ステップ
頼り方に正解があるなら、私はその方法を知りたい。松江先生を見送ってまずは奏太くんにお礼のメールを送信した。奏太くんは、気にしていない旨とまたチャットに顔を出してと顔文字つきで返事をくれた。
椅子に座って、足を上げる。ダイニングチェアで体操座りをしながら、携帯を開いたままテーブルに置いた。若葉さんになんて言えば良いんだろう。一人でどうにかするつもりだったけれど、松江先生は誰かを頼る事も大切だと言っていた。若葉さんは嫌な顔をしないだろうか。――きっと、しない。そう思っていても、すぐには行動に移せない。
「でも、若葉さんが居てくれたら、大丈夫な気がする……」
家から閉め出した癖に、やっぱり頼っても良いですかなんて虫が良すぎる。
「怒らないかな……怒らないよね。優しいもんね、若葉さん」
じめじめと膝を抱えて悩む私は情けない。アドレス帳は若葉さんを開いているのに、指が躊躇う。電話しようか、どうしようか。でも来るって言ってたしな……。押す、押さないの問答をしていたら、コンコンッとドアが叩かれた。
その拍子に押したボタンは、上手いこと機能して通話画面に移行する。
「――あああああっ!」
発信しているその画面と、叩かれたドアの両方に気を取られてあたふたする。
「えっ、いやっ、どっ……どっちをっ」
どちらを優先するべきか。焦った頭は何故か携帯電話を選び、耳に当てた。
「もしも」
「“紫月?”」
「すみません!すみません……!違うんです、間違えて」
「“間違い?”」
「いや、間違いというか、間違いじゃないんですけど!」
「“とりあえず、開けてくんねぇかな”」
ぴたり、と停止して。バタバタ足音を立てながら、玄関へと走っていく。来たのは若葉さん、電話したのも若葉さん。訳の分からない状態で焦り、慌てたままドアを開けた。
「ただいま、紫月」
「あっ、お帰りなさい、若葉さん」
自然と、出てきた。するりと口から出てきた言葉。まるでそれが当たり前のように染み付いていたその言葉。
「――お帰りなさい、若葉さん」
「ああ」
「待って、ました。ずっと、今まで帰ってくるのを」
口走った台詞に、若葉さんが少しだけ考える素振りをした。それで気が付く。また私は意味の分からないことを口にしたと。
「あ……違っ、あの、ずっとって言うのはえっと」
「いつも待ってくれてたんだな」
「あの、」
「俺が帰って来るの、ずっと待っててくれた」
意味が、通じる。以前の話をここで急に持ち出しても、若葉さんは聞き返さずにいつのことか探してくれた。二日前、閉め出したのは私なのに、待ってたと言うのは可笑しい。だけど若葉さんはいつのことか、聞く前に探してくれる。
「ありがとう。俺も帰るのがいつもすげぇ楽しみだった」
「若葉、さん」
「紫月が迎えてくれるから、飯作ってくれるから。どれだけ仕事がキツくても、頑張ろうって気になった」
「私、若葉さんに」
言わなくちゃいけないことがある。
玄関を潜って中に入った若葉さんは、そのまま私に腕を伸ばす。
「紫月が好きでしょうがねぇんだ」
抱き締めて、告白をした。毎日すると言った若葉さんから離れてしまった私に、怒りも呆れもせずに変わらない態度のまま。
「一人で頑張らなくて良い。俺が紫月を支えたいんだ。我が儘だって思うだろ?」
「……思わない、思わない、よ」
「じゃあ許してくれ。紫月にもっと頼られたいんだ」
欲しい言葉をくれる人。いつだって私の心へ真っ直ぐに、温かく降ってくる。
「頼っても、良いのかな。若葉さんに頼っても、良い……?」
「良いに決まってる」
その笑顔が私の背中を押してくれる。方向を教えてくれる。一緒に歩んでくれるから。
「会いたいの。若葉さんの家族の人達に、若葉さんを育ててくれたご両親に」
前を向け。顔を上げろ。怖がっているだけじゃ何も変わらない。だから、進め。自分が一人だと思うな。叱咤して立ち上がるまでに、随分と時間が掛かったけれど――覚悟はちゃんと決まったから。会いに行きたいと思う。若葉さんのお母さんにも。
