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悪役令嬢〜聖女と呼ばれた彼女は、なぜ王子を殺したのか?〜

掲載日:2026/07/11

人と人とが分かり合うなんて、夢やおとぎ話のような代物のように思える。


少なくとも、私にとってはそうだった。


有能な商人の登用を認め、爵位を与えるという現行の国法がなければ入学も許されなかったであろう、貴族の子息子女の学校こと貴族院。私はそこに、一人の平凡な下級貴族として所属することになった。そこに私の意志はなかった。


「うちもとうとう貴族となったのだ。貴族と同じ勉強に励むことで、この家をより大きく盛り立てておくれ」


楽観視が過ぎるとはまさにこのことであろう。自分の考えに有無を言わさない事も、多分父は気づいていない。私が、私の意見を言おうとすると、途端に不機嫌になる。だから私は、はい、お父様、という他なかった。


今思えば、どこにも居場所がなかった気がする。


寄宿舎で生活する前、要は、入学する前の生活を思い出す。父が、見せびらかすために買った全集を黙々と読んで、教会に赴く。そんな人間だった。でもどちらも、習慣にこそなっていても、息苦しさからは離れられなかった。


文学は教養である。一方で、東洋の方から流れてくる本の中には、とても本とは呼べないような、諧謔も音韻もない、ただ日常を綴っただけの話がいくつかあった。いつも金を酒に使ってしまって、同棲相手はいつものように愛想を尽かしてどこかへ消えてしまって、残されたのは酒飲みの自分と、ただ泣くばかりの自分の息子。その息子をおんぶして、でも行くところもないから仕方なく酒場へ行って、ずっとうじうじとするだめな男を描いた話は、当時の私は衝撃を受けたものだ。


これが文学であるなら、私は父に与えられたすべての国風の本と引き換えに、この著者の、このような話を丸ごと買ったっていい。


しかし現実は、使用人の一人がこの本を見つけて、風紀紊乱のために回収されていると、勝手に官憲に持っていかせた。遠い東洋のこの作者は、扇動の咎で捕まって、絞首刑となったらしい。


この世は、美しいもので満たされている。すべては完璧に調和し、満たされている。それは、神によるものだと言われていた。


何度も教会に足を運んだのは、救いを求めてのことである。この世界が本当に完璧なら、どうして私はこれほどまでに息苦しさを抱えて生きているのか、分からなかった。


聖書に描かれる救世主は、まるきり謎かけばかりで、とってつけたような奇跡をもたらす。そして、無力のまま死ぬ。これを教えであると強調する司祭の言葉が、理解できなかった。奇跡を他愛もなく起こすかと思えば、すべてに裏切られて無力のまま死に、そしてその死は、何も引き起こさなかった。弟子が書いた福音は、妄想と大差ない。


司祭は聖書にすべてが書かれているという。しかし、私の渇きは、全くと言っていいほど癒されることはなかった。


神を信じよ、父や母を大事にせよ、すべてのものと仲良くしろ、神の前に、人は平等である。


その父と母は、私の一生から、私自身を排斥しようとしていた。家ぐるみで付き合っていた私の幼馴染は、友人に散々貢いだ挙句、捨てられた。幼馴染がその友人と付き合わなかったら、きっとそれなりの幸せもあっただろうに、実家から勘当されて掏摸を働いて糊口を凌ぐ日々である。


何より、人が平等であるならば、どうして父は、少しでも上の爵位を得ようと貪欲に、貴族に教会に莫大な布施を続けているのだろうか。


疑問は、山のようにある。でもそのどれかを口にするだけで、破滅が舞い込んでくるのは明らかだった。本は今日も、息苦しい文字の羅列を押し付けてくる。教会は、それ自体が絶対的で疑問を抱くことを許さない。でも、生身の人間を相手にするよりは、まだ付き合いやすくて、私はそこに逃げ込んでいる。その擬態を見て、人は私を教養に生き、信心深いと勝手に思い込んでいる。


司祭からすれば、救世主はいるのかもしれない。しかし、磔刑に処されたその人が下りてきて、私に微笑みながら、道を示してくれることはない。どんな病も癒した救世主はたかだか小娘の悩み一つも解決してくれない。私は、「正しさ」の中で溺れて死にかけている。自分の精神的な支柱、根っこが、どんどんと、押し付けられる異物で腐っていくのを、嫌でも感じた。



