そして
じわり、と握り込んだ手のひらに滲んだ汗が気持ち悪い。
気楽な格好で、と若葉さんのご両親が言ってくれたおかげで、タクシーを使わずに若葉さんのバイクで行く事が出来るようになった。
予定していたワンピースをやめて、胸元のカシュクールが可愛らしいチュニックとデニムを合わせる事にした。チュニックは紺色と黒のボーダー柄、デニムはブーツカット。まるで勇気を貰うみたいにして、タナベさん作のコサージュを鞄に飾った。小さな花が束になって作られたそれは派手な色合いではなく、控え目な形と色をしている。
若葉さんはざっと見て「紫月らしい」と誉めているのか微妙なコメントをくれたけれど、目立って可笑しくはないようで一安心だ。
若葉さんの格好は、改めてじっくり見ると所々に遊び心のようなものがある。黒いジャケットの内側にはポケットがやたら沢山ついていたり、ワークブーツの紐は型通りに通されておらず、ほんの少しアンバランス。だけど、甘めの茶色の紐の色と無骨な黒のワークブーツの組み合わせは、然り気無く視線を奪いセンスが良いと思わせられる。突飛な発想や派手な鮮麗さのないナチュラルなお洒落が、やっぱりとも言うべきか若葉さんらしいと思う。
と、なると。
“紫月らしい”と言った若葉さんと同じ事を私は思っている訳だ。
それに気付いてつい笑ってしまったのは、部屋を出てからバイクに乗るまで。
ヘルメットは若葉さんが自分の部屋から持って来たグレー。フルフェイスのヘルメットを買う前に使っていた物らしい。ズシンとくる重さを頭に装着して、後ろに乗ってから到着まで――私は一度ですら目蓋を上げられはしなかった。
そして、到着したビルの前。
前に進めなくなって俯いた私に、若葉さんはふっと笑った。
「時間は気にしなくて良い。紫月が決心するまでどれだけでも俺は待つ。それに、無理そうなら帰っても良いしな」
そう言って貰えた事は本当に有難い。気を抜いたら若葉さんの申し出に、思わず頷いてしまいそうだった。
バイクから降りて、ヘルメットを脱いで、ビルの前まで歩く数歩。それだけでも心臓がドクドクと嫌な音を立てる。
耳に入る雑音や誰かと誰かの話し声、顔を上げられない自分。全てが鮮明に刻まれて、情けなさと恐怖の真ん中で立ち竦む自分が歯痒い。
顔を、上げろ。
自分で自分に命令して、上げようとはしているのに。強張った身体は金縛りにあったみたいに硬直してしまっている。
「……紫月」
心配そうな声色で若葉さんが私に呼び掛ける。私の視界を遮るようにして、道路側に立ってくれている事も気が付いていた。人の通りがある方向に立って遮断してくれている。
色々な考えが、頭の中を過っていた。
――帰っても良いって若葉さんは言った。
――ここまで来てまた逃げるの。
――約束も守らない女だと思われる。
――今すぐ帰りたい。怖い。
――逃げ出して、閉じ籠って、一生そのまま変わらないつもり?
奏太くんにも松江先生にも助けて貰った。若葉さんや若葉さんのご両親にも、沢山の迷惑を掛けた。また、私は我が儘を言って誰かに迷惑を掛けるのか――
そうやって考える度に、自分がどれだけ迷惑な存在か改めて思い知らされて来た。
「紫月」
柔らかく、名前を呼ぶ。その大事な人さえ見れなくて。
「紫月は悪くない。――何も、悪くねぇんだよ」
悔しげな若葉さんの言葉に弾かれたように顔が上がる。
「紫月のせいじゃない。こうなったのは、こうしたのは紫月じゃなくて他の人間だ」
見つめた若葉さんの顔が、私以上に辛そうで。気が付いたらその頬に指先を伸ばしていた。
「俺が紫月の傍にいる。紫月が逃げたくなったら俺が連れ出す」
一人じゃないと教えてくれる。叱らないで見守ってくれる人がいる。そんな人が傍にいるのに、何を怖がる必要があるんだろう。
伸ばした指に若葉さんの手が触れた。手のひらで私の手を包んで、温かい眼差しを向ける。
「……好きだ」
切なく揺れた若葉さんの瞳に、私の泣き出しそうな顔が写っていた。
「わたしも、好き」
泣くより先にやらなくちゃいけない事があるでしょう。会わなくちゃならない人がすぐそこに居るでしょう?
叱咤する自分と叱咤された自分の間で、私は静かに息を吐く。
「大丈夫。ちゃんと出来る。若葉さんが、いてくれるから」
ビルの一階、エレベーターのある場所へ。一歩ずつ足を踏み出して、確かな足取りでエレベーター前まで辿り着く。
若葉さんは矢印が上を向いたボタンを押して、私の手を強く握った。
痛くはない。きっと加減をしてくれているんだろう。手の感触が直に伝わっているだけで、本当に心強い。
降りてきたエレベーターが低く唸ってから開く。ぱっと顔を上げた先に――その人は立っていた。