知らないことが沢山ある。知りたいことが沢山ある。自分の話をしたくなかった。だから人にも聞かなかった。
「教えて欲しい、紫月のこと」
若葉さんが聞いたから、私も聞く勇気が湧いた。
「……私も、知りたい。若葉さんのことたくさん」
だけどまずは、二人で。
「昨日の夜に食材は買ってきた。持ってくる」
「ありがとう、ございます」
ディナーを食べて、落ち着こう。
「鍵、閉めるなよ」
「はい、もう閉めません……」
恥ずかしくなって申し訳なさが募って、苦笑いになるけれど。
「――いや、紫月に何か理由があるなら閉めても良いんだけどな。でも今は、もっと紫月と話したいから閉めて欲しくねぇなって思ってる」
うっすら笑みを滲ませながら、若葉さんは玄関を後にした。直球で、曇りのない、若葉さんの言葉の全てがダイレクトに私に届く。
「……すき」
たった二文字のその気持ちは、溢れるばかりでなかなか収まらなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
若葉さんが持って来てくれた袋には、沢山の食材が入っていた。お好み焼きの残りのキャベツを千切りにして冷水にさらす。ついでに大場も刻んでおいて、混ぜてドレッシングを掛けるつもりだ。子鍋でお湯を沸騰させて続けざまに切ったサイコロ状のじゃがいもを一旦水にさらして入れる。小さく切ったせいで、煮崩れの確率は上がれど時間は短縮出来る筈だ。弱めの中火にして様子を見ながら鶏むね肉の下拵え。綺麗にしたむね肉の筋を切って、厚みのある場所に切れ込みを入れる。塩と胡椒、粗びき胡椒で鶏むね肉に下味をつけたら小麦粉を振り掛けて満遍なく広げていく。本当はローズマリーが欲しいけれど、今回は無しにするしか無い。あっさりした味付けではなく照り焼きにしようと決めた。下拵えが終わったら、申し訳程度の付け合わせを準備する。冷凍枝豆を取り出して、保冷パックに必要な分だけ入れた。ざるに保冷パックを置いて流水で回答する。ふと、視線を感じて振り返れば若葉さんと目が合った。
「み、」
「み?」
「見ないで……」
「見せて欲しい。紫月が動いてる所」
「なんか、やだ」
「やだって言うな。見たいんだよ」
気にしたら負け。そう言い聞かせて、キッチンに向き直る。フライパンを温めて、鶏むね肉を中火で焼き始めた。皮を下にして丁寧に。フライパンに蓋をしたらお皿を準備して、箸を並べて――とやっていると、途中で弱火に変えたじゃがいもが良い具合に柔らかくなる。竹串を刺して固さを確認してから
流水にさらしていた保冷パックを移動させてざるに子鍋を傾けた。ほっくほくのじゃがいもの湯気が、換気扇に吸い込まれていく。枝豆は少し中がまだ冷凍されたままで、仕方なしに後回し。茹で立てのじゃがいもをボールに移してざっくり潰す。マヨネーズに塩胡椒、味をつけてお皿の端に盛ったらブラックペッパーを飾り程度にてっぺんに振り掛ける。じゃがいもを上げるのに使ったざるをささっと洗ってから、氷入りの水にさらしたキャベツをざるへ流し込んだ。盛り付ける時に大葉を適当に混ぜ込んで、なるべく見映えが良くなるように右から見たり左から見たり。フライパンの蓋を開けて、鶏むね肉に竹串を刺す。中から白い肉汁が溢れて焼き加減を教えてくれた。もう少し、あと少し。フライ返しで皮の方がパリッとなったのを確認してひっくり返す。それが終わったら冷蔵庫を開けてドレッシングを取り出した。そう言えば、若葉さんは私に尋ねたことがない。疑問に思って振り返り、若葉さんへ声を掛ける。
「若葉さん、ドレッシングっていつも丁度良いんで……良いの?」
「ああ」
「本当に?足りないとか、多いとか」
「丁度良い。紫月の加減が好きだな。薄くもなく、濃くもなく」
「そうなんだ……」
「食事の相性も良いって事なんじゃねぇかな」
