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一話 偶然の出会い

 その日は母さんの煙草にライターで火を点ける事から始まった。

「やはり朝は瑞希の手で点けられたオイルライターの火で高い煙草を吹かすに限るな」

「僕と他の方に違いがあるの?」

「瑞希、未成年の貴様にはまだ解らんだろうが、二十歳を超えたババァの指で点けられた煙草など吸えたものじゃないぞ。お前も将来煙草を吸うなら未成年のオイルライターにしろ。これは親としての命令だ」

「安心して、僕は生涯喫煙をする予定はないから」

 母さんは昔から変な所に拘りのある方で、息子の僕も良く手伝いをさせられる。

 今回で言えば僕の手でオイルライターを点けなければ意味が無いそうだ。

 父さんがライターに火を点けると不機嫌になって貴様は解っていないと語り出すのは我が家では楽しい風物詩である。

 そんな母さんの職業は、今風に口にするとフラワーアーティストだ。

 他にも呼び方はいけばな作家、刺花家、花師などと色々あるけれど、そう呼ぶと母さんに怒られるので家では普通に華道家で通している。

 ちなみに友人に母さんの事を話すと、母さんを知る人は必ず驚く。

 母さんはこういう人だから……なんというのか、秘書とかを想像する人が多いみたい。

「瑞希、あの男は行ったか?」

「父さんの事? うん、朝早くから出掛けたよ」

「ならばいい。家に居たら離婚している所だからな」

「物騒な事を言わないでよ」

「安心しろ。瑞希の親権は私が頂く」

「そういう意味ではないんだけど……」

 父さんの職業は花屋だ。

 なんでも小さな頃から花が好きだそうで我が家でも室内外沢山の花が育てられている。

 父さんは毎朝必ず花卉市場へ仕入れに出掛ける。

 僕はまだ詳しくないのだけど、日によっては夜もいないから本当に好きなのだと思う。

 そんな父さんと母さんの馴れ初めは意外な事に母さんから迫ったそうだ。

「あいつに花屋は向いていない。見ていろ、瑞希。十年後、あいつは花屋ではなく花農家になっている。何、あいつの花は全て私が買う。収入には困らんさ」

「出費と収入が家族内で終了しているよ」

 この様に母さんは父さんの育てた花に惚れたそうだ。

 父さんも華道に精通する母さんとは話が合う様で家族仲は円満……なのかな?

「僕も学校に行ってくるね」

「ああ、私の稼いだ金で通っている進学校で値段に見合う学を奪ってくるんだぞ」

「……その言い方、ちょっと困るんだけど」

 毎日の恒例なので強くは言わないけれど、母さんはいつもこんな感じ。

 僕はイスに立て掛けてあった学生服の上着に裾を通して鞄の中身を最終確認した後、今朝作ったお弁当と冷蔵庫に入れていた練乳コーヒー二つ、自作のサプリメント配合ショートブレッドを包んで鞄に入れる。すると母さんは何をしているのか覗いて来た。

