距離のあるアパート
――ディナーの始まりはあの時、私が焼いたお節介から。
うーん、と思い切り背伸びをして空気を入れ替える為に窓を開ける。すると、心地の良い風が部屋の中を洗うようにさぁっと勢い良く入って来た。
今日は少しだけ風が強い。だけど、強風って訳じゃない。
爽やかで心地の良い、すっきりとした勢いのある風。
単なる惰性で伸ばし続けていた長い髪が風に撫ぜられふわりと靡く。
燦々(さんさん)と輝く太陽が一日の始まりを示していた。
「三時間かぁ……」
まだ眠たい。動きたくない。
そんな風に思う一瞬もあるけれど、どこか遠い目をしながらも自然と顔が緩むのは。
「よし、やろう」
睡眠にも変え難い、温かな時間があるからだ。
睡眠時間は約三時間。そして、午前六時の慌ただしい起床。
そんな不規則が生活が許されているのは、私の中にある問題と環境のおかげでもあった。
町内会の厳しさと煩わしさに定評のあるこの地域でも、唯一それが免除される区域が存在する。
不動産会社が太鼓判を押してお勧めする程に、近所付き合いの無さが確立されたこのアパートは、私にとって天国だった。
二階建てアパートの建物が四つも並ぶ異様な光景、その実態は電車の騒音による末の仕方なしの建設だとか。アパートの真横に敷かれた線路を走る、規則正しい電車の音。踏切が間近にある事で、家族向けにはどうやっても出来ないと判断されて1LDKのアパートを建てたと言う。
自治体と関わらなくても良く、周辺の近所付き合いも活発では無く。尚且つ、生活リズムが不規則でも周囲の迷惑にならない部屋と条件を提示すると、不動産会社はここを紹介してくれた。
そんな都合の良い部屋がある訳ない、と最初は疑っていたものの。
「……またですか」
入って見れば何のその“私にとって”とても都合が良い物件だったのである。
ごみ出しの為にアパートから出ると、ごみ置き場を囲うブロックに背中を預け眠っている、とても綺麗な隣人の女性がいた。
ああ、まただ。彼女は泥酔してしまって動けなくなったのだ。
悲しいかな、今までの経験から容易に察しがついてしまう。
「巴さん、大丈夫ですか」
一先ずごみを置いて、酒臭い隣人の肩を軽く叩く。
「――ん」
隣人――巴さんは、いつになくあどけない笑みを浮かべ、寝ているのか起きているのか曖昧な動きをしながらカクンと首を項垂れさせた。
「もしかして寝ちゃいました?」
呼び掛けて見ても、反応はなし。ぶらぶらと首が動いてはいるものの意識は完全に眠っていると思われる。
「だから飲み過ぎは良くないって言ったのに……」
深く溜め息を吐き出して、いつも通り巴さんを一度放置してアパートの建物へと戻っていく。
そして、一階にある一番右の部屋のチャイムを押した。
「“……はい”」
「おはよう奏太くん。ごめん、手伝って。巴さんがダウンしてる。」
「“またですかぁ?……しょうがないっすね。分かりました”」
数秒して、訪ねた部屋のドアが開く。中から部屋着で出てきた青年に困ったように微笑みながら、いつも通りのお願いをする。
「部屋までお願い。後はするから」
「うあーい、了解でーす」
手慣れたように巴さんの方へ歩いて行き、青年――奏太くんはちゃっちゃと背中に巴さんをおんぶをしてアパートの階段を登っていった。
「うわー酒臭っ。ホントこの人懲りませんよね」
「……Dカップの感触で我慢してあげて」
「いやぁ、酒の匂いでチャラっすよ。こんだけプロポーション良くて俺が萎えるなんて巴さんだけ、マジで」
美人でプロポーションも良くて、巴さんは華やかな人でもある。派手な化粧の中にも優美さがあり、そこはかとなく漂う色気。どこからどう見ても十人中十人がうっとりしてしまう程に綺麗で艶やかな女性なのに、中身を知る奏太くんは落胆を隠し切れない顔でがっかりだとボヤいていた。
曰く付きのこのアパート。
住民は大抵が人と関わりを持ちたくない、あるいは不規則な生活リズムで過ごしていて、もう何十年も前に自治体から見限られたという――ちょっと不可思議なアパートだった。
**********
両親が二人揃って海外へ行ったのは私が高校生になったばかりの時だ。
兄は当時高校三年生で、妹は中学二年生。兄妹三人をあっさりと残し、両親は国外へ飛び立っていった。
