夜の仕事は盗み聞き(5)
空を見上げた。少し肌寒い夜だった。黒い空には、星が瞬いている。その姿は、本当に美しい。アクルは星が大好きだった。星を見ると、落ち着いた。
しかし、気は常に張っている。緊張感は保っている。いつ何があるか分からない。
不安を落ち着かせるためにも、アクルは空を見ていた。ヤツキの能力は分かっている。気配を消すことに関して、エストレージャ内で彼女の右に出るものはいない。万一見つかったとしても……いや、きっと彼女に限って、そんなことはないだろう。
それでも不安である。することがなく、ただ待機なのだから、余計心配だ。
時間はゆっくりと進む。不安だけが募る。アクルは手に握っているハートのキーホルダーを、強く握りなおした。早く連絡をくれないかなぁ。
しかし、なかなかヤツキは戻ってこなかった。懐中時計を開く。暗い中、目を凝らしてそれを凝視する。ヤツキが侵入してから、もう二時間半が経過していた。
ふうとアクルが小さくため息をついたそのとき、何かが割れる音がした。
アクルははっと、身構える。下から聞こえた。部屋の内部で何かが割れたのだろう。
ヤツキが何かやらかしたか?
心臓が割れるように鳴った。落ち着け。アクルは自分に言い聞かせた。皿が割れたような音だったために、たいしたことではないかとも思ったが、そうではないようだった。しばらくして、もう一度何かが割れる音がした。続いて、女性の叫び声が聞こえた。きんきんとした声だ。何を言っているのかは聞こえなかった。続いて男性の叫び声が聞こえた。この声ははっきりと、「だまれよ!」と聞こえた。それに反抗するように、女性の声が聞こえたが、どうも早口で聞き取れない。
アクルの鼓動は落ち着いてきた。緊張が少しだけ緩む。
ただの口げんかのようだった。だんだん二人の声が大きくなってきた。他の声も混じる。どうやら二人をなだめているようだ。やめろ、という声が聞こえた。その直後、派手に何かがひっくりかえったような音がした。おそらく机か何かを蹴飛ばしたのだろうと思った。甲高い悲鳴が聞こえた。
それからしばらく、言い争いは続いていた。その声の中にヤツキのものはないか、アクルは注意深く聞いていた。幸いその中にヤツキの声はなかった。
ヤツキはこの言い争いを聞いているだろう。その内容が何かをつかむ鍵となればいいのだが……と、アクルはそんなことも考えていた。
「ふざけんのも大概にしなさいよね!」
女性の声が、はじめて聞き取れた。その後、扉が開く音がした。
「おい……待てよ!」
男性の声が聞こえた。その後、硝子が割れる音がした。男性は何かを叫んだあと、どこかへ行ってしまったようだった。
ほんの数分の出来事だった。静けさが再び訪れる。
アクルはヤツキの身の安否を案じた。何もなければいいのだが。
さらにそれから一時間たったころ、アクルの手に握られていたキーホルダーが微振動した。ほんの一瞬だった。アクルはふうと安堵のため息を漏らした。そろりそろりと移動し、屋上の鍵を開ける。しばらくして、ドアがゆっくりと開いた。
ヤツキはだくだくと汗をかいていた。前髪は汗でしっとりとし、額にくっついている。かなり疲れているようで、目がうつろだった。
「お待たせしました……取りあえずここを離れましょう」
聞きたいことは山ほどあったが、アクルは無言でうなずき、鍵を閉めた。もう夜が明けようとしていた。アクルとヤツキは壁をつたって下に降りると、静かにその場を離れた。
話しを一切しないまま、アクルとヤツキはリッツのたまり場から走り続けた。一度だけ、アクルは顔色の悪いヤツキを心配して、声をかけた。
「大丈夫かよ?」
その質問に、ヤツキは無理やり浮かべた微笑みを返した。
「恥ずかしいところを見られてしまいました……集中して気配を消し続けるのは、体力をとっても消耗するんです……ひどい顔でしょう?」
「そんなことないよ、お疲れ様」
「アクル兄さんは……優しいですね」
「何事もなかったんならよかったよ」
「ふふ……」
ヤツキは力なく笑うと、また無言に戻った。
朝四時ちょうど、二人は屋敷に到着した。
「では……私はボスに報告してきます」
最後の力を振り絞るように、ヤツキはそう言って、ボスの部屋へとかけて言った。アクルは一度部屋に戻り、目覚ましを三十分後にかけ、ベッドで仮眠をとった。目覚めはとてもよかった。服を変え、顔を洗い、歯を磨いた。目が完全にさめたところで、ニールの寝室へと向かった。