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現実

一頻り私が泣いた後、若葉さんはキッチンへ行き少しして小さな土鍋を持ってきた。蓮華の添えられたそれに、いつかの日と立場が逆転したと気付いて可笑しくなる。


「紫月は、我慢強いんだよな。良くも悪くも、強い」

「……強かったら、こんな風には」

「強かったからこうなったんだろ。少しは食べられるか?」

「あ、はい」


腫れぼったい目蓋はひりひりするけれど、若葉さんが私を見てやんわりと笑うから視界を隠したくなかった。


「心配してる。奏太もコウイチも、……巴も」


どきりとする私を気遣ってか、若葉さんは立ち上がり私の隣に座り直す。背中をゆっくり擦りながら、私がぼんやりしていた間の話を聞かせてくれた。


「奏太が病院に連絡して、色々と動いてくれた。巴は暫く仕事休んで毎日病室通ってたな」

「……そう、ですか」

「巴に奏太がキレたらしい。呑んだくれを介抱した紫月に対してあんまりな態度だって。恨むのは紫月じゃなくて、無防備に外で寝てた自分だろ、って」


語る若葉さんの表情は苦笑いで、語り口調もどことなくぎこちない。


「前に、巴から聞いた話がある。自分は母親の人形だった、ってな」


指輪が無くなったことに、異常なほど取り乱していた巴さん。確か、形見だと言っていた。


「指輪、を」


話そうとして、ハッとする。同時に身体が固まった。若葉さんは起こった出来事を、すべて知っていると言うことだ。


「――疑ってなんかねぇからな」

「……あ」

「紫月が盗ったなんて思わない。あの騒動は巴が全面的に悪い」


安心させるように言い聞かせる若葉さん。声音は穏やかで、徐々に強張った身体は緩んでいく。


「巴の母親は過保護だったらしい。ずっと監視されてるみたいな生活だったって言ってたな。巴も巴で何か事情があったんだろうが……俺は紫月が気になって正直それ所じゃなかった」


直球な若葉さんの台詞にときめいてしまいそうになる。セーブしている気持ちを押し込め、巴さんの必死な顔を思い出した。

追い詰められているかのような、焦ったあの表情は。いつも介抱する私に向けていた複雑な顔と何か関係あるのかもしれない。疑われたことは悲しい。だけど、巴さんが理由になった訳じゃない。私の中に潜んでいた大きな秘密が引き出されて、閉じ籠る事になったのだから。

町内会長の万引き現場、翌日から始まったいじめのような嫌がらせ。万引きという犯罪を見ていながら誰にも言えなかった罪の意識と、誰にも言わなかったのに理不尽に嫌がらせを受けた日々。ない交ぜになった気持ちが生んだ、トラウマという逃げ道に私はあっさり逃げ込んだ。

今は意識がはっきりしていて、ちゃんと自覚もしている。私はうわ言のように何度も町内会長が万引きした事実を語っていた。若葉さんが傍に居てくれたということは、きっとそれを何度も聞いているはずだ。


「……私、老婆が駄目なんです」

「ああ」

「だから、若葉さんとは」

「知ってたけどな」

「……え?」

「知ってた。メモ、入ってたから」

「メ、モ?」


蓮華を持つ手が固まった。少し、間を置いてとりあえず蓮華を土鍋の縁に置く。若葉さんに向き合う形で正座をして、恐る恐る顔を上げた。


「もう一回、言って下さい」

「結構前から知ってた。紫月の兄貴が連絡先をメモに書いて、俺の部屋のポストに入れてたからな」

「……お兄ちゃんが?でも、あの、お兄ちゃんは奏太くんを」

「コウイチの所にも連絡先が入ってたらしい。ついでに、チャイムも鳴ったんだと」


 と言うことは。


「この棟の部屋手当たり次第に声掛けたんじゃねぇかな。俺は仕事で、コウイチは部屋から出られねぇから」


消去法で奏太くんが来たと言うことなのだろう。お兄ちゃんらしいと言えばお兄ちゃんらしいやり方に、溜め息しか出てこない。だけど、的外れと言う訳でもなくて。ごみ出し以外に部屋から出ない私が恋をしたと言えば、必然的に間近の人になる。インターネットもろくに出来ず、出逢いは皆無と言って良い。それでも、どこか抜けている兄に脱力感が凄かった。


