悲鳴と少年(2)
明るい雰囲気から一変して、周囲に不安な感情が広まった。低いざわめきの声がする。
「……なんだぁ?」
「ひったくり、みたいですね」
アクルは叫び声のしたところを凝視した。人が「泥棒!」と叫びながらうろたえているのが分かるが、だれが犯人かは分からない。
「そっから犯人は見えるか? ってか、見えたかも」
ボスが目いっぱい背伸びしながら、言った。
「どれですか?」
アクルも背伸びをする。
「緑の屋根の下、坊主頭の男がネックレス片手にたくさん持って逃げてる。アクル、おぶって」
「は?」
「ていうか肩借りるよ、ふらつくなよ!」
そう言うや否や、ボスはハイヒールを雑に脱ぎ、両手でアクルの肩を持った。
「あっ、ちょ!」
ぐいとアクルの肩に触れたボスの指先に、力が入る。アクルは、ボスが何をしたいかを理解した。同時に、焦る。すでに体はのけぞり、後ろにひっくり返りそうになる。それでもボスは力を抜くようなことはせず、えいと自分の体を上に押し上げた。
アクルは歯を食いしばり、右足を下げ、なんとか転ばないようにバランスを保つことに成功した。
「ナイス、アクル」
笑ったボスは、すでに右足をアクルの右肩に置いていた。ぐっとアクルは歯を食いしばり、バランスを保つことだけに集中する。
ボスの左足が、アクルの左肩に着地すると同時に、ボスは持っていたリンゴを空高く放った。赤いリンゴが、空に吸い込まれるように、高く上がる。ボスはリンゴを投げるとすぐに、背中に手をまわした。ズボンと背中の間にあったのは、一丁の小さなピストルだった。
素早い動作でそれを取り出し、最短の動作で構える。
アクルの肩に両足立ちした状態で、にやりとボスは笑った。何人かが、ボスに視線を送っているが、気にもならない。
むしろ、見てろよ、と思う。
「泥棒はいけない、ぜっ」
ボスは小さくつぶやくと、引き金を何のためらいもなく引いた。ざわめきの中、一発の銃声が鳴り響く。周囲は一瞬にして、凍りついた。視線がボスに集中するが、ボスはふふんと笑うだけだった。
ボスが頭上を見上げると、先ほど投げたリンゴが落下していた。もうすぐでぶつかるというほど近くにあったが、ボスはそれを予測していたかのように、冷静にキャッチした。一口かじり、前方を眺める。
ボスの視線の先には、泥棒がいた。怪我はしていない。手に持っていたいくつものネックレスが、いきなり四方八方に飛び散ったのだ。ぽかんと口を開け、自分の手に確かにあったネックレスの残骸を見つめている。
「当たった、当たった。よぉしアクル、ご苦労」
鼻歌まじりにボスは言うと、アクルの肩をえいやと蹴り、アクルの前に飛び降りた。
「あっぶない」
アクルは手にしていたリンゴの袋を投げ捨て、ボスを空中で受け止めた。周りからおぉ、という感嘆の声と、拍手が聞こえた。アクルは頬が赤らむのを感じた。
「何照れてんだよ」
そんなアクルの様子を見て、ボスが呆れたように言った。
「注目の的じゃないですか」
アクルのつぶやきに、ボスは鼻で笑う。しかし次の瞬間、ボスははっと目を見開いた。
「ん? どうしました?」
「てか、あ、え? あっ、わ……」
急にボスの頬が赤らんだ。
「なんです? 照れてるじゃないですか」
「お姫様だっこじゃん! 俺今お姫様だっこされてる!」
「そこですか!」
「やだ恥ずかしい! わぁ!」
ボスは慌ててアクルから離れると、脱ぎ捨てたハイヒールを履いた。アクルは首をかしげた。冗談か? と感じたのは、人が多いその中でも、アクルだけだった。
「目立つのは嫌いじゃないけどさ……」
ボスがぶつぶつと文句をたれた。
「まぁいいや、リンゴ、食べかけだけど袋に入れさせて」
ボスは、アクルが拾い上げた紙袋に、食べかけのリンゴを投げ入れた。
「さ、あの泥棒のところに行こう。すぐそこだよ、ついてこいアクル」
ボスは、そう言うがはやいか、人を縫うようにすいすいと走って行った。
「あぁ、ちょっと! ボス!」
アクルの必死の呼びかけも空しく、白髪が人の波に消えていく。少しの間、人の動きは止まっていたが、今ではもう、何もなかったかのように、人の波は動いている。薄情なもんだ、とアクルは思いながら、急いでボスの後を追った。長い髪を左右上下に揺らしながら、悠々と、大股で、ボスは走っていく。
速い。速い。ボスの足元にだけ、ベルトコンベアーでもあるんじゃないだろうか、と馬鹿なことを考えながら、アクルは必死にボスを追いかけた。
アクルがボスにやっとのことで追いついた時には、すでにボスも泥棒の元までたどり着いていた。アクルが息を切らしているのに対し、ボスは呼吸ひとつ乱れてはいない。