王子が私に目をつけたのは、私が信心深い、という噂を聞いてのことだったと思われる。初めて会ったのは学校の敷地のなかにある教会で、私はしばし、誰もいないその場所で物思いにふけることがあった。


「今どき珍しい、信心深い子だな」


と彼は言った。とんだ間違いだ。私はここでもまた、幻滅した。教会という地上の神の家で相対するのは、片やこの国の頂点であり、片や貴族の最底辺である。平等なはずの二人が、とても同じ人間のようには思えない。現に彼の下げているサーベルは、下位の者が無礼を働いた時、切り捨ててもよいと聞く。いったいこれのどこか平等で、完璧な世界なのだろうと、私は悪魔に縋るような恐怖を抱きながら、その疑問を手放すことができなかった。


疑問を口にしたら最後、司祭が怒り心頭で詰め寄ってきて、悪魔め、と罵る程度では済まないことは、百も承知だった。


新興の貴族の家にとって、上流階級との接し方というのは、実のところほとんどノウハウがないというのが現状であった。知識は武器であり、宝である。阿漕な商人とは相性が悪い。貴族として一括りにしても、底辺と王族とでは、天と地ほども差がある。


一挙一動が、ストレスだった。私は早々に立ち去り、また日を改めて教会に赴くのだが、やがてそのタイミングを読み始めたのか、私が救世主の像を見上げていると、決まって後ろから気配を消して、現れる。いつものようにサーベルを携えて。


王族の権威は、教会によって保証されている。神の国の支部が地上の教会だとすれば、この王国は、その地上の教会から、より良き治世のためと権力を認められ、後ろ盾となってもらっている。


では、その始まりは?


王家はどのように選ばれて、どのような資格を認められて、王権を得たのか。聖書と同じく、これもまた、ぼかされている。都合が悪いのか、それとも、辻褄が合わないのか。そういった一つ一つが、体制が、社会が、私に不信を、不満を抱かせるのには十分だった。


そして、その矛盾の頂点のような人間が、私に目をつけている。どうせすぐに飽きていなくなる、その執着は一時のものだと自分に言い聞かせてみるのだが、どうにも人どの距離というものを知らないかのような振る舞いである。人を勝手に信心深いと思い込んで寄ってきて、今も、律法について議論でもしたいのかウズウズとしている様子だった。



王子が新興貴族の娘と、教会で逢引をしているという噂が立ち始めたのは、わりと初期の話である。憤然としたほかの貴族令嬢がこちらを取り囲み、


「あなた、マナーというものも知らないの!?」


と自分のことのように激怒する。


「これだから、生まれが卑しい、本来貴族に名を連ねるべきでない者は!未婚の女性は気軽に異性と二人きりになることはないし、そもそも殿下は、サンドレア公爵令嬢という婚約者がいらっしゃるの!そこに割って入ろうだなんて、不敬よ!」

「お言葉ですが」


と、私も私なりに反論した。


「私はこの学校の教会が、好きなのです。今まで誰もいらっしゃらなかったから」


今まで誰もいらっしゃらなかったから、この息苦しい貴族学校での生活も我慢できていたのです。それを邪魔しに来たのは殿下の方なのです。


流石にそこまで言えば、不興を買うのは間違いなかった。故に口をつぐんだが、それだけで彼女たちは私を売女扱いするようになった。


教室で孤立した。それだけではない。仕舞ってあった異国の本が盗まれ、生徒たちに配られる聖書は、一部が破り捨ててあった。嫌がらせ、と言うにはあまりにも不信心なやり口に、私は驚く他ない。


結局のところ下町でも、貴族たちの間でも、教会というのは、その程度の扱いなのかもしれない。私のように信じていないのに、信じているふりをしている連中が山のようにいるということなのだろう。


