05 雨
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「このあたり、足場が脆くなっていますから気を付けてください」
「は、はい……」
手を差し伸べ、にこりと微笑めばエリュシアはぽっと頬を染めてカイルの手を掴んだ。やはりカイルに気があるのは間違いないようだが、まだあの件については確証が得られない。
意図的なのか無意識なのか――あなたは悪獣を操る力を有しているのでは。
そう訊けてしまえばどれほど楽なのかわからないが、切り出し方によっては結果的にその力の暴走が起こらないとも限らない。
ヘルタート山脈内で活性化した自分たち一団が悪獣に襲われたとしても被害は最小限で済む――麓の屋敷にいるアンジュは無事だろう。
仮に悪獣を操っているのがエリュシアなのだとしたら、この入山でも彼女が危険に晒されることはないはずだ。そう思って連れてきたがその判断はあながち間違いではないようだ。その証拠にヘルタート山は前回這入ったときとおなじように、しんと不気味とも言えるような静寂が満ちていた。
風のそよぎもなければ、動物の鳴き声も聞こえてこない。誰もかれもが息を潜め、決定的な瞬間を待ち続けているような気配があった。
そのときがくん、と大地が大きく揺れた。
地震かと思ったが違うようだ――その揺れは一度きりで収まってしまったが、隊員が「あっ」と大きく叫んだ。
「……あれは、悪獣? 悪獣です! 単体の模様っ」
「待て! 早まるな」
震源のもととなった黒い煙のようなものが立ちのぼる箇所に、隊員の一人が駆けて行った。すると激しい雷と共に勢いよく後方に跳ね飛ばされる。
「ひ……」
「っ、エリュシア嬢は下がっていてください。我々で対処します」
隊員が隠れていた悪獣の巣を突いてしまったらしい。
飛び出てきたのは巨大なネズミのような黒い影だった。背で庇うようにカイルは前に出る。
「お待ちになって、黒竜公……!」
「ご心配なく、あなたには傷ひとつ負わせません」
天候が急激に悪化し、雨粒が地面を叩き始めた。黒雲が空を覆う。
鋭い稲光が待機を幾度となく切り裂いた。視界が悪いうえに雨に濡れ前髪が顔に張り付く。いまにも飛び掛かって来るだろう悪獣の動きを目で追い続けていたのだが――。
「隊長!」
「ああ――わかっている」
悪獣はじりじりと後退して、カイル達が攻勢に転じる前に雨の山道へと逃げ込んでいった。
「追いますか」
「いや、いい」
「しかし……」
「いいと言っている。この先に野営できる場所がある、そこまで行って雨を凌ごう」
エリュシアに自らのマントを貸し与えるとカイルは急ぎ部隊を率いて、以前の入山で目星をつけていた洞窟まで避難した。雨の吹き込む入り口付近で焚火をすると、隊員たちは服を脱いで濡れた身体を乾かしていた。
隊員たちの視線を避けるようにして洞窟の奥にまで導くと、カイルはエリュシアの前に跪いた。
「申し訳ありません、エリュシア嬢」
「濡れてしまったでしょう」
「いえ、閣下がマントを貸してくださったので。それに……私一人であれば、その」
「……魔術で乾かすことが出来るのでしょう」
カイルが言うと、エリュシアは痛みを堪えるように俯いた。
「――気付いていらっしゃったのですね……私が扱っているのは聖女の加護ではなく、支援魔術だと」
彼女が小さな声で呪文を唱え、ぱちんと指を鳴らしただけで雨に濡れた服が一瞬で乾いた。ついでにそばにいたカイルの服も乾いていた。
これを大っぴらに行えば他の隊員たちにもいままで扱って来た彼女の力が一般で言うところの「魔術」にすぎないことを見破られるだろう。
「どんな方法であれ、貴女が我々にお力を貸していただいたことに隊長として――黒竜公カイル・エヴァリストとして感謝いたします。エリュシア嬢」
「……っ」
エリュシアはぶるぶる身体を震わせていた――寒いのだろうか。雨に濡れた衣服は乾いたとはいえ、この洞窟はひんやりとした空気に満ちている。
「少々お待ちいただけますか。隊員の魔術師を呼んで此処にも火を起こさせましょう、そうすれば少しは――」
とん、と軽い衝撃が背中に走った。
「私、黒竜公でしたら……構いませんの」
囁くようにエリュシアは言った。
エリュシアの女性らしいやわらかな身体を背中に感じ、カイルはぎくりとした。背後から抱き着かれているのだとはすぐにわかったが頭が受け入れようとしなかった。初めての経験ではないというのに、冷や汗がエリュシアと接している背中に伝うのを感じた。
「エリュシア嬢……」
言いながらカイルはごくりと唾を呑み込んだ。
此処で甘い言葉を囁き、キスの一つでもすれば彼女の心に入り込むことが出来るだろう。彼女が抱える悪獣に関する秘密を引き出すことも容易だ。
「おやめください」
それなのに思いの外、冷静な声が身の内から出てきたことが自分でも意外だった。
「俺には妻がいます」
「……存じております、でも黒竜公でしたら――ほかの女性を愛することも出来るのでは? それとも、私はそれほどまでに魅力がございませんか?」
カイルは意識的に深く息を吸い込んで、吐き出した。その呼吸音さえも洞窟の闇の中に吸い込まれてしまう。
「貴女はとても魅力的な方だ――ですが、俺の心はもうすでにたったひとりの女性に捧げられているのです」
だから貴女の想いに応えることはできない、と。冷静を装いながら、カイルは静かに口にした。
しばらくの沈黙の後に、エリュシアが離れていく気配がした。
「ひとりにしていただけますか」
「あまり奥には行かないように――ゆっくりお休みください」
カイルは振り返ることなく、洞窟の入り口へと戻っていった。
洞窟の奥の闇の中で、ぴちゃりと水滴がしたたり落ちる音が響いていた。




