悲鳴と少年(4)
ボスに向かっているのは、年端もいかない少年だ。しかも、今起きたばかりというような、パジャマ姿だ。
クリーム色の髪の毛が見えた。少し長いその髪は少し長めだが、綺麗にそろえられている。パジャマの色は水色。肌は白い。靴も何も履いていない、裸足だ。しかし、路地に住む子供ではなさそうだった。傷一つないのではないかという肌が、大切にされていることを物語っている。
しかし、唯一傷だらけなのが、両方の手足だった。足は、自分で割った硝子を踏んで傷だらけ、そして手は、驚いたことに、その破片をボスへと投げつけているために、傷だらけなのだった。
「おいアクル! こいつの動きを止めろ!」
一瞬だけだが硬直していたアクルにむかって、ボスは叫んだ。その言葉で、はっとアクルは我に帰る。ボスは硝子を必死によけながら、なんとか少年の動きを止めようとしていた。しかし、機敏な動きの少年を、なかなかしとめることができない。よけるのに精いっぱいで、なかなか標準を定められないからだ。
幸い少年は、ボス一人だけを狙っている。アクルは冷静に、少年の足元に標準を合わせた。足に少しでもかすめたら、少年の動きは止まるだろう。アクルは弾を二発撃った。右足と左足に、それぞれ銃弾がかすめる。少年はびくっと体を震わせ、後ろを振り向く前に硝子をアクルに投げつけた。
「うおっ!」
あわててアクルはそれを避ける。なんて反応だ……本当にガキかよ!
アクルは少年に向かって走った。とにかくボスを助けなければ。
だか、その心配は無用だった。攻撃の矛先が、数秒アクルに向かった。そのチャンスを、ボスは逃さなかった。
「悪いな」
ボスは問答無用で少年のみぞおちを蹴りあげた。少年の体が宙に浮く。少年はあっけにとられたようだったが、それでもなお、手に持っていた硝子をボスに投げつける。
「どんな訓練されてるんだ、この子は……?」
首元に飛んできた硝子を手ではたき落とし、ボスは思わず言葉を漏らした。
いきなりの攻撃に、あの素早い対処。相手が複数だと分かった時の、反応の速さ。
少年は宙で体をうまく回転させ、見事な受け身をとった。しかし、その後ろにはすでにアクルが待ち構えていた。少年の手をとり、それを後ろにまわし、動けなくする。少年が抗う間もなく、アクルは手の横でとん、と少年の首の後ろを叩いた。
少年の力が抜け、ぐったりと倒れこむ。アクルは少年をひょいと抱えた。
そしてまたも、絶句した。
少年はかすかに目を開けながら、アクルの手首を握ったのだ。
「なっ……!」
「どうしたアクル!」
近づいて来たボスに、アクルはうろたえて言った。
「ボス、こいつ、俺の手加減なしの手刀に耐えたましたよ……こいつはいったい……」
なんだと、とボスは少年の顔を覗き込んだ。少年は、歯を食いしばりながら、二人に囁いた。
「……たす……け…………」
少年の目に、涙がたまる。二人は顔を見合わせた。ボスが困惑の表情を浮かべる。
「…………助けて? 今こいつ、そう言ったか?」
「多分……」
静けさを取り戻した小道に、男の叫び声が響き渡る。
「おい、あの小僧、どこいきやがった?」
「ったく迷惑かけやがって。おい、ニール! ニール!」
その声は、少し離れた家から聞こえてきた。その声に、少年はびくっと反応する。
「どうするよ」
というボスの言葉に、少年はあらん限りの力を振り絞り、答えた。
「に…………げ……」
少年の力が抜けた。それを合図に、二人は白いオープンカーに向かって駆けだしていた。ボスは道中にあったアクルが置いたリンゴ入りの紙袋を、すばやく拾い上げた。
「アクルお前後ろに乗れ」
「はい」
ボスがドアをまたいで白い車の運転席に飛びこんだ。助手席に紙袋を投げる。アクルはそっと少年を抱えながら、冷静にドアを開け、車に乗り込んだ。
「追っ手は?」
ボスはエンジンをかけると、乱暴に車を道へ出した。アクルは上半身を後方に向け、周りを見渡す。
「いません」
「おっしゃ、んじゃ、帰りますか」
ボスはそう言うと、アクセルを思い切り踏んだ。
白い車は、静かにその場を離れた。
「少年の怪我は?」
朝市場から少し離れた緑豊かな場所を、オープンカーはすごい速さで爆走していた。ボスの髪は風を受け、優雅になびいている。
「大丈夫です。小さな傷ばかりです。一応さっきルークには連絡しておきましたし、命に別状はないかと」
「ならいんだけど。包帯、足りる?」
「足ります。よくこんなにたくさん入ってましたね」
「いつだか足りなかったことがあって大変だったからさ、それ以来ずっと救急箱は二つ以上常備してる」
「そんなこともありましたね」