「瑞希。貴様、まだあの砂糖豚に餌を与えているのか? あんなものを餌付けした所で百害あって一利もないぞ」

「母さん、僕の親友を豚呼ばわりはやめてください」

 確かにちょっと糖尿病が心配だけれど、砂糖豚は酷いと思う。

 ただ人より少し甘い物が好きなだけなんだ。

 練乳コーヒーにメープルシロップと蜂蜜を入れて飲むだけなんだ。

 しかもショートブレッドはチョコレート味しか食べない。

 …………。

「砂糖豚が親友とは瑞希も変わった趣味をしているな」

 糖分の関係で否定できないのが悲しい所だった。

 ちなみに彼は別に太ってはいない。

「……行ってくるね。母さん」

「ああ、今日は22時には帰る」

「わかった。母さんの好きな肉料理を作っておくよ」

 これが僕の日常だ。

 一般的な家庭とは違うと良く言われるけれど、父さん母さんとの仲は良好だし、十年来の親友もいる。これまでの人生で本当に困った事は一度も無い。

 そう、これまでは一度も無かった。

 通学路、通い慣れた道をいつもの様に歩いていると異変が起こった。


 ――世界から音が消えた。


 正確には音は消えていない。

 葉と葉が風で揺れる木々の音など、誰だって聞き慣れた音はする。

 しかし命の息吹というか、そういった物が突然パッタリと消えた。

「……え?」

 振り返ると歩いていた道が変わっていて、視線を戻すと今度は前方も変わっていた。

 僕が住んでいる街は父さん母さんの仕事の関係もあって、市街地以外は自然が豊富だ。しかし現在僕の瞳に映っている光景は自然が豊富という次元ではなく、自然その物だった。

 文字で例えるなら森。

 地形で例えるなら山。

 状況で例えるのは……僕の人生観では難しいかな。

 ともかく小学校の頃に学校行事で行った自然教室の山よりも凄い大自然が広がっていた。

 湿り気を帯びた草木の香りがする空気。

 舗装された道は無く、草木も人の手が加えられていない。

 伸びっぱなしの雑草と統率の取れていない木々。

 少なくとも僕が見た事ある山々はもっと整備されていたと思う。

 考えても見れば僕の知っている草花は皆誰かの手が加えられていたんだな。

「ここ、どこだろう?」

 不思議な事もあったものだ。

 僕が寝惚けているのでなければ学校に向かっていたはず。

 進学校ではあるのだけれど、徒歩で一時間圏内にあるからいつも徒歩だ。

 証拠に現在僕は学校指定の制服を着ている。

 鞄の中身も先程確認した今日の授業通りなので夢ではないと思う。

 でも、もしかしたら夢なのかもしれない。

 夢って飛び飛びで突拍子が無かったりするから状況的には一致するし。

 うん、これは夢だ。そうに違いない。

 なら夢の中の僕は何をするべきだろうか。

 やはり見知らぬ山で遭難した夢の僕は生還するのが目的だったりするのかな?

 そう考えると、山を降りないといけない様な気がしてきた。

 幸い斜面があるので、ゆっくり下っていけばいつかは山から出られる。

 その為に下へ下へと気を付けながら歩き始めた訳だけど。

 辺りの土は湿っていて僕が使っている靴の底にべったりと付着する。

 毎日使っている一般的な運動靴なのでそれもしょうがないのかもしれない。

 母さんや父さんが持っている登山用の靴ならがっしりとしているし土や泥が付いても平気で歩いていけると思うのだけど、今度詳しく聞いてみようと思った。

 二人は植物やそれ等に精通する知識が豊富なのできっと優しく教えてくれる。

 ふと気が付いて左ポケットに手を伸ばす。

 確認に携帯電話の画面を眺めるもアンテナは立っていない。

 夢の中でも山では携帯電話が使えないんだなぁ。

 山だからか肌寒い……。

 木々から零れる陽光は暖かいのだけれど、山特有の気温や湿度が僕の身体を冷やす。

 学生服は私服に比べて生地が厚いので暖かいはずなのだけど、それでも寒い。

 少し不思議に思った。

 そんな思考も山を下り続けている間に薄くなっていく。

 最初こそ肌寒かったけれど身体を動かしているおかげか、しだいにぽかぽかと温かくなってきて少しずつ薄れていった。

 というのもこの山は大きな山らしく、長い時間を掛けても一向に麓が見えてこない。

 きっと寒かったのは標高が高かったからかな。

 本来なら呼吸器系が危ないのだけれど、そこは夢だから補正してくれたに違いない。

 山を下って数時間した頃、お腹が空いてきた。

 手頃な座れる場所を見つけてからお弁当を開く。

 中身は自分なりに味と栄養に気を使った献立だ。

 親友に比べると僕は小食……というか親友が人より多く食べるだけなので僕は平均的な量の弁当箱の中身を箸で食し始めた。

「うん……おいしい」

 夢の中だけど自然に囲まれた場所で食べるご飯は美味しい。

 喉を潤す水分が練乳コーヒーだという事を除けば、今日も幸せな気分になれた。

 糖尿病にならないといいな~……。

 僕は現実世界で笑顔を振り撒いていた親友を心配しながらお弁当を完食した。

「それにしても……」

 静かな場所だなぁ。

 大分山を降りて木々も増え、暖かくなってきたというのに木々の囁きしか聞こえない。

 季節や標高なども関係するとは思うのだけど、夢の世界は比較的に穏やかだ。

 それなのに虫や鳥の鳴き声が聞こえてこない。

 ――まるで死んでいるみたいだ……。

 今のは山の神様に失礼だ。訂正しなくちゃ。

 僕は手を合わせて食べ物の神様と場所を提供してくれた山の神様に謝罪と感謝をした。

 そうして昼食を終えた僕はまた山を下り始めた。

 山を下るのを再開して十分程だろうか、水の流れる音が聞こえてきた。

 音のする方に耳を傾けて、進むと見えてきたのは川。

 濁り一つ無い綺麗な水で、飲めてしまいそうだ。もちろん真水かもしれないから無闇に飲んだりはしないけれど、手を伸ばすと冷たい感触がして気持ち良い。

「よかった……」

 川は下に向けて進んでいる。だから、川に沿って下ればいつかは人の居る場所に着く。

 ……魚や虫がいないのは気の所為かな?

