第九話 宇和島の潮騒
夜が明けきらぬ港町の空は、まだどこか夢の名残を湛えていた。
神谷彦太郎は宿の小窓から外を見やり、潮の香りに深く息を吐いた。波の音は遠く穏やかで、それがかえって心を落ち着かせた。
床を抜けるような寒さに足先を縮こまらせながら身支度を整える。背中の風呂敷を締め直し、帯に手を当てて確かめる。
(今日からまた、知らない土地だ)
そう思うと、緊張とともに高揚感が腹の奥から湧き上がる。
港では、朝の準備がすでに始まっていた。
魚を並べる屋台、干し網を張る男たち、釣り船を整える船頭の掛け声——すべてが、ゆるやかに日常を迎えようとしている。
「よう来たのう、龍馬どん。そちらの若衆も一緒かえ」
波止場の端に腰かけていた小柄な船頭が、龍馬を見つけて笑った。
「おう。世話になるぜよ、伊賀崎どの。船の具合はどうじゃ?」
「潮も風も悪うない。宇和島までなら、午の刻前には着けるやろ」
龍馬は軽く頷き、彦太郎に目を向ける。
「乗るぞ。海を越えて行くんは初めてか?」
「……はい」
「なら、目ェ開いちょけ。山と違うて、海の道は、見るもんも揺れるもんも、ぜんぶ変わるき」
船に乗り込むと、木の肌がしっとりと濡れていた。
彦太郎は龍馬の言葉を胸に、視線を前へ向けた。
船が岸を離れると、潮風が頬を撫で、岸壁がゆっくりと遠ざかっていく。
空と海の境は淡く滲み、水平線の向こうに、まだ見ぬ宇和島がある。
波を裂いて進むその速度は、ゆるやかだが確かな“変化”の予感を連れてきた。
歴史の記述では知っていた宇和島。
けれど、それは今日、自分の足で踏む“現実の地”となる。
龍馬の背中の向こう、海の先に揺れる小さな影——それが、次の舞台の輪郭だった。
船が宇和島の港に入るころには、太陽が真上近くまで昇っていた。
波止場の周囲には白い壁の倉庫が並び、船着き場では荷の上げ下ろしに追われる人々の姿があった。帆を畳む掛け声、車輪の軋む音、そして海鳥の鳴き声が交錯する。
「これが……宇和島」
彦太郎は港の喧噪を前に、思わず息を飲んだ。
書物で読んだ“伊達藩の外港”は、想像以上に活気を帯びていた。
岸に降りると、すぐに一人の男が近づいてきた。
年の頃は三十前後、旅装を整えた中背の体躯に、無地の羽織と袴。
「坂本様でいらっしゃいますね。宇和島の千屋寅之助殿より、文を預かっております」
龍馬が頷くと、男は一通の封を差し出した。
龍馬がそれを開いて目を通す。
「……ふむ。“品川屋”の二階、明晩酉の刻。なるほど」
「お取り次ぎいたしますか?」
「いや、顔は知られちょる。改めて参ると伝えてくれ」
男が去ると、彦太郎は龍馬の横でそっと尋ねた。
「品川屋って……?」
「港町の商家じゃ。表向きは宿屋のような顔もしちょるが……上では話の早い連中が集まる」
彦太郎は無言で頷いた。情報の流れ、そして政治の匂い。
旅の先にあるものが、ただの風景では済まないことを肌で感じる。
龍馬は町の裏手にある坂道を選び、あえて人通りの少ない通りを進んだ。
やがて、寺の裏手にある古びた長屋のひとつに入り、しばし腰を落ち着けた。
「今夜はここに泊まる。町の様子を見て回る前に、一息入れちょこう」
薄暗い部屋には、乾いた藁の匂いと、開け放った窓から流れる潮風が入り込んでいた。
「宇和島は、表向きは静かな町じゃが……裏では土佐とも薩摩とも通じる動きがある。伊達藩の中でも、声を潜めてる連中がな」
「それって……」
「今夜会うのは、その“声”の一つじゃ。どう出るかはまだ分からん。けんど、動き出した以上は、見んわけにはいかん」
その声に、どこか緊張が混じっていた。
龍馬にとっても、これから先は“試される場所”なのかもしれない。
彦太郎は、長屋の小さな窓から外を見た。
陽はやや傾きかけている。
町のどこかで、何かが静かに始まりつつある。
その予感だけが、耳鳴りのように胸の奥に響いていた。
夜の宇和島は、昼間の喧噪とは打って変わって、しんと静まり返っていた。
品川屋の二階。薄明かりの行燈が卓を照らし、海風が障子の隙間からそっと吹き込んでくる。
彦太郎は、龍馬の隣に控える形で座っていた。茶菓子の手も付けられず、ただ卓上の影がゆらぐのを見つめていた。
やがて、ふすまの向こうから足音が近づく。龍馬がわずかに背を正す。
現れたのは、武士とも町人とも見えぬ装束を身にまとった男だった。
中肉中背、年の頃は四十を超えたあたり。鋭い目元と口元の皺に、年季のようなものが刻まれていた。
「……よう来なされた、坂本殿」
「こちらこそ、急な段取りに応じていただき、かたじけない」
男は会釈し、静かに対座する。
「私は川村と申す。名は借り名にすぎませぬが、今宵の話は本音で行こうと思うちょります」
「それは心強い。拙者もまた、仮の立場でしかないきに」
軽く笑い合う二人の間に、言葉ではない“理解”が流れていた。
川村は懐から紙を一枚取り出す。
「薩摩より、ある筋の動きが入ってきちょります。長州の再起を睨んでの連携。表にはまだ出ちょりませんが……宇和島でも耳を塞げぬ者が増えております」
「して、殿の耳には?」
「伊達宗城公は、風を読むことには長けた方。しかし、家中には風に抗う者も少なからず」
龍馬は頷き、しばし考え込む。
「ならば、風を巻き込むことが要るのう。土佐と宇和島、声を潜めるには惜しい者が揃っちょる」
その言葉に、川村がわずかに口元を緩めた。
「坂本殿、ひとつ頼みたいことがございます」
「なんじゃろう」
「若き志ある者に、時を見せてやってはくれませぬか。……彼らは信じた言葉を胸に抱いておりますが、時にそれが何に向かっているのか、自ら見失うこともある」
彦太郎は、その言葉に自分が重なるのを感じた。
“何に向かっているのか”。まさに今、自分が問われている問いだった。
「それが、目の前の者にも通じる話じゃな」
龍馬が横目でちらりと彦太郎を見やる。
「この若いのも、道の途中ぜよ。何を見て、何を感じるか、答えはわしにも分からん。ただ、目はよう澄んどる」
川村が静かに彦太郎を見つめる。
「……澄んだ目というのは、時に人を刺す。だが、それが見抜く目であるならば、いずれ誰かを救うこともありましょう」
卓上の火がひときわ強く揺れた。
その揺らぎの中に、彦太郎は己の映り込んだ輪郭を見た気がした。
夜は更けていた。
次に向かうのは、長崎か、薩摩か。
いずれにせよ、ただの旅では済まされない道が、静かに開かれつつあった。