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松江

二日目の昼。

朝から訪ねて来てくれた松江先生と、向かい合って話をする。途中、休憩を入れようと言った松江先生に頷いて、昼食を一緒に取ることにした。買い物に行けていないせいで、作れたのはキャベツと豚肉しか入っていないお好み焼きだったけれど、松江先生は喜んで口に運んでくれている。小麦粉、卵、だし、キャベツ。それだけあれば出来る質素なお好み焼きは、ソースとマヨネーズで何とか味が整ったものの、自分で食べても少し物足りない味だった。豚肉が無ければ、もっと酷かったかも知れない。


「そんな顔して食べないの。充分、美味しいわよ」

「……先生」

「なぁに?」

「私、作るのが楽しくて仕方なかったんです。若葉さんはいつも嬉しそうに、私のご飯を食べてくれた」

「ええ、だって美味しいもの」

「私を見ないで、ご飯を見ながら小さく美味いって言うんです」


それが、嬉しくて。本当に嬉しくて。誰かの為に自分が出来ることがあるのだと気が付けたような気がした。


「なのに、私は。若葉さんが気が付かせてくれたのに、まだ若葉さんに求めて期待して」


貰ったものは沢山あった。若葉さんはずっと私に素敵なものをくれている。そんな優しい若葉さんを、私は無理やり縛り付けて。


「分かってるのに、なんでかなぁ。私が変になっちゃったから……きっと責任を感じてる」

「それは少し、行き過ぎね」

「行き過ぎ?」


静かに箸を置いて、松江先生はグラスを持ってお茶を飲んだ。こくりと飲み込んだ後に、私に視線を向けて笑う。


「彼ね、きっと紫月さんが好きで好きで堪らないのよ」


花が綻ぶように笑い、お茶目な瞳を松江先生が和らげる。


「少し落ち着いたから話すけれど――」



どんな事も、どんな時も、若葉さんは私を見て笑ってくれる。真面目な顔付きから一転して、フッと笑みを浮かべてくれる。その視線を独り占めしたくて、私を見て欲しいと思った。

若葉さんの笑顔が見たい。そう、思っていたのに。


「――貴女の為に何かしたくて、貴女の力になりたくて、色々模索してるのかも知れないわ」


全部、全部、私だけに。

向けられていたものだった。



困った顔、笑った顔、辛そうな顔に嬉しそうな顔。若葉さんはいつも真面目で、堅い表情を浮かべていた。そう言えば巴さんに会ったときも、呆れた顔しかしなかった。


「貴女は彼の“特別”なのね」


 どうしよう。どうしたら良いんだろう。片想いだと疑わなかった。押し付けたディナーは一人で盛り上がっているものだと、ずっと思い込んでいた。

若葉さんは好きだと言ってくれたけれど、それを信じようとしてもなかなかうまく行かなくて。一緒に生きていきたい、ずっと隣で過ごしたい。恋人になったんだから、好きの気持ちを信じても良かったのに。


人から言われてやっと信じられたなんて、疑い深いにも程がある。


「先生……っ」

「なぁに?」

「好きって、難しい……」

「ええ。色々な形があるから難しいと思うのは当たり前よ。同情も、親しみも、好きの気持ちに直結する。だけど、彼の気持ちはきっと」


あくまで第三者からの視点になるけれど、と前置きをしてから松江先生は悪戯っぽく囁いた。


「はっきりとした愛情だと私は思うわ」



こんなにも力強くて、心強い味方がいる。一人で立たなくちゃいけないと、何度も何度も戒めた。


目蓋の腫れた私を見て、松江先生は「午後からはその話にしましょう」と再び箸を握って笑った。




一人で立つ必要はない。誰かに頼る事は悪い事じゃない。繰り返し、松江先生が私に教えてくれることは今までずっと突っぱねて来た私の意地のようなものと正反対のことだった。