 こんなに水が澄んでいるのだから魚の一匹くらい見えても良いのに。

 岩の陰に隠れているのだろうか。虫も標高が高いと少ないから、まだ高いのかも。

 それから川を下る事一時間程して斜面が平地になり始めた。

 生い茂る木々を抜けて広がったのは高い高い青空。

 12月の良く晴れ渡った空よりも高く、澄んだ、遠い空。

 空気は透き通った、人工的な不純物の混ざらない、とてもおいしい味。

 やがて田舎ながらにも舗装された砂利道が現れたので安堵の息を吐いて道を進む。

 そして見えて来たのは廃村だった。

 馴染みの無い家屋。

 歴史の教科書にも載っていない。少なくとも日本の古い建築物ではない。

 なんと例えれば良いのだろう。

 ログハウスを何段階もランクダウンさせた様な、そんな家々が転々と立ち並んでいた。

 現代日本でも価値がありそうな木造建築の住居。人が住んでいないと思ったのは雑草が生い茂っていて人の手が加えられていなかった為だ。

 だけど木造建築にしては随分と真新しく、建ててからそんなに年月が経過していない。

 僕は大工ではないので詳しくは解らないけれど、現代の日本でこんなに壊れ易そうな家屋を建てるのは建築法に違反するのではないだろうか。

 もちろん僕が知らないだけでこういった家屋を建てている可能性はある。そもそもこれは僕の夢なのだから、僕の記憶にある映像を脳内補完しているだけかもしれない。

「誰かいませんかー?」

 大きな声で尋ねて見る。

 予想通り声が返ってこないので、しばらくは歩かなければいけない。

 それから雑草が色濃い道を歩いていると田畑が目に入る。

 畑には作物が生えているのだけど長らく放置されていたのか、枯れている野菜、熟し過ぎている野菜、黒い腐食が全体まで浸透している野菜など、畑はとても荒れていた。

 収穫前に放置されたのだろうか。

 田畑にも雑草が侵食しているので一日二日という事はないと思う。

 一月か、二月か。

 少なくとも一週間程度ではこんな惨状にはならないんじゃないかな。

 母さんが見たら怒るんだろうな~……。

 普段はだらしない人だけれど植物に関しては誰よりも真摯だから。

 僕も父さんも、母さんのそういう部分を尊敬しているんだ。

 もちろん何かしらの事情はあるんだと思う。

 だけど、数ヶ月で突然住んでいた人がいなくなるなんて事はあるんだろうか。

 思い当たるというとダム建設とかかな?

 今直ぐって事は無いと思うけれど廃村になった理由がダム建設だと、誰か人を見つけてここがどこか尋ねないといけないな。

 そうして歩いていると妙に孤独感が胸の底から湧き出てきた。

 ――聞き慣れた音。

 自動車やバイク。鳥や虫の鳴き声。

 そういった音がまるでしないのだ。

 僕の足音と風が通り過ぎる音がするだけで……とても静かな、冷たい場所だ。

 人生経験の少ない僕がこう口にするのは傲慢なのかもしれないけれど。

「ここは()い……かもしれない」

 言葉を途中で濁す。

 何も知らないのに無闇に何かを悪く言うのは酷い事だ。

 だけど、少なくとも今の僕はこの場所が好きにはなれない。

 ……行こう。誰かを探しに。

 こういう時、僕は寂しがり屋なのだと思う。

 怖いと思ったら、本当にその相手は怖いのか、考えてしまう。

 親友は心霊番組や怪談が好き……というか、夏になると必ず見ているのだけど昔の僕はそれが怖くて怖くて仕方がなかったんだ。

 そんな風に怖がる僕に母さんと父さんがこう教えてくれた。

「瑞希くん、幽霊は元々が人なのだから怖いんじゃないよ。怖い部分も持っているんだ」

 父さんはそう言って。

「瑞希。幽霊など存在しない。存在すれば人間だけでなく毎年億単位で死んでいる虫獣がそこ等中を彷徨っている事になる。仮に人間だけだとするならばこの世界は実に人間に都合が良い世界という事にならないか? ほら、こう考えれば怖くないだろう」

 母さんはそう言った。

 どちらの話も二人の性格を現す良い思い出なのだけど、僕は嬉しかった。

 だから人は怖い部分を持っているかもしれないけれど、優しい部分も沢山持っていると僕は思っている。

 きっとこの場所も良い部分が沢山あるはずなんだ。

 そうこう考えていると田畑が少しずつ家屋に変わってきた。

 随分と広い村なんだなぁ。

 狭い日本でも人が密集するのは限られた地域だと言うし、きっと凄い田舎なのだろう。

「おや?」

 相変わらず家屋が立ち並ぶ中、一軒だけ他と比べると比較的に整備された家を見つけた。

 その家は屋根が赤い染料が塗られていて、少し風化しているけれど優しそうな家だ。

 辺りは背の低い雑草こそあれ、茫々に生えた物と比べると雲泥の差があり、人の香りを感じる。更に家の中から食べ物を調理する香辛料の良い香りがするので確実に誰かが住んでいる。

