天才と天然は紙一重
天才になれば人生上手く行くなんて思ってる奴は、きっと本当の天才ってヤツを知らないんだろうな。
物語の中の天才と違って現実に生きる天才は、嫉妬と無理解の壁に悩まされる。
この世の中、天才を素直に受け容れて崇めてくれるほど“天才を諦めた人間”ばかりじゃないからな。
ライバルに競争心を燃やすって、通常なら良いことなんだが――世の中、ソレを“正々堂々競い合うこと”に費やす奴らばかりじゃない。
相手の足を引っ張って底辺に引きずり下ろすことに、昏い悦びを見出す奴も多いのだ。
相手が堕ちた分、自分が浮かび上がれるわけでもないのにな。
天才に仕事をさせず“適材適所”を狂わす嫉妬ってヤツは、本気で社会の病巣だよな。
天才は天才であるというだけで、敵が多い。
天才が最初に覚える処世術って“如何に嫉妬を回避するか”なんじゃないかな。
このスキルを身につけずにいると、天才だろうと生きづらさで普通に人生詰むからな。
一番てっとり早くて簡単な回避術は、その天才性を隠すことなんだが――僕は、もう一段階ランクが上の、もっと使い勝手の良い方法を知っている。
――天然に擬態することだ。
そもそも天才ってヤツは、思考の次元からして、平均的な一般人とはズレている。
それで無理に凡人のフリをしたって、何が普通か分からなくて演技が破綻するだけだ。
だったらそのズレを、逆方向のズレに見せかければいい。
天才と天然は、どっちも普通からズレていることに変わりは無いのだ。
小学生の頃、ある問題について皆で話し合っている時、解決策を意見したことがある。
黒板に書かれた箇条書きを見るともなしに眺めていたら、ふいに“答え”を閃いたので、それをそのまま口にしたのだ。
僕としては『こんなに早く最適解が見つかって良かった』という感覚だった。
だが、周りの皆は、ぽかんとしていた。
奇妙に呆けた顔のまま、皆は何故か僕の意見を黙殺した。
僕の意見を無視したまま、議論は白熱するでもなくダラダラと続き――結局、僕と同じ結論に至って終わった。
そうして議論が決着する頃には、僕の意見は無かったもののように忘れられていた。
それからも度々、似たようなことがあった。
僕の発言は、何故だか誰にも届かない。
まるで奇妙な言葉でも聞いたような顔で流される。
なのに、よく分からない紆余曲折を経た後に、結局皆、僕と同じ結論に落ち着いたりする。
まるで、防音硝子の瓶にでも閉じ込められ、そこから言葉を叫んでいる気分だった。
そのうちに、意見を言うことさえ諦めた。
どうせ聞いてもらえないなら、勇気を出して発言するだけ損だ。
今なら分かる。
あれは無視と言うより、ただの無理解だった。
人は途中の段階をすっ飛ばして一足飛びに結論だけ示されても、なかなか理解できないものなのだ。
僕が『何だか無駄な時間だ』と感じていた紆余曲折の議論の時間は、皆が一歩ずつ理解と思考を深めていくのに必要な時間だった。
その時間を秒で駆け抜けてしまう人間は、間に段階があったことさえ、なかなか気づけないものなのだ。
天才が『自分を天才だと自覚している』と思ってる奴はきっと、本物の天才を知らないんだろうな。
天才は案外、自分の天才性に気づけない。
だって、平均的な一般人の思う“天才的頭脳”は、天才にとっては意識さえしない“通常運行”なのだ。
天才が思うのは『自分って、スゲェ』ではなく『え?ひょっとして皆、これに気づいてないんだ?マジで?』なのだ。
天才は無意識だと、他の皆も自分と同じだけの思考力を持っていると勘違いしてしまう。
人間は多かれ少なかれ“自分のモノサシ”で世界を測るものだし、他人の頭の中身なんて視えないからな。
他人を自分と同レベルだと過大評価して『アレ?』ってことになるのは、天才なら割とやらかしがちな初歩的ミスなのだろう。
自覚の無い天才は、周囲から“何かズレた子”扱いされて凹む。
それで自信を失くして、積極性さえも失ったりする。
そうしてある日、偶然ラベリングされた“天然”という言葉に『コレだ!』と飛びついたりする。
天然って言葉は、個性として確立している。
その上、“和み系”的なポジティブ要素もあって、“空気が読めない子”や“何かズレた子”よりイメージが良いのだ。
キャラ付けというのは便利なもので、“天然”という評価が確定していれば、多少ズレた言動をしても、何だか納得してもらえる。
理解されるわけでなく『まぁアイツ、天然だからな』という謎の納得のされ方なのだが……『何言ってんだコイツ』って目で見られるより、数十倍は居心地が良い。
実際僕は“天然キャラ”という“ぬるま湯”の安定感に、十数年もの間ぼーっと浸っていた。
だけどある時、ふと気づいた。
……コレ、天然とは何か違わないか?と。
世の中の思う天才は『テスト勉強した?』の問いに『全然してない』って答えるんだろうな。
でも多分、本物の天才なら、正直にこう言うんじゃないかな。
『テスト勉強?やったよ!十分(テスト前の休み時間)!』
僕の答えに皆は『やっぱりコイツ、天然だな』という目を向けて来たが……こんなので実際に学年順位一桁が獲れてしまう人間を、天然で片付けるのって“合っている”んだろうか?
