第14話 揺れる想い
「ぼっ、僕、カード持ってるから! 何時間にしようかぁ」
直樹はカラオケボックスの受付の前で立ち止まり、にやけた顔で鞄からカードを取り出す。百合香の女友達二人と茂人と直樹で、今日から開店というカラオケボックスにやって来た。
「今日は開店祝いの特別サービス料金になっております」
受付の若い女性が営業用スマイルで微笑みかける。
「じゃあ、いつもの半額なのね。成川君、何時間にする?」
百合香が、一歩後に下がって立っていた茂人を振り返った。
「え? そうだなぁ……」
茂人はぼんやりとしていた。百合香の美しい笑顔が、何故か目に入ってこない。
「と、とりあえず、四時間にしとこうよ」
直樹は皆の意見を待たず受付に申し出る。「ええっ!」「長くない?」という百合香の友達たちの声は、浮かれた直樹には届かない。
茂人は壁に掛かっていた時計を見た。五時を少し回っている。……もう、遅いよなぁ。
「成川君、どうかした?」
軽くため息を吐いた茂人に気づき、百合香がたずねた。
「えっ?……や、何でもない……」
茂人の目が泳ぐ。美子の店に電話くらいしといた方がいいかもな……あっ、俺、電話番号ひかえてないや……ケータイにも登録してなかった。
「あの、俺、やっぱり今日は帰る……」
無断欠勤は良くないし、初日だし。
「えっ?」
百合香は驚いて茂人を見つめる。
「ごめん、バイトある事忘れてた」
「バイト?」
百合香の困惑した瞳に心が揺れる茂人。
「ごめん……」
揺れる心を抑えながら、茂人は足早に店を出ていった。後で茂人を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らずに走った。
えっ? 何やってんだろ俺? 百合香のせっかくの誘いだったのに……。美子のバイトなんか無視してもいいのに。茂人は自分の行動に矛盾を感じるが、頭で考えるとは別に足が勝手に進んでいた。
いったん家に帰らず、そのまま電車に乗り継いで『にこにこ青果店』に向かった。駅からだいぶ離れていたため、青果店にたどり着いた時は六時を過ぎていた。
「あっ、昨日のお兄ちゃん、いらっしゃい!」
ためらいがちに店に足を踏み入れた茂人を、美子の弟が明るく出迎えてくれた。店内は昨日のように人で賑わっていた。
「あ、えーと……お姉さんは?」
茂人は頭を掻きながら店を見回した。レジの所には昨日と同じく美子の上の妹ともう一人の弟が立っていた。
「美子姉ちゃん?」
「あぁ」
「お母ちゃんと一緒に部屋にいるよ。どうぞ、入って」
ああ、今日退院するとか言ってたよな。茂人は小さな弟に案内されながら、店の奥に入って行った。
「こんばんは」
小さく声をかけたが返事はなかった。
「こんばんは!」
今度は大きな声で挨拶すると、ドタドタと走ってくる足音がした。
「あっ! 成川さん! お待ちしてました!」
美子は茂人の姿を見ると、遅れたことを気にしてる風もなく、いつものにこにこ笑顔を向けた。
「……」
茂人はちょっと拍子抜けした。嫌な顔するとか、たしなめるとか、そういう反応をするのが普通だと思った。なら、別に俺がバイトすっぽかしても何とも思わなかったのかもな、と茂人は考えたりした。
「あのさ、昨日はちゃんと時間決めてなかったけど、バイトって何時から?」
「時間ですか? そうですねぇ、何時からでも構いませんよ。成川さんの好きにしていただいて」
美子は細い目をもっと細くして笑う。……こいつ、怒ることあるのかな?
「そ、じゃ、バイト代は俺が来た時間からで良いよ」
なんだ、それなら焦ってバイトに来なくて良かった。茂人は少し後悔する。一時間くらいなら百合香とカラオケで過ごせたはずだ。
「あの、母親に会ってくれますか? 母がぜひ挨拶したいと言っているので」
そのまま台所へ行こうとした茂人に、美子は言った。
「母は成川さんにとても感謝しているんです」