「あのーすみませーん! 誰かいませんかー?」

 大きな声で尋ねると家の中で金属を落とした音が響く。

 驚かせてしまったかな……。

 きっと料理中にビックリして調理器具を落としてしまったのだろう。

 包丁などで怪我をしていないと良いけれど。

「チッミチミァメ!?」

 女の子の透き通る声だ。

 騒々しい足音を立てながら家屋から姿を現したのは外国人だった。

 ログハウスの様な家なので開き戸かと思ったが引き戸だった。

 民族衣装? とでも呼べば良いのだろうか。

 女の子はフードの付いた合羽の様な全身を覆う銀色に近いコートを着ていて、フードから銀色に輝く綺麗な髪を靡かせていた。

 その表情はとても慌てている。

 良く外国の人の表情は読み辛いというけれど、幼い顔付きの女の子は僕が今まで抱いていた外国人のイメージとは違っていた。

 儚いというか、遠い存在の様な、そんな雰囲気を身に纏った女の子。

 やがて女の子は僕の頭の上から足の先までゆっくりと見下ろしていく。

 そして女の子は黄金色の瞳に僕を入れたまま口元を両手で押さえる。

 瞳には大粒の雫……涙を貯めている。

「ご、ごめんなさい!」

 つい謝罪の言葉を洩らしていた。

 女の子が突然涙を流すなんて普通じゃない。きっと僕が何か悪い事を……もしかしたら大きな声を出したから何かあったのかもしれない。

 許してもらえるかはわからないけれど、僕に非があるなら謝らないと。

「ホメラヤミヒモユセ? ロメソノゲンビウ?」

「えっと~……すみません。あなたの言葉がわかりません……て、日本語で言ってもダメかぁ……どうしよう……」

 言語からして英語ではないと思う。だからといってどこの国かも解らないし、解っても僕は生まれてから日本から出た事がない。

 しかも日本語しか解らないから彼女と言葉では意思疎通できそうにない。

 ど、どうすれば良いんだろう。

「ロメデノクチ。マハミザホホキチテムメヨミァケゾ……」

 銀髪の女の子は涙で破顔させながら僕に向かって一歩、二歩と近付いてくる。

 その反応は嬉しい物に出会った様な、例えが悪いとは思うけれど、死に別れした大切な人にまた巡り合えた様な……僕の人生では見た事が無い表情だ。

 うろたえている僕を女の子は優しく抱き締めて何度も何度も同じ言葉を言い続けた。

「フカメテニテムメテマヲザソフ……チニテチテムメテマヲザソフ……」

 この言葉が僕に対して何か感謝する様な想いが籠められているという事だけは、どうにか理解する事ができる。

「あ……」

 抱き締められて女の子の髪が顔を掠めて気が付いた。

 女の子の髪は銀髪では無く、光を吸い込んだ透明な髪だった。

 髪が透けて景色を映し出していたので気付いた。

 意識を始めた僕の心臓が通常よりも強く鼓動する。

 自分でも初心だとは思うのだけれど、僕は女性経験に疎い。体温も高くなる。

 だけど、伝わってくる女の子の温かみや鼓動が妙に生々しい。

「もしかして……夢じゃない……?」

 鼓動する心臓が、ここが現実だと嘲笑うかの様に強い痛みを発し続けている。

 考えても見れば朝から今まで時間や場所が飛んだ事は一度もないし、お弁当の味まで僕が毎日作っている物と変わらなかった。練乳コーヒーに至っては甘過ぎて刺激物にも近い。

 直前まで運動と恥ずかしさで高くなっていた体温がみるみる下がっていく。

 もしも夢じゃなかったら、ここはどこなのだろう。

 夢という項目を取り除くと、多分日本ではないはず。

 ここで僕の思考は止まってしまった。

 日本……じゃないと思う。じゃあ日本じゃないとここはどこなんだ。

 こんな風に思考が停止してしまう。

 そこからどうなってしまえば、僕はこうなるのだろう?

 母さん程知恵が回れば、もしかしたら解るのかもしれないけれど、僕には無理だ。

 頭がこんがらがって現状を把握する事さえできない。

「マハミラハンソチフハカレハモ?」

 女の子は疑問系で異国の言葉を話しているが僕には何を言っているのかわからない。唯その表情はニコニコしていて、とても嬉しそうだ。どうしてだか僕も彼女に釣られて笑みが零れる。直前までの冷たい気分が消えて、心が温かくなってきた。

 ……きっとこの子が、本当に素敵な笑顔だから。

「ごめんなさい。言葉がわからなくて」

「ホソラァザヤサハチモ?」

「どう伝えれば良いのだろう……非言語コミュニケーションとか聞いた事があるけれど、身振り手振りすれば良いのかな?」

 父さんは花屋だけあって様々な国の花について詳しい。

 その知識は若い頃外国をたくさん渡り歩いたのが理由だと教えてくれた。もちろん会話が通じない国もいっぱいあって困ったらしいのだけど、非言語コミュニケーションで結構なんとかなると話していたので、きっとこんな時に使ったんだろうなぁ。

