夜の仕事は盗み聞き(4)
「じゃぁ私、玄関で待ってますね」
ヤツキはそう言うと、アクルとは違う方向へ歩いて行った。闇に溶けると、気配がなくなってしまった。足音が響きやすい廊下なのに、少しも足音がしない。アクルはぞくりと身震いするのを感じた。敵じゃなくてよかった、と心から思う。
アクルは長い廊下を静かに、しかしできるだけ早足で歩いた。心なしかその足取りは軽やかだった。
久々の仕事だ。そう思うとどきどきした。自然と胸が高鳴った。
自分の能力は、ボスに仕えると誓った際に、ボスのためだけに使おうと心に決めていた。そのため、ボスのためになるとき以外はこの能力を使わないようにしてきた。
全てはボスのため、だ。
そのボスから、自分の能力を使って働いてこいと言われたのだ。嬉しく思わないはずがない。
自分の部屋に戻り、全身真っ黒の「仕事着」に着替えながら、アクルは考える。
はたしてどこに行けば、ボスが盗んできてほしいものが手に入れられるだろうか? ばれることないだろうけれど……。
ふう、とアクルはひとつ、ため息をついた。そのため息は意図的な物で、高まった心を少し静めてくれた。
落ち着け、とりあえず落ち着かないと。アクルは自分に言い聞かせた。
俺の仕事は、集中力が物を言う。ばれたら終わりだ。
黒い手袋を装着し、アクルはひとり、頷いた。
「行くか」
黒い帽子をかぶり、全身真っ黒になったアクルは、部屋を出た。肌という肌を覆うようにできている服は、とても軽く、動きやすい。急いで玄関に行くと、ヤツキは扉のすぐそばに座って待っていた。お団子頭のシルエットが、振り返り微笑む。
「お揃いですね」
「やったね」
ふふふ、とヤツキは笑った。
「道案内、よろしくお願いしますよ」
「おう」
アクルはポケットの中に入っている懐中時計を取り出し、時間を確認した。
車で五分ちょいだったから……走ると二十分もかからないかな。そう頭の中で計算すると、アクルは懐中時計をしまった。
「二十分ぐらい走るけど、大丈夫だよな?」
「持久力に自信はあります」
にこりとヤツキは笑うと、ふっと真顔になった。仕事モードの顔つきだ。
「よし。じゃぁ行くぞ」
アクルは扉を開け、外に出ると、勢いよく走り出した。その後ろを、ヤツキがついて行く。目指すは、今朝の路地裏。リッツのたまり場だ。
朝市が行われた公園の隅で、アクルは一息ついた。周りには誰もいない。ところどころに、カップルを数人見かけただけだ。軽く息が上がっている。ポケットにしまってあった時計を見た。だいたい十五分かかった。十一時五分。まだリッツの人々が起きていることを願った。
指を何度かぽきぽきと鳴らす。集中する前の、アクルの癖だった。ヤツキはアクルの隣にたたずみ、アクルの指示を待っている。アクルと同じくらい、呼吸がはずんでいた。
ふたりは無言で呼吸を整えると、路地裏に向かった。
路地裏はしんとしていた。公園よりもしんとしている気がしたのは、ほとんど光がないからだろうか。廃墟や古いマンションには、人がほとんど住んでいないようだった。実際、住んでいる人も少ないのだろう。足音がしないため、アクルは歩いている気がしなかった。闇の中を浮いているような錯覚にとらわれる。
とりあえず、ニールと朝であった場所に行こう。アクルは慎重に、その場所に向かった。ヤツキは無言で、アクルについて行った。
右に曲がればその場所、と言うところにまで来て、アクルは壁に背をつけ、そっとその道を覗き込む。わずかにだが、窓の外から光が漏れていた。その先から、笑い声が聞こえる。アクルはヤツキに、指で合図を送った。
ここだ。
そのジェスチャーに、ヤツキは一度だけ頷く。
アクルはその建物の高さを確認した。建物は三階建てで、少し古びているが、この路地裏の中では随分と新しいもののように見えた。壁はレンガでできていた。
どうしよっかな。
アクルは首をかしげた。ヤツキはアクルの様子を見て、とんとんとアクルの腕を指でつついた。ん? とアクルがヤツキに目をやる。
「屋上に行きましょう」
ヤツキは小さい声で言うと、腰に巻いていた小さなバッグから、鉤爪を取り出した。手に装着し、がしがしと壁を登っていく。アクルもそれにならい、腰につけていたウエストポーチから自分の鉤爪を取り出し、壁を登って行った。