成る程、成る程。そうだったんだ。浮上した気分は自然と笑みに変わり、さっきよりも浮かれた気持ちで料理と向き合う。プレートにはサラダと粗めのマッシュポテト。スープを作ろうかどうかしようか、迷った挙げ句にお世話になるのは〇〇園のお吸い物。洗った子鍋でお湯を沸かしながら、照り焼きのタレを作る。醤油、みりん、料理酒に砂糖と生姜を混ぜ合わせて、竹串を鶏に刺してもう一度具合を確認。今度は透明の肉汁が溢れ、タイミングの良さに小さくガッツポーズをした。
「……あ」
今日は一人じゃ無かったのだと、握った拳を見て思い出す。恐る恐る振り返れば、楽し気に肩を震わせる若葉さんが視界に入った。
「分かりやすい。すげぇ紫月は分かりやすい」
「若葉さん!」
「褒めてんだ。可愛いって」
飛び抜けて整った顔じゃない。だけど、私にとっては誰よりも格好良く見えるその顔でさらりと褒める若葉さん。
ふつふつと沸き上がる嬉しさのような恥ずかしさのような感情を、ぐっと堪えて背中を向ける。タレをフライパンに入れて絡ませるように傾けた。
沸いたお湯をお吸い物の素を入れた汁椀に注ぎ、少し待ってからタレが煮詰まり始めたのを見てフライパンの火を消した。汁椀をかき混ぜて、一先ずダイニングテーブルに運ぶ。
椅子から立ち上がった若葉さんは、私を素通りして食器棚の開きを開けた。取り出したのは二膳のお箸、私のものと若葉さんに私がいつも出しているもの。ついでとばかりにグラスも二つダイニングテーブルにことりと置き、それから冷蔵庫に向かう。
「若葉さん?」
「……悪ぃ。癖になってた」
「癖?」
「紫月の傍でずっと飯食ってたから。勝手に使ってごめんな」
「ううん。謝らなくて良い、から」
むしろ何となく恥ずかしい。同棲していたようなもので、若葉さんがキッチンに入る瞬間はなんとも言えないときめきがある。
冷蔵庫からお茶を取り出した若葉さんに首を振って、フライパンの蓋を開ける。プレートに照り焼きになったチキンを盛り付け、ダイニングテーブルへと運んだ。後は枝豆と、それから――
「……あああっ!」
点灯していないオレンジ。赤でもなく、オレンジでもなく、色のない小さな丸。
「冷凍室に冷凍したやつが入ってる」
心底おかしそうに喉を鳴らして笑う若葉さんは冷凍室からご飯を出して、慣れた手付きでレンジに入れた。
「炊き立てにしたかったのに……」
がっくりと項垂れて、炊飯スイッチを押し忘れた自分自身に情けなくなる。おかずだけ作ってどうするんだ。危うくご飯なしのディナーになる所だった。
「いつになったら気付くんだろうなと思いながら紫月を見てた」
「そう言うときは、教えてください!」
「あんまりにもせかせか動くから、そっちばっかり気になって。出来上がったらどんな顔するかも見てみたかった。ごめんな」
ぽん、と頭に手を置いて私に謝る若葉さんは申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「いえ、私が悪いのに……八つ当たりしてしまって、ごめんなさい」
「ああ。もっとしてくれて良いけどな。怒った紫月も見てぇし」
レンジが鳴って、少しよそ見した瞬間。
「ごめんな。次からは言うようにする」
音もなく額に触れた、柔らかい感触に私の顔が赤く染まった。
「……うん」
破裂してしまいそうな私の心臓を誤魔化すようにして、枝豆をぷちぷちボールに押し出していく。冷蔵庫からはちみつ漬けの梅干しを取り出して、包丁の背で種を出す。恥ずかしさをぶつけるみたいにしてこれでもかと細かく刻み、ボールに入れて白ゴマとまぜまぜ。炒っても擂ってもいないけれど、これはこれでぷちぷち食感が楽しかったり。さりげない若葉さんの行動はひっきりなしにときめきを感じさせる。レンジで温められて熱々になった白いお米をお茶碗に盛り、混ぜた梅枝豆をちょこんと小鉢に入れたなら、やっと出来上がりました、今夜のディナー。ドキドキに溢れたいつもと違う、両想いのときめき満載ディナーの仕上がり。羞恥に染まった顔を俯かせダイニングテーブルに座る私と、落ち着いた動作で席についた若葉さん。
ことり、とテーブルに置かれたのは。
