目ざめたニール(3)
治療室を出て、まっすぐ歩いて右に曲がる。そこには黒い電話が、壁に溶けるようにひっそりと存在していた。アクルは受話器を取ると、ボタンを押す。
しばらくして、ガチャリと受話器を取る音がした。
「もしもし」
「もしもし? アクルさん?」
電話に出たのは、双子のどちらかだった。声だけでは全く判別できない。
「ミク? マク?」
「ミクロです」
「ミクロか。ボスいる?」
「ボス、さっき自室に戻りましたよ」
「あ、そっか。サンキュ。リンゴ美味かった?」
「おいしかったです!」
ミクロの声が、急に明るくなった。後ろの方から、同じ声で「おいしかったです!」と聞こえた。マクロが叫んだのだろう。
「そっか、よかった」
「余ったのは、かごに入れて置いてあります」
「ご自由にって張り紙でもしといて」
「了解です」
「んじゃね、また」
「はぁい」
アクルは指で電話を切ると、またボタンを押した。今度は、ボスの自室にかける。
「もしもし」
「ボス、アクルです」
「あぁ、アクル。あの少年起きたのか」
「はい。暴れたりしませんでした。というより、あの傷では動くのもやっとかと」
「そっかそっか。ならいいんだ」
「最初にニール……あぁ少年の名前はニールって言うんですけど」
「ニールか。そういやさっきニールはどこだって叫んでたもんな」
「確かに。……ニールは、最初に彼が襲っていた女性の心配を、次に俺とボスの心配をしていましたよ」
「……まじかよ」
「はい」
「自分の身はお構いなしって……どうしたんだろうな……」
何があったんだろうな、とボスは呟いた。アクルも。、大丈夫だったかと聞いたのは、大丈夫じゃなかった前例があるのではないかと考えていたところだった。
「ま、とりあえずアクル、俺の部屋来て。話はそれから」
「はい、わかりました」
「んじゃ、早めに頼む」
ボスはそう言うと、電話を切った。アクルも受話器を置くと、ふうとひとつため息をついた。ボスも受話器の向こうでため息をついているのではないか、とアクルは思った。
アクルが部屋を出て行ったあと、ニールは眠りに就こうともせず、ただひたすら、無言で前を見つめていた。アズムが困惑したようにルークを見つめる。ルークも眉間にしわをよせるだけだった。
「眠くないの? 疲れているでしょう」
アズムがニールに言った。
「うぅ……えっと……」
と、ニールは言葉を濁らせる。
「……ゆっくり休んでも大丈夫だぞ?」
ルークは優しく話しかけると、ニールの横に腰をかけた。
「それとも腹が減ったか? リンゴはあるが、胃にしみるか……なにか病人食でも、作ってもらうか?」
「……おなかはすいていないです」
ニールが小さな声で言った。
「そっか」
とルークが答えた後、長い溜息をつく。
「眠るのが怖いのか?」
その言葉に、うっとニールは反応する。当たった、とルークは思った。
「大丈夫よ……私たちずっとそばにいるから安心して眠って」
アズムはニールの頭を軽く撫でた。その瞬間、ニールの目から涙があふれ出る。
「どうしたの……」
アズムは困ったように、ニールの肩を抱いた。
「あ……のっ」
「ん?」
「このこと、誰にも言わないでくれますか」
「……眠るのが怖い理由か?」
ルークの言葉に、ニールは頷いた。
「分からんな……内容によっては、ボスに報告しなければならないかもしれない」
「ボス……?」
「白で身を包んだ、サングラスをした女性だ」
「僕を助けてくれた……」
「そうだ。彼女は俺たちのボスなんだ」
「ボス……」
ニールは、その言葉を復唱する。何を思っているのか、ルークは察していた。
「この家は、俺たちは、いったい何なんだって思ってるだろう」
「はい」
正直に、ニールは返事をする。こういうところは正直なのか、と頭の隅で考えながら、ルークは続けた。
「気になるか?」
「はい……とても」
「じゃぁボスに、説明してもらおう。俺が説明するのはお門違いだからな。後で電話をかけてボスを呼ぼう。ボスの話を聞いて、信じてもいいなって思えば、そちらの理由も話したらいい。その前に、本当に食欲はないのか?」
「…………」
ニールは俯いて、黙ってしまった。アズムはそんな姿のニールを見て、ぽんと肩を叩いた。
「毒なんか盛ったりしないから。ボスがねこの子の治療を頼むって言ったの。それはつまりあなたの味方ってことだから」
信じて大丈夫よ、というアズムの言葉に、ニールはまた、目に涙をためた。
「おなか……すいてます……」
そうか、とルークは微笑んだ。
「じゃぁ食事を持ってきてもらおう。この屋敷には、腕利きの料理人がいるんだ。飛びきりのを作ってもらうよ」