世の中の思う天才は『自分、天才ですけど。何か?』みたいに、天才風を吹かせるものなんだろうな。
だけどきっと本当の天才は『自分が天才?烏滸がましい』『葛飾北斎やアインシュタインに比べたら塵屑ですよ』とか思ってるんじゃないかな。
人は欲張りな生き物だから、“持っているもの”より“足りないもの”に目が行く。
たとえ同時代に比肩する天才がいなくても、歴史上の天才と自分を比べて『自分なんて、まだまだだ』って嘆くんだろうな。
そもそも、同時代に生きる人間だって『自分より下』だなんて、簡単に侮ったりはしない。
他人の頭の中身なんて視えないし、言動に全てが表れるわけでもないからな。
視えないものを勝手に推し測って『上だ下だ』なんて、思考の無駄遣いが過ぎるだろう。
天才が何故ズレてしまうのか、その理由に僕は気づいている。
答えは単純明快。
天才は平均的な一般人より、可能性を無限に想像し過ぎてしまうからだ。
平均的な一般人は『○○の原因は××』と教えられたら、そこで思考が固定される。
だけど天才は、とりあえずソレを一旦疑う。
そして、別の可能性を考える。
さらにはその可能性すら疑って、新たに別の可能性を頭に浮かべる。
そうやって、可能性を無限増殖させてしまうのが、天才の習性なのだ。
最初に教えられた“常識という名のナニカ”は、無限の可能性の中に埋もれて、影が薄くなる。
だから時々、世の人々にとって“常識外れな言動”をやらかしてしまうんだろう。
天然が常識を“知らない”もしくは“忘れている”のに対し、天才は常識を“可能性の一つとしか捉えていない”のだが――そんな違い、外から見たら分からないよな。
世の中の思う天才は、周りからその天才性を認められ、尊敬されたり憧れられたりするものなんだろうな。
だけど、そもそも平均的な一般人では、その天才性を理解できない。
思考が固定化された人間に、別の可能性をいくら話してみたところで、ぽかんという顔をされて終わりだ。
理解されたいと思っても、相手は興味さえ持ってくれない。
天才が周りに認められるのは、分かりやすい数値や賞を獲った時くらいだ。
世間に認知されるようになってやっと、天才は“何かズレた人”から違う存在になれる。
だけど、そうなると今度は、その評価を羨む人々から妬まれ、足を引っ張られる。
世の人々は、天才の輝かしい側面しか知らない。
世の多数派からズレた人間の、底冷えするような孤独感と息苦しさを、知らない。
世の人々が天才を理解できないのは、理解したくないから、というのもありそうだ。
世の中どうにも“何を考えているか分からない天才”より“何を考えているか分からない天然”の方が、受け容れられ易い節がある。
天才はどうも、平均的な一般人を脅かすと思われているようだ。
天才にその気が無くとも、被害妄想や憧れの裏返しで、深い意味も無く雑に嫌われる。
そもそも、天才はそうそう天才とは認めてもらえない。
人間は他人の“スゴさ”を、そうそう認めたがらない生き物だから。
世の人々は、天才の実態を哀しいほど知らない。
だから無邪気に天才を夢見て、その夢を壊す本物の天才を厭うのだろう。
世の天才のうち、天才として“成功”できる人間なんて、きっと1%にも満たない。
才を持つ者が、世渡りにも長けているとは限らない。
むしろ才以外は不器用で、その才を活かせもしないまま一生を終える者の方が多いかも知れない。
世間とのズレを修正するって、ちょっとやそっとの器用さじゃ追いつけない難題だからな。
何せ、どこがどのくらいズレているのか――その把握からして至難の業なのだから。
自分の可能性を疑い始めてから、一つ、思っていることがある。
天才と天然は似ている。
ならば、天才か天然を決めるのは、世の人々の匙加減ひとつなんじゃないのか?
分かりやすい数値も成果も持たない天才は、世の人々が気まぐれで“認知”すれば天才になれる。
だけどそうなれなかった天才は“ただ何かがズレているだけ”の天然として、人よりほんのり“下”に見られる。
天才と天然は紙一重。
その本質よりも“他人からどう視えるか”で評価を決められてしまう。
まして、天才性を隠したまま、天才と認められるはずもない。
未だ天才に成れない紙一重の天然のままで、思うことがある。
天才として生きるのと、天然として生きるのは、どちらが幸せなのだろう。
天才に浴びせられる嫉妬や重圧や孤立感――それらを上手く躱して生きられる自信が、僕には無い。
この世界はきっと、天才にとって生きやすい世界ではない。
天才性なんて、ひけらかして自慢するモノじゃなく、“自己満足”に留めておくべきモノなんだろうな。
理解できない人間に、躍起になって“認知”を求めるのも疲れるばかりだし、認知されたところで、気持ち悦い反応を得られるわけでもない。
世の人々の思う天才は、きっと世の人々の“幻想”なんだろうな。
実態とまるで合わない、甘くキラキラした幻想。
存在しない幻に、どんなに憧れ嫉妬しても、意味なんて無いのにな。
僕は、そんなモノを夢見たりはしない。
僕は、そんな幻想に囚われては生きない。
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