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カウンセリング

まず一番先に何をするべきか。そう考えて出てきたのは、心配を掛けっぱなしだった兄の存在だった。電話をすると、若葉さんから経過を幾度も聞いていたらしく「元気になったのならそれで良い」と朗らかに声を上げて笑ってくれた。


若葉さんと交際を始めて、二日目。そんなに焦らなくても、という若葉さんに首を振りご家族へ会うと決意しとりあえずは洋服を見繕った。だけと、簡単に服装は決まっても、覚悟はなかなか決まらない。自分の意思で若葉さんと一緒に居ることを決めたのだから、それ相応の態度はしっかりと見せなくちゃいけないと思った。

お風呂に入る時だけは、若葉さんは自室に戻る。そのタイミングを狙って、私は若葉さんを部屋に入れないように鍵を閉めた。

控え目なノックがされて、ドア越しに若葉さんの声が聞こえる。


「今度は何に悩んだんだ?」


落ち着いた声音に何となく気まずくなりながら、今回はそうじゃないと気合いを入れて拳を握る。


「若葉さん、少しだけ時間を下さい」

「時間?何の?」

「三日……ううん、二日で良いの。一人にして欲しい」

「俺が嫌になったのか」

「違います!それは、絶対に無いよ」

「ああ、分かってる。大丈夫だ。冗談を言ってみただけだからな」


 もやもやする……じゃない。違う、くすぐったいんだ。以前のような隣人の距離じゃなく、恋人同士のやり取りが。今すぐにドアを開けて若葉さんの笑った顔が見たいけれど、そんな事をしていたらいつまで経っても変われない。


「紫月、無理だけはするな。それから、二日して開けなかったらドア壊してでも中に入るぞ」


 やっぱり若葉さんは若葉さんだ。いきなり部屋から閉め出したのに、怒るどころか私の意見を尊重して聞いてくれる。


「うん。また、二日後に」


カン、と高い音が隣へと向かい若葉さんが部屋に戻る音が聞こえた。


「――頑張ります、若葉さん。私、頑張るから」


愛想を尽かさないで、ずっと貴方の隣に居させて。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「否定しないで。それで良いの」


深呼吸を何度も何度も繰り返した。大事なのは受け入れる事。松江(まつえ)先生、奏太くんが手配してくれた女医さんだ。若葉さんと離れて、取り組もうと思ったのは現実打破の一択だった。奏太くんは「事情は松江先生から聞く」と言ってけれて、私に負担が掛からないよう気遣ってくれた。巴さんにも会いたいけれど、奏太くんはお互いの為に暫く距離を置いた方が良いかも知れないと私に言った。その言葉に素直に頷いたのは、私よりも巴さんの方が辛い思いをしているんじゃないかと奏太くんのたどたどしい口振りから何となく察知したからだ。松江先生はつい最近になって長い休暇を取ったらしい。貴重な休暇を潰させてしまったと気付いた時は思わず涙が出そうになった。いつも自分の都合に他人を巻き込んで、迷惑ばかり掛けている。

そんな私の考えに対して、松江先生はあっさりと頷いた。

――そうね。でも、その考えは否定しないで受け入れてあげて。迷惑を掛けている自分を嫌わないで、受け入れて。

大事なのは受け入れる事。負い目を感じる事は悪いことじゃないけれど、負い目を感じる自分を嫌うのは悪い事だと松江先生はきっぱり言った。最初は意味が分からなかったけれど、話していく内に段々と分かってくる。

万引きを見逃した。それは悪い事だった。けれど、万引きを見逃した自分を悪人だと思ってはいけない。行為は否定しても、自分は否定するな。その違いに悩まされて暫く私は俯いた。松江先生は黙ったまま、私が話し出すのを待つ。そして、たっぷりと時間を掛けて私は少しずつ話をする。そんな事を繰り返して、じっくりトラウマを紐解いていく。


「見つけたとき、誰かに言わなきゃって思ったんです。だけど、顔を知ってる人がそんな事をしたなんて信じられなくて」

「うん、ゆっくり話して」

「――違う。違います。そうじゃなかった、信じられなかったから、と言うのは自分に対しての言い訳だった……」

「そう、言い訳をしたのね」

「はい……。本当は、怖かった……っ」

「ええ、そうね、怖かったわね。貴女はどうして怖かったのかしら」

「睨まれて、誰かに言ったら何かされるんじゃないかって」


思い出す度、息がとても苦しくなった。

どうして見てしまったんだろう。見たくなんて無かったのに、どうして私は見てしまったの――


「深ーく息を吸って、吐いて。自分を責めないで。見てしまったのは貴女のせいじゃない」


思っている事と、口にしている事の境目がもう分からない。考えている事を私はそのまま口に出しているのか、松江先生は頷きながら相槌を打って聞いていた。


「どうして目が合っちゃったんだろう」

「タイミングが悪かっただけよ。見たくて見た訳じゃないんだから、貴女はそれを自分のせいにしちゃいけないわ」


本当に果てしなく長いカウンセリングの時間だった。一日ずっと付き合ってくれた松江先生は、夕方を過ぎて立ち去った。


一人になって、ソファーの上で膝を抱えながら反芻する。


――紫月は悪くない。


若葉さんの言葉も、松江先生の言葉も。やさしくて、あたたかい。


つうっと流れた涙を拭いもせずに、私はひたすら泣いた。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 「どうだった?」