仕事だから仕方がないと今は事情が分かるものの、当時は精神的に結構な修羅場だった。
近所からは白い目で見られ、町内会長にはいらぬお節介と言う名の嫌がらせを受け、すっかり老年の女性が苦手になってしまったのである。
ごみは中まで確認されて、回覧板を回すのが遅いと幾度となく文句を言われた。
学校があるからと言っても、当然納得はしてくれない。仕事で回覧板を回すのが一日遅れた奥さんは「大変ねぇ」と労って貰っていたのに、学校が終わってから回した私には「ご両親が居ないとだらしない子になるのねぇ」と嘲るような笑みを向けた。
一学生の私が歴戦の老女に勝てる筈もなく、見事に対人恐怖症になってしまったものの――条件は限定されていた。
皺が目立つ老年の女性、私の対人恐怖症はそんな容姿を持つ人だけに絞って発生するのである。
そこから徹底的に離れて暮らすには、一定の条件が必要だった。
部屋は出来るだけ狭いこと、最高でも1LDKまで。2LDK以上になると、家族で住んでいる確率がグッと上がる。そうなるとその家族の身内である祖父母などが訪問して来る恐れがあった。
会う事はおろか、老婆を見る事も私には出来ない。部屋にはテレビも雑誌も置いていない。
イラストや小説は平気だが、映像や写真は吐き気を催しアウトだった。
そんな状態で、どうやって生きて行けるのか。
私は世間一般で言う、“引きこもり”に該当している。
基本的に買い物は配達で、食材もネットスーパーだ。家から出るのは月・金のごみ出しの日だけだった。部屋を借りる時だけは不動産屋に行ったものの、道中は兄の運転でずっと顔を伏せていた。
一瞬でも目に入れば、背中が凍って吐き気を催す。嫌な汗が止まらなくなり、暫くはずっと寝たきりになる。
高校一年からずっと嫌がらせに耐えてきて、専門学生三年目になった時、ついに私は我慢が出来なくなった。両腕で自分を抱き締めながら丸まって震えていた私を見た妹が、救急車を呼んだ事で兄が異変に気が付いた。
専門学校を辞めて、ほぼ引きこもりと化した私に新しい部屋を用意してくれたのも他でもない兄である。兄と妹は変わらずあの一軒屋に住んでいるが、私はもう三年もこのアパートで暮らしている。
限定された条件でのみ発病する私の奇特な症状は、周囲に理解を得られるようなものでもなく社会復帰は絶望的だ。
それでも、捨てる神あれば拾う神あり、食い扶持くらいは稼げている。
老婆以外には普通の態度を取れるせいか、アパートの住民は私が対人恐怖症だと都合が良い事に全く気が付いていなかった。それでも何かしらの理由があると思われているような気はするが、それはそれで有難い。老婆が駄目だとカミングアウトする気もないし、誰かに深入りするつもりもない。
二階の一番奥。つまりは私の部屋の右隣の部屋、その部屋のドアの前に奏太くんは巴さんを下ろす。
「じゃー俺、寝るんで。お疲れでーす」
「うん、ありがとう」
ひらひらと手を振り階段を降りていった奏太くんに感謝の言葉を返してから、一旦自分の部屋に戻る。
ここ一年で随分と慣れたせいか、巴さんがどんな状態で居るのかが手に取るように分かっていた。
身体はすっかり冷えていて、二日酔いになる事は間違いない。
ブランケットと温かいスープ、ミネラルウォーターに市販の薬を準備して小分けにしながら運んでいく。
最後にスープをトレイに乗せて、玄関を出るとがちゃりと左隣からもう一人の隣人が現れた。
「……はよ」
「おはようございます」
ちらり、とスープと私を見た後に目を動かして後ろを見る。巴さんを視界に入れて、もう一人の隣人は溜め息を吐いた。
「またか」
「またですね」
こうして介抱するのは一体何十回目になるだろう。巴さんを見て嫌そうな顔をした隣人は、少しだけ間を置いてゆっくり私へと視線を移す。
「いつもいつも付き合ってやる必要はないだろ。その辺に放っとけば良い」
「でも、好きでやってることですから」
「……まぁ、無理はするなよ」
「はい。いってらっしゃい、若葉さん」
「いってくる」
キーケースをゆるく上げ、若葉さん――職業不明の左隣に住む男の人は背中を向けて階段を降りた。
顔色の悪い巴さんを起こす為に、心苦しくはあるもののなるべく揺さぶらないよう気をつけながら肩を叩く。
「巴さん、スープ飲みましょ。落ち着いたら薬飲んで下さい」
