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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

Shit Cat

作者: 塵野燃粕
掲載日:2026/11/07

  自分の見ている景色は人間と比べたら大きいのに、どこか窮屈で局所的だ。キジトラのハリーは、薄汚れたグレーの毛布の上であくびをしながら辺りを見渡した。お尻を後方に突き出し背筋を伸ばすと、眠気を感じながらも、目の前にある偽りの"夜景"の中を歩いて行った。"それにしても、あいつは物を散らかしっぱなしでちっとも片づけない。見るたびに酷くなっていくな"。木目の板の上に飛散した靴下やスナックの残骸をまるで地雷を避けるかのように、緊張感を漂わせながら華麗なステップで飛び越えていった。やがて、紫色の布地のソファを見つけてひとっ飛びすると、堕落した我が主・偽イエスの元へと向かった。テレビの光に照らされたその姿は青白くて、どこか不気味だ。

 

 「おぉ、どうした。メシか?」


 顎髭を生やした長髪のクセ毛の男が、ハリーに向かって話しかけてきた。上から下まで見やると、その体たらくっぷりが誰でも理解できることだろう。青のチェック柄のボクサーパンツと白のヨレヨレのタンクトップ姿で、全身のムダ毛が伸びきった様は、まさしく怠惰と不衛生の象徴である。辛うじて特大サイズの雪だるまにはなっていなかったものの、白い腹はタンクトップを突き上げて顔を覗かせていた。ハリーはいい加減にこの腐りきった異空間を消し去ってほしいと飼い主に懇願したが、願いは届かなかった。一点を見つめてる飼い猫に、飼い主は嫌そうな顔をして言った。


 「何だよ、違うのか?」


 もちろん、ハリーは引き下がらなかった。


 「頼むよ、ジョン。窓を開けて床のゴミを片付けようよ。こんな環境だったら誰でも気分が悪くなるし、ほら」


 ハリーは必死に訴えたつもりだったが、猫の言葉の理解できない飼い主は、ハリーが不満げに威嚇しているのだと勘違いしてしまい、思わず腹が立った。


 「何だと、この野郎?俺に向かってニャーニャー鳴くんじゃねぇ!」


 鳴いたハリーももちろん伝わるはずもないと分かってはいたものの、どうしても鳴かずにはいられなかった。だが、ここで諦める訳にもいかなかった。改めて何か方法を探すために辺りを見渡していると、四角く昼間の陽光の降り注ぐスポットを見つけた。この文字通りの希望の光を目の前に、ハリーはそのままソファから飛び降りると、床に散らばった障害物を避けながら窓辺に向かって走り、窓辺の奥行きのある縁に飛び乗った。そして、二足歩行になると黄ばんだレースカーテンを目一杯かき分け、しきりに前足で窓ガラスにラッシュを加えた。


 「開けてくれ、開けてくれ、開けてくれ、開けてくれ、開けてくれ!」


 ガラスを叩くせわしない音が光の射す方向から発せられた。ハリーは聖書の引用文を何度も唱えるかのように主に訴えたが、飼い主からしてみれば苦しみを訴える我が子の祈りではなく、永遠の休暇を邪魔する有難迷惑なものであった。飼い主は窓辺に近づくと、そのままハリーの脇腹に手を差し入れ床に下ろしてしまった。ハリーはゴツゴツとした枝が体を掴んだことに驚き身をよじったが、飼い主は気にすることなく、埃と毛の散乱した床にキジトラを置いた。


 「おいおい、叩くなよ。さっきからどうしたんだよ?ったく、面倒くさいやつだな」


 飼い主は地面にキョトンとして座り込んでいる、愚かなキジトラを見下ろした。ソファの上に飛び乗ってはまじまじとこちらを見つめ、しまいには窓ガラスを連打。一体どうしたものかと呆れてしまった飼い主だが、それは別として例の"楽しみ"があるならどうでもいいと、綺麗さっぱり忘れることにした。嫌なことは"引き出し"の奥に。男はそのまま愛しのハーブの元へと足を運んだ。



 飼い主の男はソファの近くに向かって、踏みつぶしたスナックや洗濯バサミを気にも留めないまま歩いて行った。手前にある物の散乱したガラス張りのテーブルから、半透明のビニール袋を引っ張り出すと、安物のプラスチックボディのライターも手に取った。