時には隠れて逃げることも必要で、そうしたことを後悔してはいけない。

逃げた自分を、逃げると選択出来た自分を褒めてやってもいいくらいだ、と。

選択するのは勇気があるから。自分で自分の行動を選べるということを、誇りに思っていいのだ、と。


「一人で頑張ろうとするのは、もう少し後で良いの。今は誰かに頼ることを思い切って選んでみて」


そう締め括って、松江先生は話を終わらせた。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



紫月との話を終えて、松江は紫月の部屋を後にする。少しだけすっきりしたような顔を向けてきた紫月に、罪悪感がじわりと湧いた。ドアを閉めて階段を下ろうとした刹那、隣の部屋から男が出てくる。男は慎重にドアを閉め、松江と目を合わせ下を指差した。紫月の恋人である若葉は、無言のまま下るように松江へ合図をする。松江は不審に思いながらも頷いて階段を降りた。

一歩一歩に神経を使いながら、若葉は足音を立てないように階段を降りていく。地に足がついた後、若葉の瞳が松江へ向かった。


「少し時間を作って貰って良いか」


小声で尋ねたと言うことは、紫月には知られたくないのだろう。頷いた松江を一瞥した若葉はアパートをさっさと後にした。

暫く歩いて、若葉は近場にある公園へと味を踏み入れる。松江は鞄を持ち直し、ベンチのある場所へ近付く若葉の後を追った。


「聞きたいことがある」


ベンチに腰掛けた若葉は、松江を見て端的に告げる。


「その前に、謝っておくわ」

「謝る?」


松江の発言に眉を寄せ、睨んだ若葉に慌てて松江が首を振る。


「ちょっと。睨まないでくれる?紫月さんに危害を加えた訳じゃないわ」


この男、やはり堅物なのかも知れない。松江はそんな見解を抱きつつ、若葉と距離を空けてベンチに座る。


「彼女、紫月さんに頼まれてたのよ。二日でどうにかして欲しいって……ちゃんと人を見る目はあるわ。誰彼構わず話したりはしてないから」


真面目腐った若葉の剣呑な視線を受け、松江は先に伝えておく。守秘義務はあれど奏太や若葉は事情の殆どを知っている。患者が知られたくないトラウマの内容を若葉は既に包み隠さず聞いているのだから、変に隠し立てする必要はない。それに、


「貴方は紫月さんから離れるつもりが無さそうだし、私もそこを利用してしまった部分があって」

「利用?」

「ええ。二日で、という希望をなるべく叶える為に貴方の存在を引き合いに出した」


松江の話を黙ったまま聞いた若葉は恐ろしく真顔で、余計な茶々を入れる奏太とは段違いに大人だった。

松江は紫月の希望を優先してカウンセリングを行った。本来なら、その希望は無視して手堅い道を選ぶべきだ。紫月の希望、二日で出来るだけ改善して欲しいというもの。独り立ちさせるには、本人の強い意思と挫けない心が必要になる。けれど、一日目を経てから松江は無理だと判断した。たった二日ではどうにもならない。しかし、そこに若葉と言う絶対的な味方が加われば――たった二日でもやりようはある。だから、松江は紫月個人で立ち直る手堅い道を捨てて若葉への依存を基盤に立ち直る方向を選択した。


「本人の為にはならないかも知れない。もし貴方が紫月さんを捨てていったら、今以上に混乱する可能性がある」

「そうだろうな。一人で立つのは止めさせて“二人で”立つように持って行ったってことなら」

「やってはいけない賭けだと思ってるわ。だけど、希望を優先したの。そう出来ると思ったから」

紫月の為に自身を抑えられる恋人。そんな相手が居るなら、一時的に気持ちを反らす事だって可能になる。

「貴方が居れば、紫月さんのトラウマも一時的に誤魔化しが利くかも知れない。意識を貴方に向ける事によって、トラウマを薄れさせる」

「要するに、俺が紫月の注目をずっと集めて居れば良いんだろ?」

「そうよ。でも、貴方がもし居なくなったら……」

「それは無い」


松江の表情がひくりと引き攣る。奏太にしても若葉にしても簡単に思い過ぎている。繊細さが重要になる心的外傷の悩みは、他人が簡単に言えるほどに軽いものでは無いと言うのに。