しかし、私は自分を偽ることができない。だから、神を信じるか、と尋ねられれば、沈黙をもって返す。


一方で彼女たちは、信じます、と言える。信じていないものを信じていると、当たり前のように嘘がつける。


それが処世術なのだろうか。そして、教会も、それでいいと思っているのだろうか。偽善と悪が、吹き溜まりのように募る。


ーーもし仮に、宗教が教えるように生活をせねばならないのなら、きっと多くの民は、自分たちの生活が成り立たぬことに気づくだろうーー


大胆に言ってのけた、異国の本の著者を思い出す。あれくらい口にできる方が、あのような疑問を抱くこと自体が、二言目には神への祈りを唱える人々より、より誠実に思えた。


根比べのように、私は教会に通い続けた。そこに王子が現れても、無視した。今までだって話しかけられなかったのだから、無視しても問題あるまい。


それにしても、王子と私が逢引とやらをしているとまで噂になっているのなら、王子が私の姿を確認してから現れることも、私の後をつけているということもわかっているだろうに、私だけが罵られる。悪女というレッテルが貼られる。王子も王子で、そんな噂が聞こえてこないとは言わせない。だと言うのに、私につきまとうのは、なぜなのか。


ある時、いつものように救世主の像を見上げていた。後ろからコツコツと足音が聞こえてきた。私は目もくれず、彫像の方を見つめていた。


「殿下なら、来ませんよ」


静かな声だった。足音と気配は一人分しか感じられない。私は振り返った。


一目で彼女が、婚約者の公爵令嬢なのだとわかった。私は言った。


「期待などしておりません。私がここに足を運ぶのは、殿下が目的ではありませんから」

「あら……ならば、何が目的だったの?」

「静謐な空気と、自分だけで考える時間です」


率直に、あの王子は邪魔だ、と答えた。公爵令嬢は、目を丸くする。


「あの人にとって、あなたはお気に入りらしいけれど」

「私はただ、ここにいて、ずっとこの像を見上げていたに過ぎません。それをどう解釈されるかは、人によるかもしれません」

「そうね、人によるわね」


公爵令嬢は、近くの椅子を引き寄せて、座った。


「殿下はあなたのことを、聖女なのだと仰っているわ。男を立てて、余計なことを喋らず、そこにいるだけで華があるのだと」

「誤解であるとお伝えください」

「あら、そうなの?」

「そもそもーー」


私は言う。


「そもそも、殿下の許しなしに、私ごときが口を開けるはずもありません」


公爵令嬢は目を丸くして、クスクスと笑った。


奇妙な友情のようなものが、芽生えた。邂逅は一度きりだったが、色々と搦手を使ってくるいわゆる貴族令嬢達に比べて、直截に話を聞き、話してくれる彼女に、私は好感を抱いた。


だんだんと、教室での居場所がなくなってきた。時に、休憩時間になった途端に、クラスメイトが私の席をぐるりと囲んで、動けなくした。どの人の目にも、怒りと、侮蔑と、正義の憤りが浮かんでいた。


それを破って迎えに来たのは、王子だった。いよいよ体裁も繕わずに、彼は私の教室に乗り込んできたのである。


「せっかくだ。今日は、教会ではなく、私の部屋で語らないか」

「結構です。私が身を置きたいのは、あの場なのです」

「なるほど、やはりそなたは、聖女なのだな」

「違います」


すれ違う。言うことを、聞いてもらえない。誰も、私をまともに扱っていないのに、各々のイメージを押し付けてくる。


それが、貴族社会だからとは、とても思えない。恐らく、下町のそれなりの学校でも同じことであろう。教会に足繁く通って、それが異端であるからという理由で嫌がらせをされる。教師は、それが善きことであるからと庇う。ますます、他のクラスメイトは、嫌がらせに本腰を入れる。


私は聖女なぞではない。神だって、信じていない。疑義を呈しないのはひとえに、異端審問が怖いからである。それなのに、周りが勝手に祀り上げていく。


学園で、最初のパーティがあった。王子の名で送りつけられたドレスが届いていた。逃さないとばかりに、当然顔で迎えに来た彼は、笑顔だった。婚約者も放り出した彼を、身分違いの恋、と無責任に囃し立てる連中がいた。サーベルが、囃子のように鳴った。


私の席は取り上げられていた。王子の取り巻きに案内された席は、王子の隣だった。見回す私の視界に、諦めたように笑う公爵令嬢の顔があった。羞恥のあまり、私は自分の顔が赤くなるのが分かった。


