目ざめたニール(4)
治療室からボスの部屋までの距離も、またかなりのものだった。早足で向かったものだから、ボスの部屋に着いたころには、アクルの息は少し上がっていた。
「どうしたんだよお前、走ってきたのか?」
ドアを開け、アクルを見たボスは、苦笑しながら言った。ボスは上着を脱ぎ、サングラスを外した格好だった。屋敷にいるときはたいてい、ボスはこのような格好をしている。
「い……や、治療室からここまで遠すぎじゃないですか……でも急いだ方がいいかなとか思って……少し……急いだら……」
アクルはとぎれとぎれに説明した。そんな姿を見て、ボスは楽しそうに笑った。
「そんな、そこまで急がなくてもよかったのに。早めに来いなんて言って悪かったな」
ボスはそう言うと、アクルを部屋に入れた。黒い壁に白い家具。それほど広くはないが、モノクロで構成された部屋が、アクルは好きだった。
入ってすぐ、白いソファと黒いテレビが置いてあり、それに囲まれたようにぽつんと小さめの黒い机がある。テレビの横に、もうひとつ扉があった。その先には、クローゼットや寝室がある。しかしそのことを、男性のアクルは知る由もなかった。女性の部屋のクローゼットや寝室に入る機会などなかったからだ。
アクルにも扉の先の部屋にはクローゼットと寝室があるのだろう、というだいたいの予想はつくものの、詳しい構造は中に入ってみなと分からなかった。この屋敷の部屋は、同じ構造の部屋がない。小さな部屋から巨大な部屋まで、大小様々な部屋に加え、細い部屋に真四角の部屋、丸い部屋など、部屋の中もそれぞれ異なる。
「そこらへん座っておいて」
ボスはそう言うと、部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開いた。中から缶ジュースを取り出す。
「アクルも飲む?」
「あ、いただきます」
「オレンジで平気?」
「はい」
アクルは白いソファの隅に、そっと腰かけた。座り心地のいいソファだ。きっと高いのだろうな、とアクルは思っている。
「はいよ」
ボスは缶ジュースとグラスをアクルの目の前に置くと、アクルの目の前に腰かけた。ボスはグラスを使わず、缶のふたを開けてそのままジュースを飲みほした。一気飲みである。
「っあー!」
おやじか、とアクルは心の中で突っ込んだ。しかし、その姿は何故だかとたも格好いい。
「いただきます」
アクルは缶を開けると、とくとくとグラスに注いだ。モノクロの世界に、オレンジ色があらわれる。ちょっと不思議な感じがした。
「んで、だ。まぁ、えっと、ニール君だったな。彼のことで」
ボスはさっそく本題に入った。
「はい」
アクルは身を乗り出し、ボスの話に耳を傾ける。
「さっきギルに、ここ最近子供が暴れた事件はないかって聞いてみた。残念ながらあの少年が関係していそうな事件を、ギルは知らなかった。でも、あの、朝通った道あるだろ? あそこにちょっとヤバいっていうか、面倒くさいというか、やっかいな若者集団がいるらしいんだよ。リッツって言ってさ、なんか若い奴ばっかり集めて、結構盗みとか、事件とか、起こしちゃってるらしいんだよ」
「へぇ……知りませんでした」
「俺もあんまよく知らなかった。というかあそこの小道沿いにある建物を拠点にしてるって言うのは、ギルだから知ってるんじゃないか」
「確かに、ばれてたら捕まっているはずですもんね」
「さすがギルってとこだな、この情報は」
ギルは、この屋敷の情報収集係である。
いや、この表現は正しくはない。ギルは、情報収集が趣味で、それが転じて、屋敷の情報収集係のような地位につけた、と言った方が正しい。町で、国で、世界で何が起こっているのか。ギルに聞けばたいていのことは分かる。詳細を知りたい場合は、彼に頼めばすぐに情報が集まる。
ギルは歩く新聞、と言ったところだった。
ボスは、そのギルをまず呼びだし、今回の事件について何か鍵になる情報はないか、と聞いてみたのだった。
「んで」
ボスが続ける。
「まぁギルには、取りあえずリッツが今どういう反応をしてるか、アニータと一緒に見に行ってもらった。万が一襲われた時のために、アニータはギルの用心棒として、ついて行ってもらったわけで……」
「…………」
急に反応を返さなくなるアクルを見て、ボスは思わず目をそらす。
「な、何だよ黙りこくって」
「ギルは一人でも十分強いですよ……」
「念には念を入れてだよ。アニータの方がもっと強いじゃん……」