 「あったあった、これこれ。じっくり味わわせてもらうぜ」


 袋の中に手を突っ込み、緑色の葉っぱの詰まった紙で巻かれた物体を取り出した。形状こそはタバコであるが、先端の色合いが異質感を醸し出していた。次に飼い主は物体を1本摘まみ袋をテーブルに放り投げ、ライターで物体の先端に火をつけた。口に咥えて煙を吸い込むと、男の体内に喜びが広がった。


 「あぁ……」


 オーガズムのような快楽に全身を震わせながら、飼い主は吸って吐いてを繰り返し、そいつの全てを吸い尽くしてやろうとした。一方で飼い主の異様な姿に気づいたハリーは、最近ご主人様の連呼している"大麻"とやらを思い浮かべた。


 「またかジョン…」


 ハリーの脳内には朽ち果てた主の姿が瞬時に構築された。医療知識に乏しかったが、それが毒の類なのだろうと直感していたからだ。現に、飼い主は日に日に後退していった。


 「やっぱりあの大麻ってやつのせいだ。元から落ちぶれていたジョンが悪化したのは、きっとあいつのせいに違いない。何とかしないと」


  獣の研ぎ澄まされた嗅覚でハーブのような爽やかな匂いを感じ取りながら、飼い主を何とかしようと策略を練ることにした。まずは噛みつき作戦だ。飼い主の足首に噛みついたりするのだ。だが、ハリーはそれを即座に棄却した。なぜなら、飼い主にケガをさせることになるし、場合によっては思わぬ反撃を食らうことになるからだ。次に考えたのは、例の物体をどっかに隠す作戦だ。ハリーは我ながらに名案だと頷いた。

 

 「コイツはいけるぞ」


 物体を隠すだけなら飼い主にケガを負わせることもないと考えたし、何より頭の回転の遅くなっていく今の主なら欺けるという、妙な確信があったからだ。とはいえ、飼い主のことを知り得る限りで誰よりも見てきたハリーは、一種の懸念を抱いた。


 「でも…、あれがなくなったらジョンはメチャクチャ怒るんだろうな」


 今の飼い主は大麻に貼り付くかのように依存していた。引き剥がしたとしてもすぐに見つけるか別の物を手に入れるだろうし、何より飼い主の怒り狂った姿が怖かった。今から一週間ほど前に袋を無くして道具やスナックをぶちまけた様子は、まさに悪魔そのものだった。ついには手足に楔が打ち込まれたかのごとく、ハリーはその場に固まってしまった。


 「やっぱりダメだ」


 どう転んでも危険でしかない状況下で、ハリーは諦めかけてしまった。成す術なく、このまま目の前のご主人様を見殺しにしてしまうのか。その時、突如として奇跡が起こった。


 「んっ、何だ?どこだ?」  


 飼い主はスマホの着信音を聞いた。若い女性の喘ぎ声を頼りに本体を探したが、どうにも見つからない。方向は定まってはいるはずだが、一見しただけじゃ見つからなさそうだ。


 「あれっ、どこに置いたんだっけ?」 


 飼い主はスナックや小物を踏みつけながらウロウロと歩き回り、バケツ型の黒いゴミ箱の中から光が漏れていることに気がついた。飼い主は何も躊躇いもなくゴミ箱に手を突っ込み、それを取り出した。宛先はお袋からだ。鬱陶しさを感じたが、折り返されるのも面倒に思い、出ることにした。


 「どうしたんだよ、母さん?俺のことはほっといてくれ」


 相手は引き下がるどころか、むしろ詰め寄ってきた。


 「何馬鹿なこと言ってるんだい?お前のことが心配でかけたっていうのに」


 飼い主が母親からの電話をしているのを見たハリーは、期待のあまり高揚した。


 「よぉし、いいぞ…!」


 ハリーは聖母マリアのお叱りで飼い主は改心するだろうと思っていたが、どうやら一筋縄ではいかないようだ。飼い主は聞き飽きた母親の言葉に怒りを爆発させ、スマホを壁に叩きつけた。こうして物理的な障害により、救いの手は離れていった。


 「あぁ、しまった。クソッ!」


 飼い主はスマホを壊してしまったことに対し、自己嫌悪や更なる怒りを抱いた。"自分はなんて馬鹿なことをしたんだ。YouTubeやApple Musicも使えなくなるなんて"。ついにはその場に座り込んで、泣き喚いてしまった。

 