「今日は、放課後の聖女について紹介しよう。いつも、かかさず教会に通っている彼女のこと……私は、今日こそ彼女に何か、話してもらいたいと思っている」


私物化だった。パーティの私物化。それに喝采を寄せる生徒たち。この世の権力が、私を宗教的権威に祀り上げようとする。私は、立ち上がった。


「一人の娘の話をします」


と、私は言った。


「普通の娘でした。親は見栄っ張りで、でも、娘に不自由のない生活を与えてくれました。しかし、彼らは、私の意志だけが気に入りませんでした。私が少しでも我を出そうとすれば、嫌な顔をして、こっちのほうがいいんじゃない、と言うのです。それは、実のところ命令以外の何物でもありません。


家には本がありました。しかし、そこには決まった文法で決まって神を讃えるような作品ばかりでした。私が求めているのは、もっと人に寄り添ったものでした。完璧を讃えるのではなく、不完全を足掻く人の話です。しかしそういった本は、風紀を乱すとして、取り上げられます。私はその本以来、本物の本にお目にかかったことはありません。


ならば、あらかじめ完璧であると保証されている神はどうか。私は足繁く教会に通いましたが、あるのはただ失望だけでした。すべての人を見守っておられるという神は、その実、小娘のちっぽけな悩みや苦しみというものを黙殺するばかりで、その万能な力を振るってはくれません。


神が完璧に整えた世界であるなら、どうしてここに苦しみがありましょう。嫌がらせがありましょう。貧困がありましょう。病気がありましょう。


返せるはずもない金を借りて、身内のために薬を買って、奴隷として売られていく人を見ました。ある地主との裁判のなかで、実家が地主より多くの金を寄進して、勝訴したことがあります。地主の家は取り壊され、先のない老人の家が失われ、別荘をいくつも持っている我が家に、新たな別荘が加わりました。しかし、教会によれば、正しいのは我が家の方なのです。


みなさんも聖書を読めば、疑問を抱くでしょう。数々の奇跡を起こした救世主が、磔刑に処される時に、全くの奇跡を起こさなかったこと、起こらなかったことを。完璧なはずの神が遣わした救世主の物語でさえ、完全とは程遠く、歪なのです。だと言うのに教会は神を完璧とし、その教会は地上の権力たる王家を後押しし、王族はその権威を疑おうともしません。貴族も、商人も、民でさえも」


私は、とうとう言った。


「私には、歪なこの世界を、完璧な世界だと、最も優れた世界だと、決めつけて讃える人々が、皆さんが、歪に見えて仕方がありません。皆さんこそが、偽善です。矛盾を無視して、完璧だと言い募り、現実から目を逸らそうとする、この在り方こそ、最も悪魔的な在り方なのだと、私には思えて仕方がないのです」




広間が静まり返った。


やがて、さざ波のように怒声が響いた。引っ込め、何様のつもりだ、卑しい家の女がーーと、貴族たちから不平不満が飛び出す。顔面を蒼白にした王子が私の前に立って、指を突きつける。


「私を笑い者にしたな、悪魔め!さては、この瞬間を狙っていたのだな!」


私は答えない。今までずっと自分が正しいと信じて生きてきて、それに疑問を抱かなずに済んだというのは、さぞ楽な人生だったろうと思う。私はもう、すべてを手放した。私にもう、失うものはない。


だとすれば、この世の矛盾のうえにふんぞり返るこの男に、一言告げるだけである。


王子がサーベルを引っ張り出した。怒りのせいか、その切っ先が震えている。


蹴りつけた。震える手からはじき飛ばされたサーベルが、くるくると宙を舞う。落ちてきたそれを掴んで、私は言った。


「ただ知らなかった、ただその場にいなかった、ただ無力なだけだった、ただ抗うすべがなかった。そうやって生きていて、これからもそうやって生きていかなきゃいけない人間のことを少しでも、考えたことがありますか?」


「報いを受けろ」


袈裟がけに振り下ろした。肩肉に食い込んだ刃が、ぎりぎりと体の中央にめり込んでいく。ぶしゃっ、と血飛沫が真っ二つになりかけた体から吹き出す。たたらを踏んだ王子の股あたりから、振り下ろした刃が飛び出した。


王子だったものが、どっと倒れる。私は血まみれのサーベルを投げ捨てた。からん、と軽い音が響いた。


兵士たちが殺到するーー私は避けなかったーー穂先が鈍く光っていた。魔女め!罵りの言葉が、あまりにも陳腐だった。


異物が肉を啄んだ。遅れて体のあちこちを、穿たれる。血を吐いた私は、結局誰とも分かり合えないまま、死んだ。



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