「…………」
アクルの沈黙に、ボスはふん、鼻で笑った。
「いいじゃん別に、あいつらこのところ忙しかったからさぁ、ろくに会えもしないわけよ。だから一緒に任務着かせてあげたっていいじゃない」
「ソウデスネ、イイトオモイマス」
「棒読みだ!」
「朝からデートじゃないですか!」
アニータとは、ギルの恋人だ。この二人は、エストレージャ内公認のカップルである。
「デート! それ言っちゃダメ! なんか寂しくなる!」
「いいなぁ」
と、子供のように羨ましがるアクル。
「うらやましいなら恋人でも作れよ」
ボスが呆れたようなふりをしつつ、少し期待も入り混ぜて、話を振る。
「ボスだっていないじゃないですか」
アクルの返答に、はん、とボスは鼻で笑い返した。期待通り、見事にボスの気持ちを察す気配はない。
「うるせぇよ」
お前が好きなんだよ馬鹿野郎、と心の中でボスは呟いた。そんなこと、夢にも思っていない、アクルである。アクルの鈍感さは百も承知のボスは、なんだか寂しくなってきたために、話題を元に戻した。
「ま、とにかく、二人に様子を探ってもらうことにした。ニールがいなくなってどういう反応をしているのかが気になるし、ニールがどういう位置づけだったのか、分かるかもしれないし」
「なるほど。それで……ニールはこれからどうしますか?」
「んー、場合によるんだけどなぁ」
ボスは空になった缶を、ひょいと部屋の隅にあるごみ箱に投げた。見事に缶は、ごみ箱の中に入る。
「まぁ取りあえず、どうして助けてって言ったのか、とか、いろんな相手の事情を聞いてみよう。助けてやる必要があるなら、助けてやろう」
「分かりました。あ、それと……」
とアクルが言いかけたとき、電話の着信音が響いた。ボスの部屋の電話が鳴っている。
「あ、ごめんね」
「いいですよ」
ボスは立ち上がると、壁に掛けてある白い電話の受話器を取った。
「はいもしもし? あぁルークか。うん、うん……あぁ、俺も今ちょうどそっちに向かおうと思ってたんだ。え? まじで? うん俺も食べたい。俺とアクルの分も。うん、はい、はい、よろしく」
短い会話の後、ボスは受話器を置き、
「治療室に向かおう」
と言った。その言葉に、アクルははいと立ち上がると、グラスについであったオレンジジュースを一気に飲み干した。頭が少しだけ、きんと痛む。
「グラス置いといて」
「すみません」
アクルは缶を手に取ると、片手でつぶし、ごみ箱に捨てた。もちろん投げるなんてことはせずに、ちゃんとごみ箱の近くに行って、確実に入る位置から投げ入れた。ボスはサングラスを頭の上にかけると、ドアを開けて外に出た。その後ろに、アクルも続く。
「なんかね、ファインがおいしい料理作って持ってきてくれたんだって」
「おお」
二人の会話と、ボスのハイヒールの音が、長い廊下に響いた。
「それを食べつつ、ニール君にいろいろ聞いてみよう」
「あの少年、休んでないんですか?」
「うん、そうらしい。なんか寝れないんだって」
「疲れがたまってるでしょうに……」
「な、睡眠薬でもあげればいいのに。まぁ子供に睡眠薬は、だめか」
「子供用のがあるかもしれませんよ」
「確かに。あ、そう言えば、さっきアクル、何か言いかけたか?」
急にそう尋ねられ、アクルは少し、考える。何かを言いかけた記憶はあっても、それが何だったかを思い出すのに、少し時間がかかる。
なんだったっけなぁ……。
「あ」
「思い出したか」
ボスはそんなアクルの様子を見て、楽しんでいたようだ。隠れるように、くすりと笑った。
「えっと、サキ様にご報告は?」
あぁ、と相槌を打ったボスの顔からは、笑顔が消えていた。
いつもそうだった。
彼女の名前を出すと、少しだけ、寂しそうな顔になる。
「したよ。まぁ大体のことは分かってらっしゃって、私の力が必要ならいつでも言いなさい、だそうだ」
「さすがですね」
「あぁ」
いつもそうだ。
彼女の名前を出すと、ボスは、寂しそうな顔をした後に、泣きそうな顔で微笑むのだ。
「さすがだよ」
名前、出すんじゃなかったかな、とアクルはいつも後悔する。ボスの寂しそうな顔は見たくない。はやく、彼女の名前を出しても、ボスが寂しそうな顔をしなくて済むように……アクルは、一刻も早く、彼女の願いを叶えたいと心から思っているのだった。
それが叶う日は、いつになるか分からない。
そもそも叶う保証なんてない。それでも叶うと信じて、アクルはその日を待っている。