず、頑なに和裁士を目指し続けた。
狙っていたのは受験資格が一部だけ免除される場所での検定資格。
そこに目を付け、死に物狂いで調べ漁った。
そうして目指した和裁技能士――結局、なれなかったのである。
専門学校では悔しくも、三年しか経験が出来なかった。
一人前になるには技能検定二級を取ることが必須となり、受験資格である実務経験を余り積めなかった私は残念ながらプロとして認めて貰える技能検定二級を持っていない。
だから、和裁技能士として公に名乗る事が出来ないのだ。
そんな私に救いの手を伸ばしてくれたのが、現在の兄の彼女だ。企業相手ではなく知り合いの中でならば、正式な和裁士でなくとも大丈夫だと仲介を請け負ってくれた。大した腕前も無い癖にお金は貰えないと言い張って、最初は無償で縫わせて貰っていたものの、二年が過ぎる頃には来年もまたお願いしたいと言われ、有り難くもあちらの申し出で有償になる事が決定した。
毎年夏に着る浴衣を三着。三着とも子供用で、毎年直接採寸をしなくても大丈夫なようにと数字にして採寸結果を送ってくれる。
雰囲気を掴む為にと一番新しい写真もだ。女の子が二人に男の子が一人。
双子の女の子は去年は朝顔の柄が入った生地を色違いで二つ買った。男の子の方はシンプルに和柄で、なるべく突飛にならないものに。
写真はいつも仏頂面で、クールな印象を受けたからだ。反対に双子の女の子二人は明るそうな感じだった。
基本的には電話口で、その子達のお母さん――兄の彼女の友人と打ち合わせを行う。
このお母さん、お姑さんが大層浴衣を褒めて下さったとかで一昨年から私に仕立てを頼んでくれる。お姑さんはやたらとオーダーメイドが好きらしい。それに加えて、そのお母さんが和裁士につてがあると言う事を凄く自慢気に周りに話すのだとか。
和裁士の資格を持っていないとは流石に言えないが、顔を合わせない事が幸いして私のことを老年の和裁士という事にしていると笑いながらお母さんは言っていた。
携帯電話でしかやり取りをしないから、お姑さんが電話に出るような失敗もなく。
時折、お姑さんからの依頼で襦袢――着物の下に着る肌着なんかも縫ったりする事があった。その襦袢にも満足して貰えていて、嫁姑関係も上手く言っていると陽気に話してくれる。こんな小娘が縫ったと聞いたら、怒る事は必至だろう。
そんな繋がりや他にも小さな繋がりがあって、こまごまと稼ぐ事が出来ている。
そして、申し訳なくて仕方がないけれど、兄からの仕送りもあって生きて行ける。
このまま行けば今年から、仕送りがなくても大丈夫になりそうだった。幸運な事に新しく、お客さんが数人出来つつある。
決して順調とは言えないけれど、巾着や襦袢なんかの小さな依頼もあるからか、全体的な収入は増えている。
もし、出来ることなら、今の彼女とそろそろ結婚して欲しい。兄は恐らく私に申し訳ないと思っているのだ。長いこと嫌がらせに堪えていたと気付かなかったことに、罪悪感を抱いている。有事の時には何かお願いするかもしれないが、老婆さえ現れなければ私は結構大丈夫だ。結婚を引き延ばしているのは、きっと私が原因だった。
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縫う事に集中し過ぎて、時計を見た時には既に夕方を迎えていた。
トイレも最後に行った時から六時間も行っていない。昼はすっかり食べそびれ、空腹の虫が小さく鳴った。たとう紙で着物を包み、身体をほぐしながらキッチンへ向かう。
仕上げは軽食を食べてからにしようと、首を回して冷蔵庫を開けた。
中身を見て数秒考え、メニューと言うには簡単過ぎるものを思い付く。
手を洗って棚の上から一枚の袋――便利な保存パックを抜き取った。
豚肉を保存パックに入れて、みりんと料理酒、それから僅かな砂糖と醤油を加える。野菜室からしょうがを取り出し、小刻みに回しつつしょうがをおろす。それも加え、後は袋を揉むだけだ。お手軽なしょうが焼きを先に仕込んで冷蔵庫へ入れる。
これは“ディナー”の為のもの。私の軽食はまた別にある。
手軽に食べられるハムとレタスだけのサンドイッチを作る為に、サンドイッチ用のパンを取り出す。マヨネーズにほんの少しのマスタード。レタス千切り冷水にさらしている間にマヨネーズとマスタードを塗って行く。それが終わったらやかんでお湯を沸かし、市販の卵スープの素を味噌汁茶碗にポンッと入れた。
中央のくぼみに沸いたお湯を入れ、フリーズドライの素がふやけている最中にレタスの水を切りパンに挟む。ハムもそのまま乗せて薄いサンドイッチ用のパンをもう一枚乗っけたら、包丁で切ってお皿に盛るだけ。スープをかき回して馴染ませたら、夕方にしては軽過ぎるご飯の出来上がりだ。
テレビのない我が家で一人のご飯は少し寂しい。それでも、急にテレビに老婆が出る恐怖を感じなくていいのは幸せだった。
サンドイッチを食べながら、ディナーのメニューを考える。メインはしょうが焼きにして、付け合わせは何にしよう。自分の事はおざなりでもこれだけはしっかり考える。サンドイッチが無くなる頃には付け合わせも思い付いていて、お米を研いでタイマーをセットしたらさっきの続きにすぐ戻った。
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午後が終わる少し前に、リビングに出てきて少し落ち着く。がめ煮のタッパーは明後日取りに行くとタナベさんに言ったけれど、この調子なら焦らなくても明日にはきっかり終わりそうだ。
男の子用と女の子用、最後に仕立てる事になった双子ちゃんのもう一人の女の子用の着物は、順調に仕上げに入っている。
帯や襦袢は去年のものを使うと言っていたから、生地もそれに合うように選んだ。購入前に写真をメールで送ると依頼主のお母さんからは絶賛されていた可愛い生地。本人達も気に入っていると言って貰えて嬉しかった。
ぼんやり思い出した後は、ディナーの為にキッチンに立つ。
あと少し、もう少し。はやる気持ちを落ち着けた。
そして、聞こえる。
ヴォン、と低いエンジン音。それに顔をがばりと上げる。
「――しまった」
やばい。時間を確認するのを忘れていた。リビングに飾れた時計を見ると、午前二時を指していた。
慌てて冷水にさらした千切りキャベツをざるに移し、フライパンに火を付ける。
冷蔵庫から取り出したしょうが焼きの保存パックを開けて、中火で温もったフライパンに乗せ一枚一枚伸ばして行く。少しだけ火を弱め、食器棚からお皿を取り出す。バタバタと動き回りながら準備をしていたら、コン、と控え目なノックの音が聞こえた。
緩む頬を何とか戻し、焼けたしょうが焼きをキャベツを盛ったお皿に乗せる。料理を並べたリビングの食卓にメインのしょうが焼きを最後に置いて、足早に玄関へ向かう。
既に相手は分かっているが、一応念の為に覗き穴を見て――ドアノブをがちゃりと捻った。
「おかえりなさい、若葉さん」
「――ただいま、紫月」
ヘルメットを抱えたままの、若葉さん。ぺしゃんこになった茶色の髪をくしゃりと乱しながら私の言葉に返事を返す。
――待ってました、若葉さん。
直接言えないその台詞は、今日も今日とて胸に秘めたまま。