小さい手に包帯を巻きながら、アクルが言った。少年の手足には、ところどころ硝子の破片が刺さっていたが、目立った傷はなかった。その硝子を慎重に取り除く作業が、ついさっき終わったばかりだった。
「あ、腹は?」
「あぁ……ボスがめいっぱい殴った……」
「仕方ねぇだろ、まじ子供じゃないみたいだったもん。どんな人生送ったんだか知らないけど、特殊な訓練でもうけたのかね」
「そうかもしれませんね……」
アクルは少年の服をめくった。腹は少し赤く染まっている。
「ちょっと起きた時に、痛いかもしれません」
「やっばいなー、赤くなっちゃってる?」
「少しだけ」
「あーらら、目ぇさましたら謝ろ」
「しかし……本当に気になりますね、この子供」
「んー、まぁなぁ。一応逃げてって言われたから逃げて来たけど、どうしたもんかねぇ。ま、屋敷で聞こう。もう着いたし」
白いオープンカーの前に現れたのは、緑の森の中にひっそりと建つ、黒い屋敷だった。その屋敷の随分手前に、黒い柵と門があった。その門の前に着くと、ボスは門の横にあるボックスへ向かって、叫んだ。
「おーい」
中から警備員が一人出てきて、ボスに敬礼した。
「おかえりなさい」
「ただいま。けが人が乗ってるんだ、はやくあけて」
警備員は無言でうなずくと、ボックスに戻りスイッチを押した。重苦しく、門が開く。
「この門、三倍速ぐらいで空いてほしいと思わない?」
あまりにゆっくりと開く門を見て、ボスはため息をついた。車がぎりぎり通れるほどの隙間ができた瞬間、ボスはためらわずオープンカーを前進させた。すれすれのところを、オープンカーは通過した。
「ボスはせっかちですよ……」
冷や汗を垂らしながら、アクルは苦笑した。
アクルの言葉とほぼ同タイミングで、屋敷の扉が勢いよく開いた。そこから現れたのは、白衣を着た長身の男性だった。丸眼鏡に、長い水色の髪の毛を後ろに束ねた姿は、怪しげな医者といったところだ。右手には大きな黒い鞄を手にしている。その男は、白いオープンカーに駆け足で近付いた。
「ボス、アクル、お帰りなさい。けが人は?」
「ようルーク、ただいま。けが人はアクルが」
ボスはアクルの腕に抱かれている少年を指差した。ルークと呼ばれたその医者は、大股でアクルに近づいた。
「アクル、その少年を座席に寝かせてくれ。ついでに君は出てくれ、俺が代わりに入る」
ルークはそう言うと、後部座席に乗り込んだ。アクルは言われたとおりに少年を横たわらせ、急いで後部座席を離れた。
ルークはまず少年の手足にまかれた包帯を素早く解いた。あぁせっかく結んだのに、とアクルは思ったが、邪魔をしないでおいた。生々しい傷が、顔をのぞかせる。血で染まった包帯をルークは白衣のポケットにしまい、そっと腕を持ち上げた。
傷口を少しだけ見て、ううんとうなる。
「まずいか」
アクルの言葉に、いや、とルークは首を横に振った。
「大した怪我じゃない。だが硝子かなんかの破片が見えるな。この子は何をしたんだ?」
「硝子の窓を突き破って、硝子でボスと戦ったんだ。一応でかい硝子は取ったんだけど」
「小さい破片が残ってる、こりゃ素手で取るのは無理だ。しかし、すごい子だなぁ。どこの子? なんかの組織のエリートか?」
「分かんないんだ」
「そうか……随分と古い傷もあるぞ」
「え?」
「傷の下に、うっすらとだが傷跡が見える。今日が初めての怪我じゃないわけだ」
「そうなのか……」
「あぁ」
ルークは、足の包帯を解き始めた。
「足の裏の怪我がひどいな……硝子踏みまくり。痛かっただろうに」
「あ、あと、腹の傷もあるんだ」
「腹?」
ルークは少年の服をめくり、顔をゆがませた。
「ボスだろこれ……」
「…………やばい?」
「この子の戦闘能力がやばい。この一撃、かなり痛いと思う、ボスにここまでさせたって考えると、そっちのほうが恐ろしいね」
ふうとため息をつき、ルークは少年を抱き上げ、車を降りた。
「お疲れアクル」
「あぁ、治療、よろしく頼むよ」
「まかせといて。ボスー!」
ルークは扉の前で待機していたボスのところへ向かうと、二言三言会話をした。ボスが扉を開けると、ルークは軽く会釈をし、急ぎ足で屋敷へと帰って行った。
「アクル、リンゴ持って来い」
ボスは扉を開けたまま、空いている方の手でアクルを手招きした。
「車は?」
「そこにでもおいとけ。邪魔にはならねぇだろ。邪魔って言われたらどけるからよ。はやく来い。飯にするぞ」
気持ちの切り替えの早いこと、とアクルは思った。それだけルークへの信頼が厚い、ということでもあった。アクルはリンゴが入っている紙袋を片手に、駆け足で屋敷に向かった。