屋上には誰もいなかった。だだっ広い屋上には何もなく、隅に長方形の出っ張りがあるだけだった。その出っ張りには、小さな扉がついている。あの扉をあけると、その先に階段があるのだろう。たまり場に侵入するのは、案外簡単そうだ。
「誰もいなくて幸運でした。アクル兄さん、ちょっとここで待っていてください」
ヤツキは鉤爪をとると、バッグに入れた。その後、静かに扉の前に歩いて行き、ドアノブに触れた。ドアノブを回すが、鍵がかかっていて開かなかった。
ヤツキはアクルの待っている場所に戻ると、
「やはり鍵がかかっているようです」
と、報告をした。後ろ姿を見ていれば分かったが、一応の報告に、アクルはうんと頷く。
「さすがにそこまで警戒心のない集団ではないのかな」
「でしょうね……では、すみませんが鍵を開けてもらえますか」
「はいよ」
アクルは早足で扉に近づいた。ドアノブの下に、鍵穴がある。アクルはそれを覗き込むと、ウエストポーチから細い針金を取り出した。
鍵穴を覗き、針金を曲げる行動を何度かとる。針金はくねくねと謎の形に仕上がった。ヤツキから見ればただの針金だが、アクルがそれを鍵穴に入れ何度かいじると、小さくかちりという音がした。
「開いたよ」
物の数秒の犯行だった。アクルは針金をまっすぐに戻し、ウエストポーチにしまう。
「……凄い」
「そうかぁ?」
「凄いですよ。助かりました、ありがとうございます」
アクルにとっては、食事をするぐらい簡単な行動だったが、ヤツキにとっては魔法のような行動である。こんなこと平気でしちゃうんだから、アクルさんだって怖いよ、とヤツキは心の中で思った。
しかし、そのような会話を楽しんでいる暇はない。少しでも早く、ヤツキは仕事に取り掛からないといけないのだ。ヤツキは扉から少し離れた。アクルもそれに続く。少し扉から離れた場所で、ヤツキは座ると、バッグの中に手を入れた。
そこから出てきたのは、ハートの形をしたキーホルダーだった。ボタンがみっつついている。ヤツキはそれを、アクルに手渡した。
「私は今から侵入します」
「おう」
「侵入したら鍵閉め、よろしくお願いします」
「わかった」
「それと、これを持っていてください。私が戻るまで待っていてください。今から言うことを覚えてください」
リズムよく、とんとんとんとみっつの指令をアクルにくだした。アクルはこくりと、ひとつ頷く。
エストレージャに、上司、部下といった関係はほとんどない。ボスのレイカと、副ボスのラインが名のある地位についているだけだった。その二人にも、間違っていると思えばその意思を伝える。時にボスが指示を受け、動くこともある。
エストレージャとは、そういう集団なのだ。
だから、年下のヤツキに指令を出されても、アクルは何ら不愉快には感じない。ここはヤツキの得意分野での指令だから、なおさらだ。その道のスペシャリストであるヤツキに従うことに、違和感はない。
ヤツキは淡々と、述べた。
「私が戻るときにそれが震えます。それまでここに待機していてください。震えたら、扉の鍵を開けてください。万が一逃げなければならなくなってしまったら、真ん中のボタンを押してください。私が必要になったら、右のボタンを押してください。左のボタンは、押すと爆発します」
「爆発?」
「敵から逃げるときに役に立ちます」
ふふふ、とヤツキは、意味ありげな笑みを浮かべた。
「まぁそんな危険はないでしょうけどね。私が朝四時までに戻らなかったら帰ってください」
「それはどういう意味だ?」
「そのときは、大切な盗み聞きをしていてもうちょっとここに残りたいと言うことです。そういう事態がない限り、四時には戻ってきます」
「万が一お前が見つかったりしたときは?」
「ふふふ。そんなことありえませんよ」
ヤツキはにこりと笑うと、アクルが苦笑する前に、では、とたまり場に入って行った。アクルは扉を静かに閉めると、鍵をかけ直した。
さてと、どうしようかな。
アクルは扉がついている屋上の出っ張りの、扉の付いていない面にもたれかかった。ここならばれないだろうし、誰かが屋上に来ても、見つかる可能性は低い。黒い服を着ているため、目をこらさないとアクルの姿は見えないほど、闇に溶け込んでいた。