 「クソ…、あのババア…!あいつのせいだ!あいつが悪口を言ってきたからこうなったんだ!!クソ、クソ、クソ、クソ、クソッ!!」


 どうやら泣き喚くだけには留まらなかったようだ。ハリーは目の前の堕落しきった情けない主を見て、失意のどん底に陥れられた。


 「そんな…どうして?」


 希望の光をも断ち切る遮光カーテンのような男は、独り言を済ませてしまうと、そのまま寝室に向かって行った。ハリーはその後を、床上の成れの果ての怪物たちを回避しながらついていった。


 「それにしても…、酷いなっ!何なんだこれは?」


 哀れなキジトラの足元には更なるゴミたちの姿が映っていた。スナックや洗濯バサミだけではない。汁の僅かに残ったカップヌードルの筒、使用済みの糸ようじ、果てには精液のカピカピに乾いた性処理の痕跡まで発見した。ハリーは子を生さない不要な体液の犠牲となったティッシュがかわいそうだと思わずにはいられなかったが、それは別として飼い主の様子が気になって仕方がなかった。更に後をついていくと、そこにはゴミ袋でできた土嚢のような光景が広がっていた。ハリーは壮大な汚部屋に驚きのあまり口を閉じれなくなったが、彼をそうさせた原因は別にあった。


 「ジョン…、君は本当に救いようのないダメ人間だな」 


 何とそこには、のっぺりとした質感で黒ずんだマネキン女に張り付く飼い主の姿があったのだ。しかも二人とも全裸だ。"これはどういうことなんだ?"。室内に縛られた童貞猫には理解できない事情がそこにはあったが、目の前の人間のオスの性欲は歪なイマジネーションを形成しながら、鳥かごの中に新たな異空間を築いていた。



 ハリーは僅かな躊躇いがあったものの、その場を静かに去ると、先ほどの飼い主の醜態を忘れようと灰色の毛布のベッドに戻るなり、横になり目を瞑って夢の世界へと旅立つのを待った。一分、二分、三分…、十分…。どうやら、こちらのトリップは失敗のようだ。しばらくしても、ハリーの意識はハッキリとしていた。薄暗い部屋の中で灰色の塊が身をよじって目を見開いた。ヘーゼルグリーンの瞳にはみなぎる生気が。


 「ダメだ…、眠れない」


 この時のハリーにはただ一つ、捨てきれない可能性のカケラが残されていた。"今のジョンは完全に壊れてしまっている。でも、僕へのエサは毎日のように与えてくれるし、少なくとも買い足しのために外出をすることはある。遭った人は嫌なんだろうけど"。ハリーは捨てきれない可能性に呼び起された訳だが、本人の中には完全に諦めて捨て去りたい怠惰で脆弱な自分もいた。


 「ジョンはもう終わったんだ…。これ以上は嫌だよ…」


 哀れなキジトラは再び目を閉じると体を丸めて、前足で耳を塞いだ。



 一方の飼い主はというと、ものを言わない無機質な奉仕者を前に駆り立てられて

いたものの、やがては虚しさと恥ずかしさに襲われて行為を止めてしまった。人形の穴にティッシュを突っ込み、一物の先端から精液を拭き取ると、奉仕者をゴミ山へと突き落とした。そして、仰向けになって天を見つめると、ふと呟いた。


 「ダメだな俺は…」


 飼い主はただ認めたくなかっただけだった。現実の悲惨さを、自分自身を。胸の中の暗がりに僅かに明るくなったような気がした。


 「戻りたいなぁ」


 "あの頃の自分は幸福の絶頂だった。いい職について、趣味を分かち合える友達がいて、おまけに彼女もいた"。しかし、飼い主は肝心なことを忘れていた。"あぁ、ハリーだ。確かボーナスの給料で買ったんだ。自分の世話ができるようになってきた頃に、ふと猫を飼いたいなって…"。


 飼い主には夢があった。それは猫を飼うことだ。だが、お金に余裕のない家庭に生まれて、おまけに母親が猫アレルギーの飼い主にとってそれは、夢のまた夢の話である。大学に進学して寮生活になっても、それは同じだ。何せペットを学内で飼うことは許されていなかったし、学生バイトの安い収入だけじゃ飼育も保険料の支払いも出来るはずがなかった。大学卒業後は中小企業のシステムマネージャーとして就職し、僅か数年で大きな稼ぎを獲るようになった。ある年のこと、飼い主の中に長年の夢を叶えたい願望が芽生えた。それからと言うものの、ネットや図書で下調べをしながら、空いた時間に近場のペットショップと保護施設を訪ねるような日々を過ごすようになっていた。ある日のこと、飼い主は野良猫の保護団体から、野生のキジトラの赤ちゃんが捨てられていたのを聞き、色目を変えて飛びついた。飼い主がそこへ駆けつけると、よちよち歩きで手足のしっかりしていないキジトラの赤ちゃんを見つけた。それがハリーとの出会いだった。