「それで、聞きたいことって?」

「紫月は俺の気持ちを信じてない。それをまずどうにかしねぇと……」


松江は素直に驚いていた。若葉がそこに、気が付いていたと言うことに。


「よく、見てるのね」

「紫月を見ないで何を見るんだ」

「……」

「アドバイスみたいものが貰えないか?専門用語で固めた本より、実際に聞いた方が早い。時間が惜しいんだ」


当たり前のように尋ねる若葉に瞬きをしながら、松江は奏太の言葉を思い出した。

――多分、そんなに軽くじゃなくて、めちゃくちゃ勉強してると思うよ。


「時間が惜しいって言うのは、ご家族に会わせるから?」

「いや。紫月が二日でどうしかしたいならそれを叶えてやりたい」


――理性の塊。


「そう……」


瞬間、試したくなった。松江は過った考えをそのまま口に出して問う。


「私と話している事を知ったら、紫月さんはどう思うかしらね」


怪訝な顔をした若葉は顰めっ面のまま素っ気なく言い返す。


「不安になるだろうな。だからわざわざアパートから離れたんだろ」

「誰かに目撃されて、紫月さんが知るかもしれないじゃない」

「アンタなにが言いたいんだ?」

「紫月さんが不安に思ったら貴方はどうするの?」


心に傷を負って自分を追い詰める人間は、閉じ籠るのも早い。不安になると一人を選ぶ、誰も踏み込ませようとしない。今の繊細な紫月がもしもこの事を知ったなら、いらぬ想像を嫌でもしてしまい再び閉じ籠るおそれもある。


「――聞かせる」

「なにを?」

「アンタとの会話、全部な」


若葉が手のひらに隠していたのは、細長いボイスレコーダーだった。予想外のことに松江は目を見開いて、周到なその用意に思わず笑いが溢れていた。


「あははははっ!なにそれ、いつから録ってたの?やだ、予想外すぎるっ……!」

「ずっと録ってる。二日前、紫月と離れてからずっとな」

「ええ……どうして?」

「不安にさせたくねぇから。何してたって聞かれたら、いつでも教えてやれるだろ」

「へぇ……」


当たり前のようにさらりと言った若葉へ、若干引いた松江は笑みを落ち着けながら息を整えた。


「まぁ、それだけ想ってるなら大丈夫ね。それにしても徹底してるのねぇ」

「問い掛けられて返事が遅れたら、何かしら疑念を抱くだろ。紫月は今特に敏感になってるから暫くは持ち歩く」

「そう。ストレスは感じないの?」

「感じてるのは紫月の方だ。俺がずっと居る事で負い目を感じ始めてる。だから、大人しく帰ったが……」

「本当によく見てるのね。じゃあ、貴方には朗報かしら」


若葉が顔を上げた。松江は先ほどの質問に答えるべく、淡いピンクの唇を開く。


「自覚したみたいよ。貴方に好かれてるってこと。私から話を聞いて、少しずつ受け入れ始めてるわ」

「……何を話したんだ?」

「彼は紫月さんが好きで好きで堪らないって視線で見つめてるわよ、って」


実際に言った言葉とは多少の違いがあるものの、概ね意味は同じである。松江の言葉を聞いても真顔のまま若葉は頷く。


「分かった。――ありがとう」

「あら、照れたりしないのね」

「事実だからな」


 あっさり肯定する若葉に松江の方が恥ずかしくなる。真面目腐った堅い若葉には紫月のような心が繊細な女がぴったりなのかもしれない。


「貴方の母親に会うのよね」

「ああ」

「無理はさせないで。出来るなら、会わせないであげて欲しいけど……」

「紫月が納得しない。それに、」

「なに?」

「――いや、何でもない。」


 アドバイスを貰うつもりだった若葉に、朗報をもたらした松江。まるで追い風に乗ったように、紫月の周りが変化して行く。話を終わらせて立ち去った若葉は、始終松江に興味を抱かず紫月の事しか話さなかった。松江は思う。もしも自分が彼女という立場なら、


「鬱陶しい……いや、暑苦しいのかしら。でも、そんな風に想ってる事を悟らせないのかもしれないわねぇ」


奏太の言っていた事に何となく合点がいった。計算高い、掴めない。読めないという若葉は確かに理性的だが、その反面で紫月の為なら何でもしてしまいそうだ。


「あー……疲れた。飲み行こっかな」


松江の役目はここで終わりだ。次回の機会は紫月が希望しなければ訪れない。一先ず仕事を終えた松江は背伸びをして立ち上がった。

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