第18話 手作りチョコ
茂人は『にこにこ青果店』までのサイクリングにもすっかり慣れてきた。筋肉痛もおこらない。出来る限りの近道を探し、ツーリングを楽しむ余裕も出てきた。
家事のバイトを初めて数日が経つ。最近、茂人は極力美子を避けていた。あの美子の笑顔を目にすると、どうも調子が狂ってしまう。いつもろくに会話もしないで、ササッと台所に入って料理を作っていた。
全く、おかしいよなぁ、俺……。美子のことを思い描くだけで胸がドキドキしてくる。
何でだろ? あんな女、全然俺の趣味じゃないのに……。茂人はフーッと息を吐いて自転車を降りると、店に入って行った。
「あっ、茂人さん、こんにちは」
今日は店のレジに美子の母親が立っていた。美子の母に『茂人さん』なんて言われると、婿養子にでもなったような気がする茂人だった。
「こんにちは……」
茂人はポリポリと頭を掻きながら、店の奥へ進む。
「具合、もう良いんですか?」
「はい、大分良くなってきましたから、今日から店に立っているんですよ。子供たちに店番ばかりさせるのも可愛そうですからね」
美子の母は美子にそっくりな顔で微笑む。店内には数人の客と、美子の上の妹が商品を陳列していた。小学生の弟二人と幼稚園の恵子はいなかった。
「あれ?……美子さんは?」
茂人は、『美子さん』などど自分で言って自分で照れる。
「さっきから台所で何か作ってるんですよ。すぐ終わると言っておきながらまだ戻って来ません。料理は茂人さんにお任せすればいいんですけどねぇ」
美子の母は、おっとりとした調子でそう言った。
「……」
美子の奴、何を作っているんだろうか? あの女に料理など作れるのか? 茂人は不安を抱きながら、台所へ入って行った。中からは甘い香りと焦げ臭いような匂いが漂ってくる。
「あっ、成川さん、こんにちは」
美子が鍋をかき混ぜながら、茂人の方を振り返った。
「……何やってんの?」
茂人は恐る恐る美子がかき混ぜている鍋を覗き込んでみた。鍋には溶けたチョコレートがブクブクと泡を出して煮えていた。
「焦げてるぜ」
「はぁ、また失敗ですね。何回やってもチョコレートが上手く溶けないんです」
美子は鍋をかき混ぜるのをやめて、火を止めた。
「バカだなぁ、チョコレートを溶かす時は湯煎にしなきゃダメだろ」
「湯煎?……」
美子がキョトンとした顔で茂人を見つめる。茂人は美子の顔を見ないようにして、焦げついた鍋を流しに持って行った。
「湯煎も知らねぇの?」
「はい」
茂人はハァと息をつくと、鍋にザザーッとお湯を入れた。
「あのね、チョコレートやバターを溶かす時は、直接鍋の中に入れないで、まず容器に入れてからその容器をお湯に浸すんだよ。そしたら中のチョコレートやバターが溶けるんだ。間接的に物を熱することを湯煎って言うんだよ。覚えとけ」
「ええっ、そうなんですか? 知りませんでした。ありがとうございます!」
美子は茂人の顔を覗き込むようにして微笑んだ。わっ、近寄るな。笑顔を俺に向けるな。胸がドキドキし始め、茂人は慌てて鍋をゴシゴシと擦った。
「今度は『湯煎』で試してみます。バレンタインデイまでにはどうしても手作りのチョコレートを作りたいので」
「バレンタインデイ?」
茂人は鍋を擦る手を止め、美子の方を見た。も、もしかして俺に手作りチョコを渡すつもりなんだろうか!? 美子のニコニコ笑顔をもろに見つめ、茂人の顔は湯気が出そうになるくらい赤くなる。
「だっ、誰に渡すんだよ」
「……」
美子は視線を落とすと、恥ずかしそうに笑う。『俺はいらないからな! 俺は百合香のチョコを貰うんだからな!』茂人がそう言おうとした時、
「父にあげるんです」
美子がポツリと言った。茂人は喉元まで出かかった言葉を辛うじて飲み込む。
「去年まではいつも買ってきたチョコレートを渡していたんですけど……今年は初めて手作りチョコが作りたくて。本当は生きてるうちに食べさせてあげたかったです」
「あ、あぁ、そう……」
茂人は大きく深呼吸する。何なんだこの女! 人をビックリさせて。美子がチョコを渡す相手が父親だったのは、良かったのか良くなかったのか、茂人には分からなくなってきた。
「あの、俺、手作りチョコ得意だから、作り方教えてやるよ」
「本当ですか! 嬉しいです!」
美子の顔がパァと明るくなる。
「バレンタインまでには覚えとけよ。……チョコ作りの時間もバイト代に入れといてくれよな」
「はい! 私、店からチョコレート持って来ます!」
美子はそう言うと、ドタドタと店の方へ走って行った。茂人は、またハァとため息をついた。体の力が一気に抜けていく気がした。今夜もずっと美子の笑顔に悩まされることは間違いなかった。