目ざめたニール(5)
「ファインありがとう! いただきます」
ボスは目の前に出された料理を見て、嬉しそうに声をあげた。
「どうぞ召し上がれ。しかし治療室での食事は、せまくないですか?」
困ったように笑う料理人に、いいよ、みんなで食った方がうまいんだから! とボスは笑顔を返した。それならいいんですけど、と料理人のファインは笑う。
ファインは小柄な男性だった。髪はふわふわの薄茶色で、その体には少し大きすぎるようなエプロンを着用している。いつも笑顔を絶やさない、優しい料理人だった。
「それでは、私はお昼ご飯の準備をしますので、調理室に戻ります。また何かあれば、遠慮なく内線か伝書鳩でお呼びくださいね」
「おう、ありがとなー」
ボスのお礼に、ファインは嬉しそうに頷くと、静かに治療室を出ていった。
「フルーツをさ、切っただけじゃん、これ」
ボスは手に持った皿を、軽くもちあげ、ニールに語りかけた。
小さな治療室のベッドを、医者のルーク、看護師のアズム、ボスにアクルがぐるっと囲む形で、皆食事をとっている。小さな皿には、フルーツが食べやすいサイズに切られ、綺麗に盛られていた。
「それでもさ、あいつの切り方がいいんだか、おいしいんだよな。そう思わないか?」
ニールはこくんと頷いただけで、一心不乱にフルーツを食べていた。よほどおなかがすいていたのだろう、何を食べようかを選ぶこともなく、がつがつと食べていた。
「うまいなら何よりだよ。食事がないと辛いもんな。おかわりいるなら言えよ。ファインが持ってきてくれるからな」
ボスはそういうと、治療室の隅にある机を指差した。その上には、大きめのボウルが置いてあった。透明で、中にフルーツがたくさん入っているのがわかる。
「とりあえず食え食え」
食欲のよいニールの姿を見て、ボスは楽しそうに言った。ニールは結局、おかわりを三回した。たらふく食べた後で、ニールは照れたように言った。
「すみません……こんなにおいしい食事なんて久しぶりだったもので、つい」
「いいよいいよ。あとでファインにお礼を言っておきな。おいしかったって言葉は、あいつの一番喜ぶ言葉だから」
さてと、とボスは足を組み直し、空になった皿をアクルに渡した。アクルはそれを受け取ると、自分のと重ねて傍の台に置いた。ボスは腕を組み直し、ふぅと一度深呼吸した。何かある。そう察したのか、ニールの目つきも真剣になる。
「ここはどこだ。ここはなんだ? 俺たちはいったい何者なんだ……気になるだろ」
「……はい」
「そりゃそうだ。いきなりこんなとこに連れてこられて、不思議に思わないほうがおかしい。今からそれを説明しようと思うんだが、その前に質問がある。お前、家族は?」
「いません」
ニールは即答した。そっか、とボスは頷く。
「いないか」
「いません。僕は……」
言いかけた言葉を、ボスは手で制した。
「言いたくないことは言わなくていいんだ。いるかいないかだけ、聞きたかった。もし家族がいるなら、心配しているだろうと思ってな」
さてと……とボスは、組んでいた足をもう一度、組み直す。
「ニールに聞きたいことがたくさんあるけど、まずはこっちの説明な。聞いた後に、俺たちに教えてもいいなって思えたら教えてくれ」
ボスの言葉に、ニールは頷いた。
「んじゃ、説明するわ。まずここはな、でっかいお屋敷だ。ニールはこの部屋しか見てないから分かんないかもしれないけど、凄く広い。学校になるぐらい広い。で、俺たちは何かって言うと、エストレージャっていう集団なんだ。みんな……」
ここで一度言葉を切り、ボスは小さく言った。
「みんな一人ぼっちだったんだよ。お前と一緒だ」
ボスは力なく微笑む。
「簡単に言うとな、元一人ぼっちが集ってる家なんだ、ここは。一人ぼっちが一人ぼっちじゃなくなるんだ。エストレージャという名前で、繋がってる。そういう場所なんだ。