「なぁ、紫月」

「はい」

「俺のこと、嫌いじゃないんだろ?」


――本当に好きでも何でも無かったのか

――はい


あの決意が、あの決別が。台無しになってしまった。私がさっき口にしたのは、言えない気持ちだったのに。


「……嫌いじゃ、ないです」


もう白状するしかない。小さな声で告げた真実に、若葉さんは息を吐き出す。


「――良かった。じゃあ、付き合ってくんねぇかな」

「それは、」

「好きってさっき言ったのは嘘か」

「嘘じゃないです、けど」

「トラウマがあるってのも聞いてる。無理に結婚しろとも言わねぇから。ただ、結婚してる事にはなってるけどな」


若葉さんの前髪が、ぱらりと一房落ちてきた。それを邪魔そうに掻き上げて、若葉さんがふっと笑う。



「職場ではもう紫月と結婚してることになってる。だからそれに合わせて欲しい」

「――え」


悪い、と続いた謝罪と同時に私の声が上がる。私の驚きの叫びを聞きながら、若葉さんはぽりぽりと頬を掻いて照れ臭そうにそっぽを向いた。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆



確かに、確かに考えてみれば今の状態が既におかしい。若葉さんはずっと私についていたらしいし、天井が変わってから付き添っていた影が若葉さんだったなら明らかにおかしい。普通に考えたら、仕事に行っていないと言うことだ。


「紫月の傍に居たかったんだよ。だから、そう言うしかねぇと思って」

「結婚って、え、若葉さん、え」

「落ち着け。とりあえず落ち着け。話して無かったけどな、俺の仕事はデザイン関係で、上司は……と言うか、社長が親父だから容赦がねぇ」


ついて行けていない私に、若葉さんは今まで話さなかった事を紐解いて話し始めた。


「それなりに評価されてる割には従業員が少ない。母親も姉貴も弟もずっと会社に駆り出されてる。俺もまだ修行中で、」

「ちょ、ちょっと待って下さいっ!職場って、じゃあ……」

「ああ、家族に話してる。寧ろ、家族だから適当な理由がつけられなかった」


一気に慌てふためく事になった。あれだけ心配していたご家族への挨拶問題や結婚にさしあたっての問題が、知らない所で加速している。むしろ壁を三つくらい乗り越えてしまっている。眠っている間に、ぼんやりしていた間に。若葉さんちがう、もう職場じゃなくてそれ普通に家族。最初から家族って言って欲しかった。


「わけが分からなくなって来ました……」

「悪い……」


ここで変に突っぱねないで、素直に謝る若葉さんが好きだ。私のお世話をしてくれていたのに、その為に仕事を休んで嘘までついてくれたのに、謝りの言葉を口にする。そんな若葉さんだから、私は好きになったんだ。


「あの、ごめんなさい。本当に失礼ですけど、お母様はおいくつですか」

「確か五十二だな」

「……そうですか」


完全に、アウトだ。けれど、若葉さんを長く休ませておきながら、挨拶すらしない私はとても印象が悪いだろう。謝りたいとは思うのに、会うのを怖いと思ってしまう。最低限の礼儀すらこなせない私を、若葉さんのご家族は不快に思っているはずだ。


「紫月、本当に悪いと思ってる。けど、どうしようも無かった」

「いえ、それはもう……」

「結婚のことじゃない」

「え?」

「トラウマのこと話してる。ついでに母親は顔見せないようにって変な仮面を買って待ってたりする」


卒倒してしまえたらどんなに楽だろう。真っ白になる私を抱き締めて、若葉さんは諭すように背中をぽんぽん叩いてくれた。


「結婚した相手が色々あって大変だから付き添うって話したら、紫月について聞かれてな。話すかどうか迷って、賭けに出た」

「賭け……?」

「紫月が俺を本気で嫌いになったとはどうしと思えなくて、もしかしたらあんな風に拒絶した理由はトラウマのことが原因なんじゃねぇかって、勝手に思ってた」

「……そうです。だから」

「それなら、先に話しておけば紫月は俺を受け入れてくれるかも知れねぇから」

「……」

「起きたらもう一回話をして、トラウマがあるのは理由になんねぇって言うつもりで居た。事実、俺の母親も気にして無い。仮面ならどうかって買いに行ったくらいだ」


何かの代償がいるんじゃないかと、本気でそう思わされた。一気に運ばれてきた嬉しい話の代わりに、何かが無くなるんじゃないかと。


「若葉さん、これ、私の都合の良い夢ですよね」


そうだと言って。そうで無ければ、


「違う。現実だ」


涙がまた止まらなくなる。


「……嘘だって、言って、」


もう沢山だ。幸せを無くしたくない。何かがなくなってしまうのなら、幸せなんていらないから。


「紫月が簡単に受け入れてくれるとは思ってない」


真面目で固い、若葉さんの声。


「ゆっくりで良いから、俺を見て欲しい。俺は紫月が好きだ。今ここに居る、紫月が好きだ」


素直に信じられない私を、若葉さんは嫌わない。それが更に都合の良い夢だと思う私に拍車を掛けていた。


好きなのに。傍に居たいのに。

手放して頷けない私はきっと誰から見ても面倒臭い。


「明日も明後日も、毎日紫月に言い続けるから。夢だと思えないように、必ず触れて告白する。逃げるなよ?もうあんな思いはしたくねぇ」



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