紫月の部屋を出て、奏太の部屋に向かった松江は奏太の問い掛けに微笑みながら頷いた。


「紫月さんの彼、心理学か何かを専攻してたのかしら」

「さぁ、知らないけど……何で?」


首を捻る奏太へ向かって、松江は穏やかな表情を作る。


「一番効く魔法の言葉を紫月さんに言ったみたいなのよ」

「魔法の言葉?」

「ぽっと出の私が言うよりもずっと効果はある筈よ」


感心したように息を吐き、紫月の前向きな姿勢に対して松江は和やかな気持ちを抱いた。


「“あなたは悪くない”」


心的外傷を抱く人間の中で最も多い潜在意識は“自分が悪い”と決めつけて自身の人格を否定する事だった。まずは、そこを改善しなければ快方への道のりは険しい。紫月は前向きで、真っ直ぐで、故に傷付き易い。カウンセリングを取り乱さずに、受け入れられる理由は恐らく紫月の世話をしていた恋人にあるだろう――と、当たりをつけて松江は芳しい紫月の様子を思い出す。だが、


「二日じゃ無理ね。毎日会って話を聞くとしてもせめて三ヶ月は必要よ。ストレスを掛けないように間も空けなくちゃならないし」


紫月は松江に、二日で少しでも変われないかと尋ねた。松江は紫月の前向きな気持ちを潰さないようその場では頷いたが、実際には難しい。


「大丈夫だよ」


無責任な事を言うガキ、と睨みそうになるも奏太の父親は何かと松江に目を掛けてくれている。失礼が無いようにと慌てて目元を和らげた。


「大丈夫って言える根拠はなに?」

「――若葉さんだよ」

「ああ、恋人ね。確かに心強いけど……」


急激に良くなる事は可能性としてあり得ない。例え恋人が居たとしても、心の奥までは干渉出来ない事が多い。錯乱して支えてくれている恋人を罵る事も、別段珍しくは無かった。


「多分、若葉さんは紫月さんの一番の薬になる。あの人、相当過保護だし」

「そうは見え無かったわよ?」

「騙されてんなぁ、松江ちゃん。若葉さんは紫月さんをずっと狙ってたと思うよ。って言うか、なぁんか若葉さん読めないしさぁ」


うーん……と唸りながら、奏太は胡座を掻いてローテーブルに頬杖をついた。


「――そっか」

「なぁに?」

「若葉さん、調べてんのかも。トラウマとかそういう事について」

「そりゃあ珍しくは無いけれど……恋人の為に専門書を読むのはまぁ良い彼氏なんじゃないかしら」

「違う違う。多分、そんなに軽くじゃなくて、めちゃくちゃ勉強してると思うよ」


 へらりと笑う奏太を訝しむように見つめた松江はふと部屋の様子を思い出した。


「そう言えば、今日は部屋に居なかったわよ」

「……やっぱり、若葉さん分かんねぇや」

「どう意味よ」

「何で魔法の言葉を紫月さんに言えたのか、何であんなに心配してたのに、あっさり離れられたのか。普通、様子が可笑しくなって眠ってた好きな人が起きたらさ、ずっと傍にいたくない?」


テーブルにうつ伏せて、奏太はぽつりと私見を晒す。


「理性の塊。紫月さんの為に自分を抑える事を知ってる……俺には無理だな、そんな芸当」


奏太の呟きを拾った松江が、暫く思案するように人差し指を折り曲げて唇へと当てていた。


――確かに、堅実そうには見えた、かも。恋人の為に専門書を読み、恋人の為に付きっきりで介抱して、恋人の為に距離を取って、無闇矢鱈に踏み込まずに――


「理性の塊……か」

「なんか俺、すげー噛ませ犬っぽいんだけど。若葉さんに上手く持ってかれた感じ」

「――確かに、今の紫月さんを理解してないと難しい対応ね」

「松江ちゃん俺の話聞いてる?」


取り乱した恋人を見て、気持ちが離れる事は多い。目の焦点が合わなくなり、ブツブツと呟いているなど、異様な姿を目にすれば気持ちがスッと冷めてしまう。それを見ても、ずっと気持ちが離れないのは深い愛情を抱いていると言うことだ。


「紫月さんの為なら、若葉さんって何でもやっちゃいそーな感じ、しない?」

「……どうかしらね」


あながち否定が出来ない松江も、深く理性的な愛情に感心はしても羨望はない。


介抱に対してストレスを抱いているとは思い難い態度だった。どこまでも丁寧で、気遣いを忘れない出来た恋人。そんな風に松江は印象を抱いたが、それはそうでどうなのか。


「ま、俺が見るに若葉さんは状況に応じて最善を選べる人だと思うよ。だから、紫月さんが求めてる事をできるんじゃないかなぁ」

「計算高い、ってことなの?」

「さぁ……そういうのが分かんないから掴めないんだって。長く一緒に居て、若葉さんのこと俺は殆ど知らないし」


良い意味でも悪い意味でも“堅実”な恋人の熱の隠った眼差しを、一身に受けているという紫月。松江の中に浮かんだのは「純粋な執着」という言葉だった。


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