「貰ったから、紫月にやるよ」
流石にもう気が付いた。人から貰ったものなんて、今まで一つも無かったのだと。
「俺の指には入らねぇし。もう一回り大きいの貰ったし、俺はそれをつけるから」
若葉さんは指が細いからこれでも入るんじゃ無いですか、と言ってみたい衝動に駆られながら。
「……気に入らなかったか?」
ちらりと窺うその顔には、僅かな不安の色が見えた。だから私はいつものように、
「嬉しいです、すごく嬉しい」
即答して、微笑んで。涙を堪えて笑って見せる。嬉しすぎて鼻の頭がツーンとしてしまっても、若葉さんにちゃんと笑顔を見せたくて。
「……紫月がそうやって笑う度に嬉しくなるんだけどな、同時に申し訳ねぇって思ってた」
喜ぶ私とは打って変わって、若葉さんは眉を寄せた。その表情の変化に背中がスッと冷たくなる。
「紫月には中々言えなくて。ずっと、黙ってて悪かった。実は――」
発せられる言葉が瞬間的に怖くなる。なにを言われるのかわからなくて、ぎゅと胸が鷲掴みにされたような気分だった。
「貰ったんじゃねぇんだ。いつも、その、紫月に俺が買って来てて……」
「いやいやいやとっくに知ってます!それは知って」
「……ん?」
「あ、えっと……あの、知ってる、よ」
「知ってたのか?」
「うん、何となく……」
私が頷いた直後の若葉さんの顔は、きっと一生忘れることが出来ないと思う。みるみる間に赤くなって、恥ずかしそうに俯いて「気付かれてんじゃねぇか……」と呟いた若葉さんは、本当に可愛らしかった。
あのプレゼント達は、食事のお礼をなるべく気を遣わせない範囲でしたいと思ったのが始まりの切っ掛けだったらしい。人から貰った物だと言えば、私が受け取るだろうと考えての事だったと若葉さんは照れ臭そうに顔を隠して教えてくれた。そして、いつものように食事をする時は、私を余り見ないまま料理にだけ集中する。目の前の照り焼きチキンをまるで恋人のように熱く見つめて、噛み締めるように咀嚼して小さく感想を漏らすのだ。そんな若葉さんだからこそ、私は作るのが楽しくて堪らない。ディナーの主役はそれこそ料理で、きっと料理に集中し過ぎて会話が少ないだとか不満に思う人も居るだろう。けれども、私は会話が少なくなったとしても料理を楽しんで貰える方が嬉しいと思っている。それにしても、気付かれていないと思っていた若葉さんが私をどんな風に見ているのか些か疑問ではあるものの。真っ赤になった若葉さんはそれはそれは可愛くて、そんな顔が見られただけでもよしと言うことにしよう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
会いに行く、と決めてから。若葉さんはご両親にその旨を伝えてくれた。ただ、今日明日は予定が詰まっていて、明後日の夜なら時間が取れると言うことらしい。そんな多忙な時期に休ませてしまっていると言うのに、電話口での若葉さんは始終予定を聞くだけで謝ったりもしていなかった。責められてしまわないだろうかと不安になっていた私に、若葉さんが言ったのは拍子抜けする一言で。
「休み貰うの初めてだしな」
働き過ぎだとは確かに思っていたけれど、まさか初めての休みだとは思いもしていなかった。そういう事なら、ご両親も若葉さんを責め難いかも知れない。
二日という猶予が再び出来て、松江先生に予定を聞いてみようかと思っていると、奏太くんからの電話が来た。
若葉さんにそれを告げて、通話ボタンを軽く押す。
「もしもし?」
「“あ、紫月さん?良かった、電話に出てくれて”」
奏太くんとはメールのやり取りだけで、巴さんの事があってから電話は全くしていなかった。相変わらずの明るい声音に懐かしさのようなものを感じつつ、メールでも伝えた謝罪をもう一度伝える。
「ごめんね、奏太くん。それから……松江先生のこと、本当にありがとう」
「“良いっすよそんなこと。それより、会って話せますか?若葉さんも一緒で良いんで”」
「えっと、私は平気だけど……聞いてみるね?」