もちろんいろんな仕事をこなしてるよ。ただ集まって、のらりくらりと生活する場所じゃぁないからね。みんな得意なことがあって、それを生かして生活してる。例えばこいつらは医療に長けてるし、ファインは料理が得意だ。俺はあいにく両方苦手でね。そうやって、みんながみんなを助けて生活してるんだよ。それがエストレージャ。大体理解できた?」
「……会社とかじゃぁ、ないんですか」
「うん、そんな堅苦しいのじゃないよ」
「……なんとなく、わかりました」
「ならよかった」
ボスは優しく微笑むと、続けた。
「帰る家がある人はね、基本的にエストレージャに入れないんだ。家の方が幸せとかそういう問題じゃなくて、エストレージャに入る条件としてね。ニールは、エストレージャに入る条件を満たしている」
「……はい」
「で、今ニールはリッツってグループに入ってると思うんだけど、合ってる?」
「はい」
「だよな。で、俺たちは偶然ニールの出くわしたわけだけど、その時リッツがいる建物から、ニールを探す声がしたんだ。それが、仲間を探しているような口調じゃなかったんだ。俺はそれが気になっててね、ニールはあそこに居づらいんじゃないかなって、勝手に思ったんだ。それに、助けてって、言ったろ。だから、俺は、ニールが望むのなら、ここで暮らしてもいいって思ったんだ。
さっき説明したとおり、エストレージャは会社じゃなくてひとりぼっち集団だから、簡単に言ってしまえば、俺が許可したら誰でも住めるんだよ。お金の心配はしなくていい、食事も住居も。いろいろ家事とかはしなきゃいけないけど、衣食住そろってる屋敷だ。不自由はないと思うんだが、どうしたい?」
ボスの言葉に、ニールは黙ってうつむいた。誰も口を開かない。じっと黙って待っている。この少年がどうでるか、皆分からないからだった。
元いた場所に戻りたいかもしれない。帰るべき場所があるかもしれない。もしかしたら、ここに住みたいと言うかもしれない。
どれでもいい。どれでもその手助けはしてやるつもりだ、という考えはみな共通して持っていた。
エストレージャはそういう集団だ。一度受け入れた人は、黒い屋敷を出るまで面倒をみる。エストレージャ内の共通意識であり、常識のようなものだった。
「僕は……」
口を開いたニールの声は、消え入りそうに小さかった。微かに震えている。
「僕は、だめ、なんです」
大きな眼が、一瞬にして潤み、涙があふれ出た。
アズムが心配そうに、眉をひそめた。アクルも思わず動揺し、ボスを横目で見た。しかしボスは動じない。同じ態勢で、ニールの言葉を待っている。
「僕はおかしいんです。僕は……病気なんです。狂っているんです」
そういってニールは、声を上げて泣き始めた。たまらなくなったアズムが、ニールに駆け寄り、肩を抱く。
「どういうことだ、ニール。もしよかったら、言ってみろ。俺たちが解決できる問題かもしれない」
ボスはあくまで冷静な口調で、ニールに訊いた。ニールは泣きじゃくりながら、首を何度も横に振った。
「日に日におかしくなっていくんです……狂っていくんです。僕が僕じゃなくなるんです。今日の朝も、見たでしょう?」
今日の朝。
あぁ、そうだった、とアクルは思い出した。
忘れかけていた。あまりに病室のニールは、優しくて可愛いただの少年だったから、忘れていた。
目の前にいる少年と、見た目が一緒の、まるで別人のような少年。鍛え上げられたような、身のさばき、攻撃速度、反応の俊敏さ。そもそもニールの最初の印象は、朝であった、凶暴な少年であったはずだ。
「僕はおかしいんです。毎朝毎朝、目が覚めると暴れだすんです。止められないんです。どうしてなのかもわからないんです」
「……どういうことか、詳しく説明してくれるか?」
ボスは組んでいた足を解き、足に肘をつき、手を組んで前のめりな姿勢になった。
「言ってごらん。大丈夫だから」
ボスはやさしく、ニールの頭を撫でて言った。それが引き金だった。
ニールはたまっていたものをすべて吐き出すかのように、自分の病気について、話しはじめた。