 正直、今程僕は父さんを尊敬した事は無い。

 言葉の通じない人と話をするのがこんなにも大変だなんて思いもしなかったからだ。

「ヤミヒラシェレイリア、マハミラ?」

「や、やみひらしぇ?」

 女の子は抱擁を解くと僕に何かを訴えている。表情が柔らかいので攻められているわけではないと思うけれど、なんと答えれば良いのだろうか。

「ホロラァザヤサナチモ?」

「え、え~っと」

 女の子は表情を真面目なものに変えて尋ねてくる。僕の態度が悪いのかもしれないけれど言葉が通じていない事が伝わってくれるのなら嬉しい。

 そうして一度女の子は目蓋を閉じ、深く考え――パチッと瞳を開き、自分の身体に向かって両手向ける。

「シェレイリア」

「シェレイリア? それが君の名前なの?」

 僕がシェレイリアと呼ぶと女の子はぱあぁぁっと太陽の様な笑顔になった。

「ロフ! ヤミヒラシェレイリア。マハミラ?」

 そして嬉しそうに自身をシェレイリアと呼び今度は両手を僕に向けた

 マハミラ……は多分、僕の事を指す、例えば『あなた』に該当する言葉なのではないだろうか? だとすれば次は僕が名前を伝える番だ。

「瑞希。シェレイリア、僕は鍵矢瑞希って名前なんだ」

「ミズキ?」

「うん、僕はミ・ズ・キ」

「ロフ、マハミラ、ミズキ、ソチフモヘ」

「そうだよ。僕は瑞希。君はシェレイリア、だよね?」

「ロフ、ヤミヒラ、シェレイリア、マハミラ、ミズキ」

 僕とシェレイリアはしばらくの間、相手の名前を呼び合った。

 なんでだろう。タダ相手の名前が解っただけなのに凄く嬉しい。

 父さんが海外で花の勉強に飛び回っていた頃の思い出話を、楽しそうに教えてくれたのが分かった気がした。

「ミズキ、リョフゾノイヨボナンハモ、ミズキ、オミネェテ」

 やがてシェレイリアは僕の手を引いて家の中に招待してくれた。

 家主が招いてくれているとはいえ、見ず知らずの方の家に入るのは躊躇ったけれどシェレイリアがとても喜んでいるので、断る事もできず入ってしまった。

 家の中は綺麗に掃除されている。

 だけど僕が一般的に想像する家屋と比べると随分と変わった間取りだ。

 まず、木の香りがする。ヒノキ……だろうか。温泉街などで嗅ぐ事のできる、木の匂いのするお風呂と似た香りがして、安らぎを感じる。

 これは母さんと父さんが家に草花を育てているから出た事なのかもしれない。

 次に現代の住居にしては、やはり少々古びた造りに思える。

 ちょっとした事で崩れてしまいそうな、危うい家、というのが率直な感想だ。

「ミズキ、ホメラヤミヒモソウゥムヲ、ミネェテムメヨ?」

 直前まで泣いていた影響かシェレイリアの瞳は涙腺が腫れて少し赤くなっているけれど僕に向かって微笑みながら室内のテーブルに料理を並べてくれた。

 テーブルは使い古された木製で長年の威厳を感じ、料理が盛られた皿は銀色の……ステンレスではない、馴染みの薄い金属が使われている。

 料理は小麦粉を練って焼いたパン……というよりはピザの生地やインド料理のナンに似ている主食に、お湯で柔らかくした干し肉、野菜、香辛料の利いたタレなどを付けて食べる料理みたいだ。

 この料理形態は中東アジア辺りの文化に似ている。

 しかしシェレイリアが着ている衣服は暖かそうな白い高価なコート。

 ブランドなどを詳しくないので良くわからないのだけど、僕が普段から使っている衣服に比べ、作りが頑丈で綺麗な装飾を施された、とても高そうな衣類に見える。中東アジアの人に話したら怒られそうだけど、どうしてもアジア圏の衣類には見えない。