盗みを働いた青年はその場に座り込み、茫然と自分の手のひらを見つめていた。発砲してから一分と少ししか経っていない。しかしそれは、逃げるためには十分な時間だっただはずだ。それなのに逃げなかったのは、よほど驚いたのか、絶望したのか。
がたいのいい、髪を短く切った、肌の白い青年だった。ボスは青年の前に座り込み、おい、と声をかけた。その声を聞いて初めて、青年はボスとアクルの存在に気がついたようで、ひぃっと間抜けな声を上げて驚いた。
「青年、名前は」
「ひっ」
「警察に突き出したりしないから。な? お前の手を発砲したの、俺だぜ。手とかに当たってない? 大丈夫?」
「は……」
青年は、発砲した張本人が心配してくれている、という訳の分かりそうでまったく分からない状況に、混乱しているようだった。ボスは青年の手を握り、手の平、手の甲を注意深く見詰めた。
「大丈夫……そうだな。いやいや、よかった、いきなりごめんな?」
「は……いえ……」
完璧にボスのペースだなぁ、と、アクルは二人のやり取りを傍観していた。
「でもな、盗みはいけねぇよ、楽しい朝市なんだから。どっから盗んだの? 謝りに行こう」
ボスはそう言うと、手に力を入れ、立ち上がった。つられて、青年も立ち上がる。
「どこの店だ?」
という問いかけに、初めて青年はボスに反抗した。手を、無理やりほどこうとする。しかし、ボスは片眉を吊り上げたまま、手に力を込めるだけだ。必死に抵抗する青年も空しく、ボスの見た目からは想像できないほどの力に、太刀打ちすることができなかった。
「……離せよ!」
青年はそれでも、手を上下に振ったり左右に振ったりして、なんとか振りほどこうと試みていた。まるで、妙な握手をしているような光景に、アクルはどこか奇妙さを覚えた。
何してんだ、この人たち。そんな視線を、行き交う人たちが、ボスと青年に向けていた。
こいつもどうにかしろよ……。そんな視線が、自分に降り注いでいたのも、アクルは分かっていた。
それでもなお、その状況を動かさなかった。入ってくるなよ。そうボスが言わなくても、アクルは分かっているのだった。
「離せ! 離せ! 離せよ! 痛ぇよ!」
半泣きになりながら、罠にかかった鳥のように、青年はじたばたと足掻きだした。足掻けば足掻くほど、罠が食い込むのと同じように、ボスの手にはどんどん力が入っていく。
「いてぇ! 痛いよ!」
「謝りに行こう」
「いやだよ!」
「どうしてもか?」
「いやだよ!」
必死に抵抗する青年の態度に対し、ボスはひとつ、舌打ちをした。
「問題です」
ボスは、静かに呟いた。
「は?」
青年は聞き返すが、ボスはそれに答えず、続けた。
「俺はさっき遠くから君の盗んだネックレスを何かでぶち抜きました。さて、なにでぶち抜いたでしょう?」
青年は、さっと青ざめた。ボスはそんな青年の様子を見、にやりと口の端で笑った。
「正解は銃です。お姉さんは銃を持っているんです。でもな、力づくで君を連れていきたくはないんだよ」
「…………」
「盗みはいけねぇ事だって知ってるだろ。それなのにお前は盗みを働いちまった。どうしてそんなことしちまったか、俺に話してみろ、どうにかなるかもしれない」
「…………」
「押し黙ってると無理やりにでも喋らすぞこら」
「……単純な理由だよ」
青年は言葉をこぼすように、言った。
「金がほしかった。それだけだよ。それ以外に何がある?」
「……家が大変なのかよ」
「家出したんだ、今はどうなってるかなんてしらねぇよ」
「お前は家に戻るより、盗みを働いてでもひとりでどうにかしたかったのか」
「あぁ、あの家の世話になるのはごめんだからな。でももういいよ。警察にでもどこへでも連れて行けばいいだろ。あきらめたよ、もう降参だ。どうやったってあんたの握力にはかないそうにないしな……俺の運もここまでだったってことだろ」
涙声で、青年はどなるように言った。奥歯をかみしめ、なんとか涙をこらえている。肩は震えていた。随分と図体のでかい青年が、なぜだかものすごく小さく見えた。
「そっか……、まぁお前にもいろいろあったんだな。アクル」
ボスは開いている方の手を、アクルに差し出した。アクルは財布を取り出し、一枚の紙をボスに渡した。ボスは名刺サイズのその紙を受け取ると、青年の手のひらに、そっと押し付けた。
「仕事をどうやって探すかも分かんねぇんだろ」
「…………」
青年は黙って頷いた。少しためらう素振りを見せたのは、恥ずかしさからだろう。
「だから盗みをした、そうだな?」
青年はもう一度頷いた。
「今回、どれぐらい金があれば足りるんだ。これぐらいで足りるかよ?」
ボスはアクルに、またも空いている手を差し伸べた。思わずアクルは戸惑う。
え? これぐらいって? え?
