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悪くない、とただ一言

 目蓋を下ろしてしまえば、楽になれた。聞こえない振りをしていたら、次第に聞こえなくなった。思い込みが現実になる事は、今までも何度かあった。


 ――知ってるの、私は知ってる。

 ――あれは、口にしちゃ駄目だ。


 白い天井をぼんやり見つめていたのは、一体何日間だろう。

 黒い影が何度も何度も私の前に現れた。物ははっきり見えるのに、人は影にしか見えない都合の良い私の目。見たくないの、聞きたくないの、話したくないの。だって、私を責めるでしょう。卑しい子だと、意地汚い子だと、親が居ないから駄目な子供なんだと、貴女はそう言ったから。

 お母さんもお父さんもお兄ちゃんも妹も。私は、大好きだ。両親が留守だから、私は駄目な子だと言われる。だけど、お兄ちゃんも妹も、私から見れば立派に育っていると思う。どうして私だけが言われるの、そう思わなかった訳じゃない。それでも、そんな思いよりも、私は家族が好きだった。


 私だけが、駄目な子なんだ。そんなことない、出来ることを精一杯やっていたよ。家事も勉強も、夢だってあった。駄目な子なんかじゃ、ないよね?


 ――そんな目をして。ああ、嫌だ。これだから……


 打ち砕かれた問い掛けは、あの人じゃなく家族にするべきだったのに。そうしたらきっと、お兄ちゃんも妹も、私を褒めてくれただろうに。拘っていたのは私なのかも知れなかった。あの人に、あのお婆さんに、認めて欲しかったのかも知れない。


 天井の色が変わってからも、私はぼんやりしていただけだ。


 甲斐甲斐しく、黒い影が世話をしてくれている。誰なのかな、と思っても、姿は見えなくなってしまった。それはきっと、私が“見たくない”と思ったからだ。

 トイレに行く事は出来るのに、ご飯を食べる事が出来ない。食べたくないと思ったから。――こんなに、簡単なのに。どうして克服するときはあんなに難しいんだろう。思い込みだという自覚はある。だけど、望むようになる。見たくない、聞きたくない、食べたくない、全てが叶う。なのに。


「――――」


 影が何かを話して、スプーンが私の口元に近付く。声は捉えられないのに、スプーンははっきり見えた。首を振る私の唇に、スプーンがくっつく。ぽとりとシーツに落ちた何かは柔らかくて白いもの。きっと、お粥だ。


 落ちたそれを片付けたら、影は再び私の口元にスプーンを近付ける。


 ――少しだけ、口を開けた。


 落ちたお粥の中に、オレンジ色のニンジンが入っていたからだ。お母さんが作ってくれた、具が沢山入った雑炊。それに似ていたような気がした。

 一口だけ食べて、目を瞑る。溶けてしまいそうなくらい、居心地の良い闇が広がった。


 何も考えたくないよ。ずっと一人で良いから、もう誰にも会わなくて良いから。全部、きれいに忘れさせて。


 どれくらい寝たか分からない。身体を起こして、ベッドからのっそり降りる。

 ――トイレに、行きたい。

 覚束ない足取りでトイレに向かう。その途中、影がすっと立ちはだかる。


「――――」


 何かを話している影に、目を向けてもやっぱり見えない。本格的に私はおかしくなってしまったのかな。トイレから出てきても、影はずっと立ったままだ。私の頭の中では、この影はお兄ちゃんじゃないかと思っている。なのに見えないまま。それが可笑しくて笑ったら、影が私の肩を掴んだ。


「――――」


 なに?聞こえない。なにを言ってるのか分からない。影を振り切ってベッドに戻り、横になって目を閉じた。

 邪魔は、しないで。眠りたいの。うつらうつらとし始めた私の上に、ずしり重みがのし掛かる。

 重たい。苦しい。影が私の上に乗って、するりと頬に手を当てた。


「――――」


 重たい、よ。


「――――」


 どいて、苦しいから。


「――――」


 なにを、言ってるの……?

「―――い」


 急速に頭がクリアになる。パズルのように嵌まって行く言葉のワードが、私の中で文章に変わる。


「わるくない」


 カチ、と嵌まった。


「紫月は悪くない」


 影が消えて、音が戻って、瞳に写し出された姿。見間違えようのない、目に焼き付けた人の姿。私を見下ろす顔は、凛々しく力強く際立つ。


「紫月は悪くない。俺が紫月の前に立つから、どんな時でも盾になるから、」


 ずっと話し掛けていたのは。


「言葉が聞こえなくても良い、目が合わなくたって良い。俺だって分かってなくても良い。ただ――」


 千切れて、散らばった心の欠片が


「誰かが傍に居ることだけは、知っておいてくれないか」


 纏まって、元に戻る。


「近くに居る。俺はずっと傍に居る。紫月が俺を見なくても、俺が紫月をちゃんと見てる」


 震える声は、届けと懇願するみたいに


「好きだよ、ずっと紫月が好きだ」


 私の胸に響いている。




 ずっと世話をしてくれていたのは、ずっと話し掛けていたのは、お兄ちゃんじゃ無かったと知った。どんな気持ちで、どんな想いでその言葉を口にしたのだろう。自分だと認識していなくても、それでも良いと告げるひと。世界中を探しても、そんな寛大で優しい人は、若葉さんしか私は知らない。


「悪くない、紫月はなにも悪くない」


 ずっと言い続けていた。うわ言のように繰り返して。

 ――見たの。私は、見た。

 鞄の中に吸い込まれた、小さな小さな化粧品。

 目が合った瞬間の、凍えてしまいそうな鋭い睨み。


「見た、の」

「ああ」

「鞄の中に、入っていくのを。私は誰にもいってないっ……」

「ああ。紫月は悪くない。何も悪くない」

「言わなかった……!」

「知ってる。紫月がずっと黙ってた事も、一人で抱え込んでた事も」


 万引きをしたあの人を、私は知っている。目が合って、睨まれて、怖くて俯いた。

 次の日、私を見たあの人は蔑むように毒を吐いた。


「――言わなかった、なにも」


 万引きは、犯罪だ。だけど、私は誰にも言わなかった。


「紫月は悪くない。俺はそう思ってる」

「若葉、さん」

「紫月は俺に言った。だから、もう自分を責めるな」


 若葉さんの手のひらが私の視界をやさしく覆った。温もりが直に伝わる。じわりと熱が滲んでいく。


「一人だと、味気ないんだ」

「……はい」

「一緒に、メシ食べないか?」

「――っ」


 どんな言葉を掛けられるよりも、嬉しい誘いが降ってくる。あの日から、最初の日から。もう一度、始めようと。


「おはよう、紫月」


 若葉さん。若葉さん。私は――


「若葉さん」



  赦して、悪くないと言って。

  紫月は悪くない、と誰かに言って貰えたなら。

  私はきっとそれだけで、頑張れていたと思うのだ。


 あの日、私が勇気を出してお婆さんを止めていたなら。

 あの日、私が怯えずに誰かに打ち明けられていたなら。

  辛いと、苦しいと、両親や兄に相談していたならば。

 こんな風に引き摺って、トラウマになるなんてことは無かったのかもしれない。


 誰かに言って欲しかった。私は悪くない、と、ただ一言。



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