 もちろんシェレイリアが別の国出身で、今はここに住んでいるという考えもあるのだけれど、ここで僕の思考は先程と同じく止まってしまう。

 何故なら僕は日本に住んでいて、日本のありふれた街を歩いていて、気が付いたらあの山にいたからだ。

 この強い意識から、もう夢だとは思えない。だから僕がどうしてここにいるのか、そしてシェレイリアとその周りに疑問を抱いてしまう。

 日本じゃない気候、古い家、見慣れない金属の皿、アジア圏に似た料理、衣類。

 どうしても僕には、これ等がちぐはぐに思えてならない。

 考えても見ればシェレイリア自身の容姿も不思議だ。

 アメリカやイギリス、ロシアやドイツのどれかと聞かれると困ってしまうけど、顔の造形は日本人が想像する外国人、ヨーロッパの方の匂いを感じる。

 ここまでは良い。だけど、次の二つはどうだろう。

 シェレイリアから垂れる、光を吸い込んで輝く髪……透明色。

 かつらなどで透明な、ポリエステル繊維を使っているとも考えるのだけど、どう見ても人間の頭皮から繋がった艶のある健康的な毛髪をしている。

 そして黄金色の瞳。

 アンバー、琥珀色は実際に存在すると聞いた事がある。けれど黄色や小豆色の混じった虹彩ではなく、良質で純度の高い金を固めた様な、綺麗で深く吸い込まれる様な瞳。

「ゾフヒミモ? ヤミヒモキハキウチテチヨ?」

 まじまじと見ていた僕を不思議がったのかシェレイリアは何かを尋ねてきた。

 言葉は解らないけれど、料理に関してだろうか。

「う、うん。食べてみるよ」

 もう既にお昼ご飯は済ませているけれど、家に招かれて、ご飯まで出されてしまったから断りづらい。僕にはお腹がいっぱいだからいいです、とは言えなかった。

 なにより、その意思を伝える方法がわからない。

 ナンに似た物に干し肉、野菜、タレを適量に載せるシェレイリアを見て同じ様に載せて齧った。

「おいしい……」

 自家製なのか小麦の良い香りとタレの刺激的な旨みが舌の中で弾む。

 野菜はシャキシャキとしていて、食べた事の無い味がするけど濃厚で瑞々しい。

 きっと無農薬なのだろう。

 干し肉は見た目よりもずっと柔らかく、歯切れの良い、ジューシーな味わいが広がった。干した肉でこれだけの味が出るなんて素直に凄いという感想しか出てこない。

 料理にはちょっと自信があるのだけど、僕が作ったお弁当よりも遥かに美味しい。

「うん、おいしい。シェレイリア、凄く美味しいよ」

 僕は料理をもう一度齧って自然に溢れた笑みで伝える。

 それはシェレイリアに伝わった様で嬉しそうに微笑んでくれた。

「オイシイ? イィヒョム?」

「いぃひょむ? おいしいって意味かな?」

 イィヒョムと口にするとシェレイリアは嬉しそうに微笑む。

 きっと料理を褒める意味がある言葉だ。

「うん。イィヒョム」

「ミズキ、マヲザソフ……」

 柔らかな、本当に綺麗な、涙を少し溜めた笑顔でシェレイリアは言った。

 マヲザソフ、先程僕を抱きしめていた時に呟き続けていた言葉。

 意味は解らないけれど、なんだか胸が温かくなる様な……そんな気がした。

 結局、お弁当を食べてお腹いっぱいだったのに僕はシェレイリアの料理を完食していた。

 素直においしかった。ちょっと食べ過ぎてお腹が苦しいけれど。

 そうして食べ終わったお皿を片付けてきたシェレイリアに尋ねてみる。

「えっとここはどの国かな?」

 鞄に入っていた社会科の教科書の一つ、世界地図を広げて、平面に描かれた世界を見せてみる。丁度今日の授業に社会科があって良かった。

 さすがに住んでいる所がわからないという事はないだろう。

 シェレイリアは疑問符を浮かべながら僕の広げた世界地図を眺める。

 周囲の環境からヨーロッパの方だと思うので指で示してみた。

「タミホハソハチリケチミァケゾホメラ?」

 どうやら伝わっていないみたいだ。

 使っている言語が英語なら英語の教科書で少しは解るのだけど、どうやらシェレイリアは英語が解らないみたいで英語の教科書にも世界地図と同じ反応をしている。

 やはりアジア圏なのだろうか。

 アジアだとアラビア語やヒンドゥスターニー語、ペルシア語などがあると父さんが話していた覚えがある。違うとは思うけど中国語、ロシア語もアジアに属するんだったかな。

 もちろん僕にそれ等の言語を解せるはずもないので答えは出せない。

「ルボチニィビュウヘ、ミズキ、マハミラゾホサナニミモ?」

 教科書を興味津々に眺めていたシェレイリアが僕の名前を呼んで尋ねているけれど、シェレイリアの方も僕と同じく言葉が通じない事に困っているのか難しい顔になる。

 そして教科書を壊れ物の様に閉じたシェレイリアは僕を上から下までマジマジと見つめる。まるで先程僕がシェレイリアに向けた視線と同じで、シェレイリアはこんな気持ちだったのかと、我ながらちょっと失礼だったと反省する。

 自分の姿を眺めて思う。

 シェレイリアから見れば日本の学生服は奇異に見えるかもしれない。逆に僕から見たらシェレイリアの衣服は民族衣装に見えるのだからお互い様だけど。

 それでもシェレイリアは僕と目が合うと微笑んでくれた。

 シェレイリアが笑うと、どうしてだが僕も自然と笑みが零れる。

 理由はわからないけれど、シェレイリアは良い人だと思う。

「ロンハホソゾフデオチチヤクヘ!」

 僕の両手を自身の両手で重ねて喜んでいるシェレイリア。

 この人はどうして、こんなにも嬉しそうなんだろう?

 その事がとても気になった。

 だけど僕には帰らなければいけない場所がある。

 親切にしてもらったのはありがたいけれど、お礼を伝えて帰り道を探さないと。

「えっと……色々とありがとうございます。お料理美味しかったです」

 感謝の言葉を口にしてお辞儀した。

 言葉は通じないけれど、気持ちは伝わる様に想いを態度に籠めた。

 シェレイリアも言葉は解らないみたいだけど、笑顔なので伝わったと信じたい。

「では、僕はもう行きます。本当にありがとうございました」

 そうして家を出ようとすると、シェレイリアが僕にしがみついた。

「ゾホキチムモ、ミズキ? ロソキナハキオハチモク」

「えっと~……」

 困った。シェレイリアはとても悲しそうに僕を見上げている。

 どうやら何かを訴えている様だがさっぱり解らない。

 父さんもやったんだ。ともかく僕も身振り手振りで目的を伝えよう。

「僕は帰らないと行けないんです。だから道を探さないと」

 荷物を持って僕は出口を指差し、歩く動作を演じる。

「アザヒキチホフ? ヤサッミチッヒョキチム!」

 僕の非言語コミュニケーションが通じたのか、シェレイリアは強く頷いた。

 そして短く待っていてと、言葉が解らなくてもわかる動作で家の中に急いで戻っていくシェレイリア。見てみると荷造りをしている。

 もしかして一緒に行く事になっている?

