2 悲鳴と少年(1)
「アクル、はぐれるなよ」
朝市で賑わう人込みの中で、女性が後ろにいる男性に声をかけた。その声は、ざわめきの中に溶け込み、消える。
「はい? ごめんボス、聞こえない」
アクルと呼ばれた男性は、人込みに負けないように、声を少し張り上げて言った。
「はぐれるな、よ!」
ボスと呼ばれた女性は、大声で叫んだ。周りにいた人が数人、驚いて顔をあげる。アクルは周りの目など気にもせずに、手をあげて合図を送った。
「あ、はいはい、大丈夫です、後ろにいますよ」
「心配なんだよ」
ボスはふんと鼻を鳴らすと、早足で歩いて行ってしまった。アクルはそれを、懸命に追いかける。そんな心配しなくても大丈夫なのに、とアクルは心中で呟いた。
ボスの後ろ姿を見つめる。白いスーツに、白いハイヒール。そして透き通るような、ウェーブがかった、長くて白い髪。毛先だけが、その白に逆らうように、黒い色をしていた。色とりどりの人ごみの中、反抗的なモノクロなその姿がとても綺麗だ、とアクルは日ごろから思っていた。あんなに目立つ人を、アクルは見失うはずがなかった。
「あぁもうアクル、話しにくい! 横に来い、横に」
ボスは歩きながら、振り向いた。真っ赤な口紅に、大きな黒いサングラス。その奥にうっすらと見える黒い瞳が、アクルの灰色の目を捕える。アクルは無言で頷き、少しだけ歩く速度を速め、ボスの左側についた。
「なんかさ、これだけ人がいるのに、俺たち浮いてる感じがするよな」
どうしてだろう、とボスは言った。ボスの一人称は「俺」だった。理由は、その方が楽だから、と言うものだったが、何か過去にあったのではないかとアクルは踏んでいる。
しかし、浮いているのは「俺」じゃなくて、「俺たち」? ということは、俺も入っちゃってるのか? とアクルは思ったが、黙っておいた。
両脇にある店から、威勢のいい声が聞こえる。ボスはそんな売り子の姿を横目で見ながら、ううんとうなっていた。どうやら本気で、自分たちの浮いている理由を考えているようだ。
「そこの白髪のお兄さんとお姉さん、リンゴ、買わない?」
紙を二つに結わえた若い女の子が、真っ赤なリンゴを差し出して言った。そのとき、あ、そっかぁ、とボスはつぶやき、足を止めた。すぐにアクルも歩くのを止める。ボスはくるっと体の向きを声の方に変えると、フルーツ屋の女の子に声をかけた。
「ねぇ、俺たちの白髪って、そんなに目立つ?」
ボスの質問に、笑顔で
「うん!」
と少女は素直に頷く。
「白い髪の毛に黒色がちょんとまじってる。お姉さんは毛先で、お兄さんは真ん中の前髪が黒いの、とっても目立つよ。それに、お姉さんは白いスーツで、お兄さんは黒いスーツ。朝の市場でそこまでしっかりした格好をしてる人、なかなかいないよ」
「はーん、そうかそうか。格好が目立つのか」
なるほどね、とボスは頷いた。同時にアクルも頷く。そうか、俺もボスに負けないほど、目立つ格好をしていたのか。
「とっても目立つよ。かっこいい。お姉さんたち、朝からパーティ? それとも休日なのに、お仕事?」
「お仕事だよ」
「大変ね」
「お仕事っていっても買い物だけどね」
「買い物にスーツ?」
「スーツは普段着なんだよ」
「へぇ、かっこいい!」
「ありがとよ。お譲ちゃんだって、朝からお仕事じゃないか、お疲れ様」
「これは、おうちのお手伝いだもん」
にこりと笑う少女の頭を、そうかそうかとボスは撫でた。そんな様子を見て、アクルも微笑む。
「いい子だな、親御さんも幸せだ。よし、そのリンゴ、十個くれ」
「そんなに?」
思わず声をあげたアクルを、ボスは少女にばれないように小突いた。
「いでっ」
「いいじゃんアクル、みんなで食べよう」
「そうっすね……」