「――ん」
だらん、と垂れた片手を握り温もりを巴さんに分けていく。暫くして徐々に意識がハッキリとして来た巴さんは、お礼を言ってマグカップに淹れたスープを飲んだ。
「あー……死ぬかと思った」
「飲み過ぎです。また奏太くんに運んで貰ったんですよ」
「ふぅん、アイツ役得じゃない」
萎えると言っていたとは決して口に出さず、普通に苦笑いを浮かべた。口には出さなくとも、奏太さんとの付き合いが長い巴さんならば、おおよその察しはついていそうであるが。
明け方までお店に出ている巴さんは、頻繁に酔い潰れてアパートの前で倒れていた。奏太くんはそんな巴さんを「何かあったら後味が悪い」と見過ごせずに、私が移り住んで来るまで仕方なしに外で介抱していたらしい。
初めて私が巴さんを見つけた時、奏太さんは呆れ顔で部屋から出て来て救急車を呼ぼうとする私を止めた。
泥酔した巴さんを捨て置けなかった私は度々巴さんを介抱し、奏太くんはすっかり私に任せるようになってしまった。
このアパートの不思議な所は付き合いが長くても関係が浅いと言うことだ。だから、いくら巴さんが眠っていようと他の住民は自分の部屋には決して入れない。
かくいう私も部屋には上げられない。それは私のこだわり云々の話ではなく、単純に巴さんがそこまでされたら嫌がるだろうと思ってのことだった。
巴さんは何故か極端に人に世話をされる事を嫌う。奏太くんは厳しい口調で「それなら泥酔するなよな」と言うけれど、巴さんにも何かしらの事情があると何となくは気付いているらしい。私も奏太くんも他の住民も深くそこまで追及しないからか、肝心な所は知らないのである。人に世話をされたくないのに泥酔してアパートの前で眠る巴さん。放って置いて、とは言わない。
ただ何かを思い出すのか、苦い表情をしてありがとうと言うだけだ。
それに疑問を投げ掛けることは、醸し出す雰囲気で憚られる。
踏み込まないで上辺だけ。このアパートでは例外を除き、そんな付き合いばかりだった。
それに、奏太くんは巴さんを心配していると言うより、本人が言ったように本当に自己満足で介抱していただけらしく、私が捨て置けない性格だと知ったら「お互い大変っすね」と他人事のように言って、私にあっさり巴さんの身を任せた。
それでも運ぶのだけは手伝ってくれるから、巴さんが嫌いと言うことは無さそうだ。奏太くんもまた、不思議な所が沢山ある。けれどもそこに触れる勇気は私にはない。
介抱するのも世話を焼くのも、私としては別に嫌いじゃない。
人と話すことも嫌いでは無いけれど、老婆と接触しない生活と言うのは案外普通に生きていく弊害になる。どこへ住んでも必ず会ってしまうだろう。このアパートには、近くに公園がないと言う美点も存在しているのだ。住民は若い人ばかり。
今までも、住民で見た目年齢四十路を過ぎた人は一人として見なかった。
だからせめて、人と接触出来る機会は大事にしたいと思っている。条件で挙げた“近所付き合い”の主な意味合いは“家族ぐるみのお付き合い”と言う意味だ。それ以外なら拒絶対象には含まれない。
巴さんは疲れた顔で、けれども悲し気にお礼を言って部屋に帰った。マグカップは洗って返しに行くと持ち帰ったけれど、いつものように出勤前に私の部屋のドアノブに掛けて返すだろう。インターフォンを押して直接渡しに来たことはなく、私もそれで良いと思っている。むやみやたらに会わなくたって、隣人との良い関係は築けるものだ。
巴さんはマグカップを返す時、いつも手書きのメモを書く。
綺麗な字でありがとうと書かれたメモは気持ちがちゃんと籠ったもの。
恐らく、巴さんは私の生活の邪魔をしないようにインターフォンを鳴らさない。
ここの住民は大概が、相手に対して異様に遠慮している。
距離を取られる事は通常ならば寂しいと思う事だけれど、距離を取る理由と相手への気遣いが垣間見える住民達を私は嫌だと思わない。
ごみ出しで偶然会った時だけ、互いにほんの少し会話を交わす。話すことが嫌いという訳ではなく、人に踏み込むことが嫌いな人達だ。
そして、私も同類で――だから居心地良く感じる。この付き合いが出来ない人は早々にアパートを出るらしい。残ったのは同類だけ。
だから、ここは私にとって最高の天国だった。