踏み出して
「紫月が落ち着いてからで良い」
若葉さんはそう言ってくれたけれど、逃げて閉じ籠った私は夢から覚めるようにして意識をはっきりとさせていた。
念のため、と若葉さんは奏太君に掛け合って女医さんを部屋に呼んでくれたけれど、体調は言うほど悪くなくて、トラウマ――心的外傷についても社会的機能障害に分類されるもPTSDと診断するには精神が安定している、と説明された。とても綺麗な女医さんが言うには、一部の記憶だけが鮮明に心に残り何かの拍子にフラッシュバックを起こしてしまう事はあっても、生死を左右するほどのものでは無いとのことらしい。それは、自分自身でも良く分かっている事だった。本当に一部だけで、衝動的に死を選ぶ訳ではないから、診断書にはPTSDとは書けない。実際に社会復帰が難しい状態でも診断書が無ければ、単なる“逃げ”だとしか思われない。自分でも逃げだと、単純に怖がっているだけだと、頭では理解している。女医さんは言い聞かせるように「焦らないで」と私に言った。無理に克服しようとすれば、心が壊れてしまう恐れがあれるから、とも。簡易的なカウンセリングのようなものを受けていた私の隣には、若葉さんが座っていた。黙って話を聞きながら、時折気遣うような視線を私に向けてくれていて。
――ごめんなさい。
そう言った私に向かって、若葉さんは首を振った。
「紫月。昼は何が食べたい?……ああ、先に食材買いに行った方が良いか」
女医さんが帰ってから、若葉さんはキッチンへと立った。奏太くんにお礼を言わなければと思いながらも、まずは若葉さんへと話をしなければならない。
「あの、若葉さん」
「ん?」
「お仕事、行って下さい。私はもう大丈夫ですから。先生もああ言ってましたし、死ぬようなものじゃないですし」
逃げているだけだ。目を反らして、辛い思いをしたくなくて。
「休ませてしまってごめんなさい。挨拶にも、ちゃんと行かせて下さ……」
シィ、と人差し指を立て、若葉さんは唇に添える。静かに、と言う意味なのだと気が付いて訳も分からないままに口を閉じれば若葉さんが話し出した。
「俺が戻るときには、紫月も連れて行かねぇと。そういう約束だから。もう謝らなくて良い」
私が謝ったから口を閉じろと言いたかったんだ。さっきの動作の理由に気付き、少しだけ居心地が悪くなった。何度謝っても足りないと思っているからか、自然と口から謝罪が溢れる。
「だから、今はゆっくりしよう。紫月と二人で過ごせるの、すげぇ楽しみにしてたんだ」
大人で落ち着いていて、少しミステリアスな若葉さんが、子供っぽく笑うから。照れ臭そうに目線を下げて、耳だけを赤く染めているから。ごめんなさいとは言えなくなって、気恥ずかしさが私にも移った。
若葉さんは「不謹慎か?」と呟くけれど、そんなことは気にならないくらい鼓動が早くなって行く。苦しくて、だけど嬉しくて、堪らなくなって近付いた。伸ばした腕に気付いた若葉さんが、咄嗟に私の身体を抱き締める。
「急に来たら危ないだろ。紫月が怪我したらどうするんだ」
紫月、紫月、紫月、紫月。私の名前をはっきり呼んで、心配してくれる若葉さん。胸がいっぱいになって堪らず勢いのまま抱き着いたのに、それでもしっかりと受け止めて腰に腕を回してくれた。
「若葉、さん」
「ん?」
「ありがとう……っ」
ごめんなさいは、お詫びの言葉。ありがとうは、感謝の言葉。
「やっと言ったな」
心底ホッとしたように、若葉さんが息を吐き出す。
「俺は紫月に感謝されたい。見返りも当然求めたい。紫月の中から俺が消えないように、ずっと近くに俺が居られるように。って言うのは、欲張りか?」
「なにを返したら、良いですか。若葉さんにして貰ったことが沢山有りすぎて、分からない」
「紫月の全部。丸ごと俺にくれたら良い」
若葉さんより私の方が、ずっとずっと欲張りだ。
迷惑を掛ける。本当はずぼら。すぐに逃げる。
そんな“私”を、私は若葉さんに渡そうとたった今本気で決めてしまった。
「きっと、我が儘ですよ、私。若葉さんが嫌になるかもしれません」
「じゃあ手始めに、その敬語止めねぇ?恋人同士で敬語は微妙だしな」
――お昼です。二人で食べる、ディナーの始まり。夕方でも深夜でも無いけれど、一日で最も重要な食事になりそうだから、今日だけはお昼がディナー。
「……うん、分かった」
距離が縮まる、これから先。第一歩へと踏み出して、私は若葉さんに笑い掛ける。




