悲鳴と少年(3)
青年とは、市場から少し離れた場所で別れた。ずっと頭を下げ、動かない青年を、ボスは何度も振り返りながらその場を去った。
「あの青年、いつか屋敷に来るような気がしますよ」
というアクルの言葉に、もちろんだよとボスは笑った。
「あいつ、きっと俺に金を返しにくるよ。何日先か、何カ月先か、まぁ何年先かにはな……。気長に待つよ」
二人は、人気の少ない細道を歩いていた。両脇には、高いレンガの壁が続いている。朝市から少し離れた、静かな住宅街の裏道を歩いていた。
その先には、ボスの白い車が停めてある。朝市の近くには止める場所が少ないうえに、人が多くて傷をつけられたらいやだから、との理由で、少し離れた場所に停めたのだった。細道を抜けてすぐの、小さな空き地。もちろん無断駐車だったが、ボスは気にも留めていなかった。
「静かだよなぁ、この道は」
リンゴを頬張りながら、ボスは言った。
「そうですね、さっきの朝市に、ここら辺の住人も行ってるんじゃないですか」
「ここってけっこう廃墟多いって聞いたぞ?」
「そうなんですか」
「うん。なんか廃れちゃったらしい」
「へぇ」
「しかしさっきの人ごみの中に結構な時間いたから、耳鳴りがするよ。俺こういうの嫌いなんだよなぁ」
ボスはうなりながら、耳を手の平で叩いた。
「遠くで鳴ってるようで、近くで鳴ってるようで、俺はどうも苦手だな」
「気にし始めると止まりませんよね」
そうなんだよ、とボスはため息をついた。そんな姿を見て、アクルは小さく笑う。
レンガの道に、コツンコツンとヒールの音が響く。不気味なほどに静かな道を、二人はゆっくりと歩いていた。
「ん、おいしかった」
ボスは食べ終わったリンゴの芯を、ひょいと人差し指の先に乗せ、バランスをとって見せた。不安定に、リンゴの芯が動く。
「アクルも食べたら?」
「家に帰って、ゆっくり食べますよ」
「そっか。ごみ箱ごみ箱……っと、あった」
ボスは通り過ぎかけた横道を覗き込んだ。数メートル先に、黒いごみ箱が見える。
「ふっふっふーん」
鼻歌交じりに、ボスは野球の投手のような動きを見せた。
「レイカ投手―、投げました!」
綺麗なモーションで、力強くリンゴの芯を投げる。しかしその芯は以外にも、ゆるい弧を描いて、ごみ箱に向かっていった。
「入るか? 入れよ!」
了解、と言わんばかりに、見事に芯はごみ箱の中に消えていった。
「イエス! さすがエース」
とボスはこぶしを握った。おぉ、とアクルが拍手をする。
「すごくね?」
「お見事」
「ふっふーん。さすがレイカ投手だな。野球は結構好きなんだよ、俺。そう言えば、お前レイカって名前聞いた時、あ、そうだこの人そういう名前だったって思っただろ」
「う」
意外な指摘に、アクルは言葉を詰まらせる。かっかっか、とボスは笑って、アクルの前を歩きはじめた。
「みんなさー、俺のことボスって言うからさ。忘れがちになってるよね」
アクルもボスの少し後ろに続く。
「まぁ……確かにそうかもしれませんね」
「ボスとか呼ばなくていいのに。なぁアクル、俺のことレイカちゃんってこれから呼んでよ」
「無茶言わないでくださいよ」
アクルが笑う。しかしボスの表情は真剣そのものだ。後ろに振り向き、後ろ歩きをしながら、ボスは真剣なまなざしで言う。
「ねぇアクル」
「……なんすか」
「試しにレイカって呼んでみてよ」
「……えー」
アクルの困った表情に、ボスは嬉しそうに笑うと、大きな声で言った。
「えーじゃねぇよ! 早く!」
「えー」
困ってる俺を見て楽しんでるな、と思いつつも、アクルは嫌がった。ボスの名前を呼び捨てなんて、できるか! と心の中で突っ込みながら。
しかし、ボスはボスで、無理矢理でも言わせてやろう、と思っていた。
謎の交渉は続く。細い小道に、その音はひっそりと響き渡る。
「頼むよー」
「えー」
「頼んでもだめか! この俺が頼んでるのにか!」
「いや、もうちょっとましなところで頼んでくださいよ、ボス」
「んもー、アクルったら強情なんだからぁ。んじゃぁ、命令ですー」
「えー!」
「命令ですー!」
「ひでぇ……そんな命令……」
「さ、はやく!」
「えぇ……そんな」
「はやくしないとアクルの秘密をみんなにバラしちゃうぞ!」
「ちょ、なんですか秘密って!」
「あれやこれやどれやそれや。ほら、ここを右に曲がると車が」
ボスが後ろ向きのまま、角を曲がる。その先には、細い道が開け、小さな空き地があった。そこには、空き地には似合わない、真っ白のオープンカーが置いてある。
「車につくまでに言わないと、ばらすぞ!」
ボスが駆け足で後ろに下がる。アクルもあわててボスを追いかける。
「な、何をばらすんですか!」
「そんなの聞いてていいのか? もうあと数メートル!」
「気になるじゃないすか!」
「馬鹿野郎! ぎりぎりの交渉の時にそんな迷っててどうするんだ!」
「ここでまさかの熱血指導!」
「はっやく! はやく! ほらもうすぐそこに……」
と、ボスが後ろを向こうとした、その時。
気持ちのいい朝には似合わない。静かな細道には似合わない。ましてや、きゃっきゃとじゃれる二人には似合わない。
警報のような、耳に響く悲鳴が、今来た道の方から聞こえた。
女性のつんざくような悲鳴を聞き、ボスもアクルも、すぐに臨戦態勢に入る。自分の銃を手にして、神経を尖らせる。二度目の悲鳴を合図に、家の中から物が壊れる音がした。硝子の割れる音、カーテンが引き裂かれる音、何かを投げる音。
「助けて!」
と、家の中からかわいらしい寝間着を着た女性が、血相を変えて飛び出してきた。アクルと目が合い、涙目で叫ぶ。
「助けて! 助けてぇ!」
その叫び声をかき消すかのように、窓ガラスがすさまじい勢いで割れた。窓ガラスを割って、混乱の原因であろう犯人が飛び出てきた。女性の絶叫が小道に響く。
「アクル! その女性を守れ!」
ボスが叫ぶと同時に、アクルは女性の方へ駆けだしていた。女性は腰を抜かして、がたがたと震えていた。素早くアクルは手にしていた紙袋をそっと地面に置くと、女性を抱きかかえた。そしてすぐに、女性を小道にほうり投げた。女性はあまり高くは飛ばず、尻もちをついて地面に転がった。大した打撲はなく、勢いよく起き上がり、ぽかんと口を開けている。
アクルの後ろで銃声が聞こえた。ボスが犯人と戦っているのだろう。壁か何かが壊れる音もする。
はやくボスを助けなければ。
アクルは女性にむかって、叫んだ。
「すみません! ちょっとそこでじっとしていてください! 逃げれるなら逃げて! はやく!」
アクルの言葉に、女性は何度も頷くと、ばたばたと慌ただしく逃げて行った。それを見届け、アクルはすぐにボスの方へと向き直る。
「なっ……!」
目の前の光景に、アクルは思わず絶句した。