 人がいる場所まで送ってくれる、という事なのかもしれない。

 もしかしたら別の意味かもしれないけれど、地理に詳しい人がいるのだから少なくとも道には困らないだろう。

 それに、今回と同じ様に別の誰かに出会えたとしても、きっとシェレイリアと同じく言葉が解らない。シェレイリアは親切に接してくれたけれど、次の相手が同じとは限らない。シェレイリアが一緒に入れば危険な目に合う事は少ないはず。

 案内してくれるならそれに越したことはないはずだよね。

 シェレイリアは衣類と同じく、造りが頑丈な背負い袋に沢山色々な物を詰め込んでいる。

 代えの衣類や薄めの掛け布団に始まり、干し肉や芋みたいな日持ちしそうな食料。

 小さな調理器具、食器数点、紙の束。

 紙はパリパリと乾燥していて……羊皮紙という物だろうか。

 僕が使っているノートに使われている紙に比べ、質はお世辞にも褒められない出来の紙で、表面に火で炙った様な幾何学模様に描かれた、一枚一枚手作りの紙の束だ。

 炙った跡も色が一枚ずつ違っていて、赤、青、黄色、緑と豊富だ。

 何か大事な物なのだろうか。あるいは宗教的な物かもしれない。

 シェレイリアが着ている衣服はあまり見た事が無い衣類なので、そう思わせた。

「ミズキ、カミエミヤヘ」

 準備が出来たシェレイリアはパンパンに膨らんだ袋を背負って元気良く言った。

 きっと『行こう』とか『待たせたね』などの言葉を使ったのだと思う。

「うん。行こう」

 僕も非言語コミュニケーションで道を指差して頷く。

 シェレイリアもその動作に頷いて歩き出す。

 途中、荷物を持つか動作で尋ねてみたけれど『軽いから大丈夫』とでも訴える様に袋を上下させたシェレイリアを見てビックリした。

 シェレイリアは僕よりも遥かに体力があるんだと感心する。

 僕も運動をして体力を付けた方が良いのだろうか。

 というのも、その日は夕方になっても人が住んでいる場所に辿り着けなかった。

 僕の足は筋肉痛で大きく腫れたというのにシェレイリアはずっと元気だったから、男としてのプライドを刺激されたというか……違う、きっとシェレイリアを見ていて。

 僕もがんばろう。

 気が付けば、そんな気分になっていた。

 陽が傾いて、紅色の綺麗な夕陽が辺りを照らした道の隅で、シェレイリアは背負っていた袋を広げて何かの準備を始めた。

「僕にも何か手伝える事はないかな?」

「ミズキ、マヲザソフ、ロフヘ……」

 僕の言葉は動作で伝わった様でシェレイリアは笑顔で一度頷き、少し離れた木の辺りを見渡しながら落ちていた小枝を何個か拾い上げて僕に見せた。

 その小枝をまとめて地面に置くのを見て、僕は頷いた。

「わかった、焚き火をするんだね。僕は枝を集めてくるよ」

「マヲザソフ」

 道から少し外れれば木々は沢山生い茂っている。その下の辺りを探せば枝は沢山ある。

 あまり湿気ている枝は燃えづらいから乾燥している物を探す。

 キャンプは母さん父さんの関係で経験がある。

 二人は山が好きだから、僕が小さい頃からいっぱい連れて行ってもらった。

 野宿の経験は無いけれど、キャンプの経験は沢山ある。

 母さんは不器用だったから僕の元気が無い時はいつも連れて行ってくれた。

 だから、僕はこういう場所で眠るのが大好きだ。

 ちょっと虫が寄ってきて気持ち悪いのだけど、キャンプ特有の興奮でそういう悪い部分は吹き飛んでしまう。

 そういえば今日は母さんに肉料理を作って待っていると約束したんだった。

 この調子だと今日中に帰るのは難しいかな……。

 母さん、約束を破ってごめんなさい。後で必ず埋め合わせはするので許してください。

 僕はここにいない母さんに謝罪を念じながら乾燥した枝を探した。

「こんな所かな」

 一通り使える枝を集め終わった頃には、辺りは陽が沈む少し前、空が薄紫色に染まって黄昏時になっていた。

 準備をしているシェレイリアの元へ戻ってくるとなにやら変わった事をしている。

 小さな石で円を作って、円の中心に赤い色の札を真ん中に沿って三枚貼っていた。そして緑色の札を円の縁に一枚貼り、手元には小さな鍋が置かれている。鍋の底には同じく青い札が張ってある。

 赤と緑は宗教的理由でわかるけれど、青い札の方はなんだろう?