もしかしたら若葉さんには何か用事があるかも知れない。そう思って振り返れば、口パクで“大丈夫”の返答が。最大音量にしているなおかつ、奏太くんは通る声をしているからか聞こえてしまっていたらしい。
「大丈夫みたい。えーっと、じゃあどうしようか」
「“そっち行きます。あれだったら俺の部屋でも良いですけど”」
「ううん、平気。今から?」
「“そうっすね”」
「わかった。待ってるね」
通話を終えて携帯を閉じながら、久しぶりの対面に少しだけ緊張が走る。
「来るって?」
「うん。今から来るみたい」
「わかった」
若葉さんは立ち上がって、キッチンへと近付いた。なにをするつもりか悟った私は直ぐ様阻むようにして若葉さんの前に回り込む。
「私がするよ。若葉さんは座ってて」
「紫月に俺が淹れたのを飲んで欲しい」
「……」
「紅茶で良いか?」
「……うん」
言い返せない凄まじきストレート攻撃。若葉さんの言葉は、直球で恥ずかしい。
するりと私の横を潜り、お湯を沸かしはじめる若葉さん。その後ろ姿を見ている間にチャイムの音が鳴り響いた。
流石に同じアパートだけあって、到着も早い奏太くん。
一応、相手が誰かを確認してからドアを開ける。
「おはよう、奏太くん」
「おはようございまーす。うわぁ久しぶりっすね、紫月さん。可愛くなりました?」
「多分それは勘違いかな。奏太くんには沢山お世話になりまして……」
「そんな畏まらなくても。若葉さんもおはよーございます」
「ああ」
キッチンから顔を出して奏太くんを見た若葉さんは短く返事だけをして、再びキッチンに引っ込んだ。
引きこもりだった私の家に客用スリッパなんて空気の読めるものは当然なくて、奏太くんもそれには気が付いていたのか玄関先でジッと待つような事はせずに踵の潰れたスニーカーを脱いで上がった。
ダイニングテーブルに座るよう促しつつ、キッチンを気にする私に奏太くんはニカッと笑う。
「本当に付き合ってるんっすねー。なんか切ないマジで」
軽口を叩く奏太に視線を向けてみても、切なそうな顔はしておらず冗談のような軽さも相俟ってか笑い過ごす事が出来た。
ダイニングチェアに腰掛けて、奏太くんは部屋をぐるりと見渡した。人を部屋に入れたくないと思っていたのが嘘みたいに、今は何とも思わない。それは、生活する空間に若葉さんが入ったからなのか、それともこのアパートに住む人達にだけ何とも思わないだけなのか。正直なところ分からないけれど、少なくとも奏太くんに不快感は抱かなかった。
「うん、紫月さんらしい部屋」
「らしいって……どんなところが?」
「全体的にすっきりしてるし、暖色のものが多いかな」
どこのインテリアコーディネーターだ、と言いたくなるような感想を漏らす奏太くんは、苦笑いする私に向かって曇りのない笑みを浮かべる。
「話しておこうと思ったんっすよね。俺、あんまり人の話を抱え込むの好きじゃないから」
表情は明るいけれど、口に出した言葉は重たい。一見、冷たいようにも聞こえる。
「奏太」
キッチンから出てきた若葉さんは、マグカップを二つ右手にグラスを左手に一つ持ってダイニングテーブルに近付いた。
「はい、なんでしょ」
「俺はお前の良心を信用してる」
「……あー。プレッシャー」
へにゃりと力なく笑った奏太くんはグラスを若葉さんから受け取り、中の麦茶を一口飲む。
「じゃ、とりあえず巴さんの話から」
テーブルについた私と若葉さんの向かい側に座っている奏太くんは、少しだけ視線をさ迷わせ沈黙を数秒築いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「まぁ、なんっつーか、助けてって言われるとさ。見捨てられねぇんだ、俺。紫月さんも似たようなもんだと思うけど」
「私?」
「そーっすよ。優しいってのもあるんすけど、そうじゃなくて見過ごせないって感じかな」
口調が安定しない奏太くんを見兼ねて、一先ず先に話しやすいように気を楽にして貰おうと口を挟む。