アクルは横腹をさすりながら、苦笑いを返した。的確に、少し小突いてもそれなりに痛い場所を攻撃されたからだ。まったくこの人にはかなわない。
「いくら?」
アクルの心中など察しようともしないボスは、アクルのことは気にせず、少女に笑顔で尋ねた。
「ありがとう! 特別に安くしておいてあげる!」
少女はそう言うと、右手をボスの前で広げた。
「五?」
「ご!」
「そりゃ安い!」
ボスはポケットから白い財布を取り出し、銀色のコインを六枚少女の手のひらに乗せた。
「一枚多いよ」
と言った少女の口を、赤いマニキュアを塗ったボスの指が、ぎゅっとふさぐ。
「そんなことねぇよ」
少女は照れるように笑うと、小さな声で聞いた。
「いいの?」
「いいよ」
ボスも小さな声で答える。
「なんか好きなもんでも買いな」
「ありがとう」
少女は慣れた手つきで、リンゴを十個紙袋に詰めて、元気よく差し出した。それをそっと、アクルが受け取る。少女は笑顔を絶やさないまま、もらったお金を全て、小さな箱の中に入れた。その箱には、お札や小銭が、整理もされずにごちゃごちゃと置かれている。
「こちらこそ、ありがとう。……じゃぁな」
そういって立ち上がり、人波にもう一度飲まれてから、ボスはリンゴを一口かじった。後ろから、ありがとうございました、と少女の声がした。
「うま! 甘いぞこれ!」
少女の声に返事をすることはなく、ボスは目の前のリンゴの美味さに感動していた。
「みんなで食べるんじゃなかったんですか」
呆れたように、アクルは言う。
「ひとつぐらい、いいじゃんか。やー、しかし、たまにはいいな、朝市も」
ボスはリンゴを頬張りながら、嬉しそうに笑った。
「にぎわう朝は、楽しいや」
「いいですね、いつかみんなで来たいですね」
「お、おう」
あれ、とアクルは違和感を覚える。ボスは元気よく「そうだな!」とでも答えてくれるかと思ったのに、意外にも微妙な反応を返されてしまった。どういうことだろう?
アクルは、人の気持ちを察することは苦手ではないが、恋愛感情が絡んでくるときだけは別だった。片思いをする相手として、もっとも嫌な相手のタイプの一つ。アクルは恋愛に関しては「鈍感」だった。鈍感の塊だ。それを重々承知なボスは、ふうと小さくため息をついた。どうせこいつは、何も考えちゃいないんだろうけど。
「だよなー! 目立っちゃうかな? 俺はいいんだけどさ」
ボスは明るく言って見せる。
「どうでしょうね」
もう思考することを止めているアクルは、えへへと無邪気に笑った。ボスは心の中で、アクルに馬鹿野郎と呟いた。
「目立たない格好で来ればいいのかな?」
「スーツはやめにしましょうか」
「はは、そうだな!」
ボスはそう言うと、ふっと視線を足元に落とした。
あ、彼女のことを考えているな、とアクルは察した。切なそうな、愛おしそうな表情をみせるときは、きまって彼女のことを考えているものだ。
このような勘は、鋭い。アクルの予想は、的中した。
「……サキ様も、来てくれるかな」
ぽつんとつぶやいた言葉は、人込みの中に溶けることなく、足元に落ちた気がした。
「お仕事が忙しくなければ、もしかしたら」
アクルは、ボスの寂しそうな横顔を見つめ、言った。
「そうだよね」
ボスはアクルの言葉に、小さく答えた。アクルの言葉は優しい嘘だった。ボスもそのことは分かっていた。あの人は外になんか出ないだろう。ずっと室内にこもって、液晶画面を前に、黙々と作業をこなし続けるのだ。
失った「あれ」を、取り戻さない限りは、永遠に外出などしないだろう。
「……よし!」
視線を前に戻し、ボスが声を出して気合を入れた、そのときだった。ボスの視線を向けた先から、甲高い悲鳴が上がった。