 やがて僕に気付いたシェレイリアは枝を受け取ると円の上に乗せる。

「あ、ライターを家に置いていくのを忘れたんだけど使――」

 う? と口にしようとした所で僕は信じられない物を目撃した。

 赤い札が大きく燃え上がって枝にあっという間に火が移ったのだ。

 ライターなんかとは比べ物にならない、強い火。

 そして良く見れば緑色の札が焚き火に空気を送り込んでいる。

 火は酸素を吸って大きくなるけれど、まるで火に風を吸わせている様に作られている。

 僕は驚愕して、言葉の一つも出ない。

 もしかしたら札に油でも吸わせていたのだろうか? 違うと思う。少なくとも沢山あった札は全て乾燥していて、あんなに強い火を出す様には見えなかった。

 何より油では風の説明ができない。

 そういえば青い札を鍋の底に貼っていた。鍋に視線を移すと鍋が綺麗な水で満たされていて、信じられない事に札から水が溢れ出ている。

「あの……それは一体、なんですか……?」

 思わず僕は言葉が通じない事も忘れて尋ねていた。

 少なくとも僕は紙から火や風、水が生まれるなんて技術を知らない。

 もちろん僕が知らないだけでそういった技術が存在するのかもしれない。だけど、やはり固定概念や自分の常識を優先してしまい、目の前に見える物体が信じられない。

 例えるなら魔法だ。

 そう、魔法。

 自分で考えた言葉だが『魔法』現在の状況に凄く馴染む。

 まるで童話に出てくる魔法が目の前で展開されている様な……。

 さながらシェレイリアは魔法使いの少女だろうか。

 そう考えるとシェレイリアが着けている銀糸のコートも童話に出てくる魔法使いが着けているローブに似ている。僕が読んだ童話の魔法使いは魔女で黒い衣装だったけど、色を変えただけでシェレイリアに「私は魔法使いだよ」と言われれば信じてしまう。

「セルゥナヒチ? オサヒミァッミハサンレハメハチヤクヘ」

 目を皿の様に丸くして札を凝視していた僕に、シェレイリアは親しげに話す。

 良くはわからないけれど、シェレイリアにとって当たり前の事なんだろう。

 思えば僕の当たり前とシェレイリアの当たり前には大きな齟齬がある。

 もちろんそれは住んでいる場所や言語もそうだけど、根本的に何かが違う気がするんだ。

 唯、それを確かめる術が僕には無い。

 喉から出掛かった言葉を飲み込んで、僕はシェレイリアの手伝いを再会した。

 夕食は昼食の残りのナンと具、お湯に粉末を溶かしたコンソメスープの様な物。

 どちらも元が良いのもあるけれど、自然の中で食べる事もあって凄くおいしい。

 ご飯が出来上がった頃には陽は完全に沈んで辺りは真っ暗になっていた。

 電灯などの光源が無いので本当の意味での暗闇。

 灯りは暖かい焚き火と空一面の星空。

 一番星を見つけて喜ぶなんて年甲斐もない事をした。

 だけど、ここが僕の親しんだ街ではないのは結果的に明かされてしまった。

 とても空気が透き通った雲一つ無い日に、田舎の山で見られる夜空の光点。暗いのは怖いけれど、こんなにも綺麗な星空が見られるなら電灯が無いのも良いかもしれない。

 ……それにしても静かだ。

 焚き火が鳴らす枝の崩れる音が聞こえるだけで、後は耳を掠める風の音しかしない。

「ゾフヒミモ?」

 僕が空に見惚れていたからか、シェレイリアが何かを尋ねている。

 スープはまだ湯気を吐き出していて空気中で凍らせ、風に流されていく。

 疑問系という事は、料理についてかな?

「イィヒョム、かな」

「マヲザソフ」

 そうか、シェレイリアが今口にした言葉は『ありがとう』という意味なのか。

 星空に感謝しよう。

 この国ならマヲザソフ、と伝えれば良いのかな。

「ニョフナ、ミムアンマヨチミサラ、オフヘカヒョフ」

 食事を終えると袋から暖かそうな大きい毛布を取り出したシェレイリア。

 寒いから羽織ろう? それとも寝ようと言っているのかな?

「あ……」

 隣に座ったシェレイリアは毛布を僕と一緒に首だけを残して羽織った。

 とても高価な物なのか、毛布は凄く暖かい。

 けれど、それ以上に僕は照れで体温が上がっていく。

 辺りがとても静かなのも理由だけど、シェレイリアの鼓動、息をする音まで聞こえる位近くに感じる。

 逆に僕の高鳴る心臓の音はシェレイリアに届いているだろう。

 そう……音が……。

 息を短く吸い込む、水気を帯びた呼吸が聞こえる。

 シェレイリアの方に視線を向ける。

 見ればシェレイリアは小さくすすり泣いていた。

「どうしたの?」

 変な事を考えているのが見透かされて、傷付けてしまったのだろうか。

 もしも僕が原因なら謝りたい。

 しかしシェレイリアは以前見せた儚い……大粒の涙を含んだ笑みを向けてきた。

 涙の訳を教えてもらって、慰めの言葉をかけてあげたい。

 シェレイリアとはほんの数時間の関係しかない。けれど、確かにそう思った。

 だけど僕とシェレイリアには言葉という大きな壁がある。

 どうしてそんな顔を僕に向けるのか……。


 唯それだけが心残りだった。


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