 「よせ、考えるな」


 飼い主はそのまま時間の流れに身を任せて、眠りについた。



 飼い主はかつての風景を懐かしみ眠りについたが、しばらくして目が覚めてしまった。不規則な生活によってバイタリティに狂いの出た飼い主は、強烈な頭痛と吐き気に襲われた。全身の血液が生温いスライムに置き換わったかのように全身は重く鈍っており、頭蓋の中にはとてつもない圧迫感が生み出されていた。


 「うっ…!」


 張りつめて今にも破裂しそうな頭を抱えて飼い主は上半身を起こすと、シーツの上のボクサーパンツとタンクトップを着て、ベッドから出た。足元は覚束ず、視線はブレている。すると飼い主は、ゴミ山に足を取られて前方に転倒してしまった。"(ドサッ!)"。幸いにも両手を差し出して頭部の強打は免れたものの、腕には痺れと痛みが生じた。やがては痺れがとれ、血液が巡ってジンジンと熱くなるのを感じた。


 「クソ…痛ぇな…。邪魔くさいゴミどもだ」


 生の感覚が飼い主の体に訴えてきたその瞬間、壊れたスマホの残像が蘇った。"そうだ、あれが壊れたままだった。でも、どうするんだ?"。やがて立ち上がると、YouTubeやApple Musicは別として、連絡手段やネットへのアクセスをしなければならないと僅かな使命感を抱いた飼い主は、何か変わりとなるデバイスはないかと考え始めた。


 「それにしても、どうしようか。何かなかったか…?」


 とりあえず考える時間と場所が欲しかった飼い主は、寝室から出ると、床のゴミを出来る限り避けてソファを目指した。時折床に落ちていたスナックや小物を踏み苛立ちを覚えたが、それと同時に飼い主はいつぶりか自分は生きているんだと、そう実感した。


 「不思議だな。今になって気づくなんて」


 "何年振りなんだろうな。ゴミが汚いって思えたのは"。短い道のりだがゆっくりと、それでも着実に進んでいく。飼い主は自分でも信じられないワースト記録でソファにたどり着くと、ようやく気が休まり腰を落ち着けることができた。息を深く吸い、吐き出していく。そして、ガラス張りのテーブルにあった生温いミネラルウォータを飲み、乾いた唾液を喉に流し込んだ。首を背もたれに乗せ、天を仰いで目を瞑った。


 「よぉし、考えろ。何かあるはずだ、何か…」


 意気込むところまでは良かったものの、すぐに行き詰った。黒ずんだ潤滑油と錆ついた軸受けが、しっぺ返しのごとく飼い主を苦しめた。


 「ダメだ、頭が回らない…」


 飼い主は長年の怠惰のツケを一身に受けて苦しんだが、今度ばかりは逃げなかった。風化した日常の断片をかき集めて、一つ一つ枠の中にはめ込んでいく。ピースこそは少なかったものの、それらは意味を成していた。


 「仕事、仕事、仕事…。これしかなかったのか?」


 飼い主は我ながらに戸惑った。堕ちた生活をする前からすっかり企業インフラの奴隷と成り果てていたからだ。毎日のようにコードを考え、毎日のように昼食を抜いて時間を切り詰め、毎日のように自分と向き合う時間を犠牲にしていた。自分はとっくの昔に破滅を約束されていたのだろうか。


 「そうだったな。あの頃の俺はとにかく仕事の事しか頭になかったな」


 飼い主は過去を振り返っていく中で、秘密の労災保険に署名した痕跡を探したが、もちろんピースのカケラから真実を確かめることはできなかった。しかしそれは別として、スマホに替わる頼もしい相棒の存在を思い出すことができた。


 「Mac Book…!お前だ!」


 それはかつて、飼い主が業務に使うコードの書き出しや検証を行っていたノートPCだ。だが、依然として錆びきった脳みそが記憶の再生を妨げた。


 「でも、どこにあるんだ?」


 飼い主が憶えうる限りではその在り処は不明だったが、すぐに検討がついた。


 「"嫌なことは引き出しの奥に"…。あそこか?」

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