「……敬語、使わなくても良いよ」
「はは。すみません、なんか話し難くてつい敬語グダッちゃって」
首筋に手を当てて俯く奏太くんの姿は、いつものようにただ朗らかと言う訳でもなくて。
「巴さんから、結構前に“助けて”って言われた事があったんだ」
驚いて、思わず隣を見つめる。だけど、若葉さんは知っている話だったのか、表情を変えずに聞いていた。
「酔ってるし、マトモに相手してなかったんだけどさ、何となくそう言われた日から気に掛けるようになった」
奏太君が思案しながらぽつりぽつりと話す内容に、そっと耳を傾ける。
「それから暫くして、巴さんが泥酔した時に俺が介抱してたんだけど……あ、紫月さんが来る前のハナシ」
そんな事があったんだ…と思いながら聞いていると、奏太くんは私を見ていつの話なのか補足した。それに頷けば、また奏太くんの視線は下に向いてしまう。
「“お母さん”って、呼ぶんだよね。泣きながらさ、“叩かないで”って。詳しい話とか聞かなくても、それだけで何となくわかるじゃん?」
はは、と渇いた笑い声を上げるけれど、奏太くんの顔は全く笑えていなかった。
「紫月さんが来るまで、ずっとそればっか気になって巴さんを気にかけてた。でも、俺はそんな器用でもねーし……疲れてたって正直思う」
「奏太くん……」
何を言えば良いのか、どんな言葉を掛けたら良いのか、分からない。きっと、奏太くんが言ったように、私と奏太くんは少し似ている。何となく気になって、ずっと考え込んでしまう。お節介だと分かっていながら、その人以上に自分が気にしてしまうくらい、真ん中に取り込んでしまう。疲れたと放棄する事は簡単な筈なのに、それが悪い事だと思って投げ捨てる事が出来ない。
「まぁ、俺は紫月さんより繊細じゃないからさ。巴さんの事も、そんなに深く踏み込もうとしなかった」
だけど、結局。奏太くんは巴さんから話を聞いたと言うことだろう。
「でもさぁ……紫月さんに八つ当たりすんのってやっぱり可笑しいじゃん?紫月さんに巴さんを押し付けた俺も悪いけど」
咄嗟に浮かんだ言葉は一つで、半ば反射的に口から出ていたと思う。
「奏太くんは悪くない」
悪くない。誰も、悪くなんてない。巴さんにも理由があった。私にも理由があった。切っ掛けは、引き金は、どちらも分からないままだったのに、誰かが悪いと決めつけるのはあんまりにも軽すぎる。
「……マホーの言葉」
「え?」
「いや、何でもない。……ありがと、紫月さん。俺さ、巴さんから話を聞いて思ったんだ」
グラスを指でツンとつつき、奏太くんは横を向いた。
「俺で役に立つんなら、傍に居てやろうかなって。勿論、そこに同情がないかって言われたら答えられないけど」
それはつまり、奏太くんが巴さんの傍に居たいと少なからず思ったと言うことで。
「ずっと母親の言いなりで、母親が死んでからも形見の指輪を持ってないと殴られる気がしてたんだって」
巴さんが顔面蒼白になりながら私に詰め寄ったあの日、呪縛のような形見の指輪は巴さんの元から消えた。現金と指輪が無くなったと言うことなら、置き引きのようなものだろうか。巴さん本人に危害が無くて本当に良かったと思う。
「あんなの、一種の強迫観念だよ。母親の呪いみたいで、取り乱した巴さん見た時はぶっちゃけゾッとしたくらいだし」
「……巴さん、今は?」
「指輪がなくなったからかな、一応は吹っ切れてる。たまに、発狂するけど……松江ちゃんが言うには心配ないって」
「そう、なんだ……」
松江先生がそう言ったなら、きっと心配はないのだろう。私もお世話になったからかその言葉には安心出来る。
「紫月さんに話に来たのは、巴さんからのお願いなんだ。直接会うのは、多分どっちも辛いだろうし」
それから――と、奏太くんが続けたのは。
「がめ煮、食いたいんだって」
タナベさんのお願いで。
「紫月さんに背負わせたい訳じゃないから軽く聞き流してくれて良いよ」
奏太くんはあくまで気軽に、世間話を始めるようなトーンで話しながら頬杖をついた。