しかし、ボスは青年の目をまっすぐ見つめたままだった。アクルは仕方なく、財布から五枚の紙幣を取り出し、ボスに渡した。
ボスは無言でそれを受け取ると、青年に差し出す。青年はそれを見つめ、受け取ると、小さく言った。
「それで……足りる……」
「嘘をつくな」
青年が驚いたように目を見開いた。ボスは不満そうに眉をひそめると、アクルにもう一度手を差し伸べた。アクルはさらに、二枚の紙幣を取り出した。ボスはそれを青年には渡さず、彼の目の前に持って行った。
「これで足りるか」
「……なぜ分かった?」
「なぜ嘘をついているか分かったかって? 分かるもんは分かるんだよ。質問に答えてくれ、これで、足りるか?」
「…………」
青年の目に溜まっていた涙が、一粒地面に落ちた。ボスはそうか、と微笑むと、名刺サイズの紙と共に、紙幣を青年の手に握らせた。その紙は、ボスの胸ポケットから取り出されたものだった。真っ白な紙に、黒い星のマークと、住所が書いてある。
「じゃぁよ、今回はとりあえずそれでよし、な。その代わり、返しに来い。今渡したこの紙には、俺たちの住所が書いてある。返せないようなら、働いて返してくれればいい。仕事は山のようにあるから、そん中の一つを紹介してやる。とりあえずこの住所の場所に来たら、これを見せろ。そうしたら門番は通してくれるから。オッケー?」
「いいのか……?」
「いいよ。じゃないとまた、盗みをしちゃうだろ」
「……ありがとう」
青年は頭を垂れると、頬の涙をぬぐった。ちらり、と名刺サイズの紙を見つめ、目を丸くする。
「……え、えっ?」
「なんだよ」
「この紙、本物?」
「本物だよ。俺たちはそれを招待状って呼んでる」
「じゃぁここに書いてある名前も……」
「本物」
青年の坊主頭を、ボスはぺしんと叩いた。
「なんだその顔は」
「いや、すみません、エストレージャって架空の組織だと思ってて」
「なんてこったい。そんな噂も流れてるのかよ」
ボスは心底がっかりした、といった表情を浮かべ、天を仰いだ。
「俺は正真正銘、エストレージャの一員だぜ?」
「なんでも願いを叶えてくれる集団ってのは……?」
「魔法使いじゃないんだから。仕事は与えてやれるけどさ」
青年は、招待状と呼ばれたその紙を、穴のあくほど見つめていた。
「さっさとしまっちゃいな」
ボスの言葉に、青年は慌ててそれとお金をポケットにしまう。誰かに取られたらたまらない、とでもいう風に。
「よし。じゃぁ謝りに行こう。俺も一緒に行ってやるから。あ、ネックレスぶっ壊しちゃったんだよな……まぁ、弁償しろって言われたら、そんときゃそんときだ。さ、行こう」
青年の背中を、ボスは軽く押した。青年は、少し申し訳なさそうに猫背になりながら、小さく歩いて行った。ボスとアクルは、それにゆっくりとついて行った。
少し離れた場所に、アクセサリー屋があった。そのアクセサリー屋は、朝市にしては珍しく、少しばかり高価な物を取り扱っていた。青年は自ら進んで頭を下げ、ボスもアクルも共に頭を下げた。その姿を見て、青年は必死に犯人は俺だけだと主張したが、商品を壊してしまったのは我々だと、ボスも譲らなかった。
被害総額を聞き、予想外の値段にボスは思わず苦笑してしまった。しかしなんとか足りる金額だったので、ボスはそれを店に支払った。俺がいつか返すという青年の言葉に、ボスはにやりと笑った。
「貸しだからな。よろしく頼むよ」