第八話 潮の先にて
夜明けとともに、潮の香りがはっきりと鼻を打った。
神谷彦太郎は、焚き火の消えかけた残り火を見つめながら、薄曇りの空を仰ぐ。鳥の声は少なく、代わりに遠くから波音のような響きが断続的に届いていた。
海が、近い。
「もうひと峠越えりゃ、長浜じゃ。潮風が強うなる前に着きたいのう」
隣で腰を上げた龍馬が、身支度を整えながらそう言った。
草履の緒を引き締める仕草一つにも、どこか旅人の洗練された動きがあった。
「……このあたりは、人が多くなるんですか?」
「ああ。山奥とは違うき。海沿いは行き交う者も多い。官も民も混じるし、見えんところで物も流れる」
彦太郎は無意識に背筋を正す。
越境したことで、ようやく幕末という時代の“動脈”へ入り込んでいく実感が湧いていた。
山道を抜け、視界が開けた先に見えたのは、波の音が届く入り江だった。
砂地の浜に寄せる波は穏やかで、その奥には、藍を溶かしたような水平線が横たわっている。
彦太郎はしばらく、そこから目が離せなかった。
「……すごい……本物の、幕末の海だ……」
その呟きに、龍馬がふと笑った。
「なんじゃ、海に時代があるか?」
「……あります。こうして海を見てるだけで、なんというか……今しか味わえない“生の景色”って気がして」
「なるほど。目で見て、心で撮れっちゅうことやな」
海沿いの村を抜ける道すがら、何人かの旅人とすれ違った。魚を担いだ漁師風の男、竹籠を抱えた老婆、そして一人、旅装の青年。
青年はすれ違いざまに龍馬へ軽く目礼し、会釈を返すと、そのまま道を逸れていった。
だが、その一瞬の視線に、なにか奇妙な温度があった。
「……いまの人、何者ですか?」
「さあな。……目つきはよかったが、どこの誰かまでは分からん」
龍馬の口調は淡いが、その目には一瞬、警戒の光が宿っていた。
やがて、長浜の町並みが見えてきた。
港には小さな和船がいくつも並び、物売りの声が風に乗って漂ってくる。
「ここで、ちと寄るところがある。ついて来いや」
そう言って龍馬が向かったのは、町はずれの古い屋敷の裏手だった。
その表札には、こうあった——
「千屋」
門の先に、また新たな出会いの気配が待っていた。
「千屋」の表札が掲げられた門の先には、白壁と瓦屋根の広い屋敷が広がっていた。
龍馬は門番に名を告げると、すぐに通された。どうやら、千屋家とは旧知の仲であるらしい。
「千屋寅之助どんは留守じゃが、話は通っちょる。奥座敷で待ってもらえ、とのことぜよ」
通された座敷には、障子越しに差し込む日差しと、磨き上げられた床板の冷たさがあった。庭の手入れも行き届いており、植えられた紅葉が、わずかに色づいている。
彦太郎は、こうした“武家の空気”にまだ慣れておらず、背筋を伸ばして座るのに精一杯だった。
やがて、落ち着いた足音とともに一人の男が現れた。年の頃は四十手前、無駄のない動きと、薄い笑みを湛えた目元が印象的だった。
「お待たせいたしました。千屋寅之助の代わりを務めております、堀田と申します」
「ご多忙のところすまん。千屋どんへはまた後ほど礼を伝えるき」
「坂本様のことは、よく寅之助殿より伺っております。伊予へ入られたと聞き、きっと立ち寄られると思っておりました」
堀田は龍馬の隣に視線を送り、軽く首を傾げた。
「こちらの若い方は?」
「神谷彦太郎と申します。……旅の供をしております」
「なるほど。近頃は、表では静かに見えても、裏では風がざわめき始めております。伊予も例外ではありません。……慎重になさってください」
言葉の端々に、何かを測っている気配があった。
だが、あからさまな敵意ではない。
堀田は卓の上に地図を広げ、筆で数点を示した。
「今後のご予定は?」
「長浜から宇和島へ出て、さらに先へ。道はまだ定めてはおらんが……人を訪ねることにはなろう」
「では、宇和島で接触すべき者をこちらで用意いたしましょう。無用な動きを避けるためにも、その方が自然です」
龍馬は顎に手を当て、数秒思案したのち、頷いた。
「助かる。宇和島での動きは、また潮を引くように慎重にな」
「心得ております」
やがて湯と茶菓子が運ばれ、応接の空気は一段落する。
しかし、緩やかな時間の中でも、彦太郎の中にはひとつの問いが残り続けていた。
(俺は、ここで何を“見て”、何を“学ぶ”べきなんだろう)
すれ違う人々は皆、それぞれの意思を持ち、時代の中を歩んでいる。
その流れの中に、自分はただ流されているのではないかという感覚が、時折胸を刺した。
障子の外から、潮の香りが再び流れ込んできた。
次は、港町・宇和島。
そこには、また別の“うねり”が待っている気がしていた。
午後、海風が屋敷の庭を吹き抜けていた。
龍馬と彦太郎は、千屋家の離れを出て、小さな坂を下りながら海沿いの道へと向かっていた。
道中、堀田から手渡された文の包みを、龍馬が懐にしまいながら言った。
「宇和島では、ある人物に会う手筈になっちょる。……詳しゅうは向こうに着いてから話すが」
「……その人も、志のある方なんですか?」
「さあ、どうじゃろな。志だけでは世は動かん。けんど、“潮目”を見極める眼のある者とは思うちょる」
彦太郎はその言葉に、曖昧な不安と、微かな期待を抱いた。
人を信じるということ。時代を信じるということ。
そして、自分が何を見届け、どう行動するのか。
そうした問いが、歩を進めるごとに重なってゆく。
港に近づくと、船の帆を干す網が並び、魚の干物を運ぶ荷車が軋んでいた。町は静かだが、確かに“動いている”。
「宇和島までは、明日の朝に船を出すつもりじゃ。今夜はこの辺りの宿で身体を休めておこうか」
龍馬の言葉に頷きながら、彦太郎はふと、ひとつ前の出会いを思い出していた。
梼原、那須俊平。
その問うた「おぬしの“今”はどこにある」という問い。
あれから数日。
いまだに“答え”を持っているとは言えない。
けれど、こうして歩き続け、見て、話して、聞いて。
そのすべてが、自分を“どこか”へ運んでいる気がするのだ。
宿に荷を下ろし、簡素な夕餉を取ったあと。
浜辺まで歩いた彦太郎は、星のない夜の海を眺めていた。
波音の中に、誰かの足音が近づく。
「……目、澄んできたのう」
後ろから聞こえた龍馬の声に、彦太郎はふっと笑った。
「……そう見えますか?」
「見える。けんど、それが“見通す目”になるには、まだ先の話や。……急ぐな。海の流れは、焦っても変わらん」
「はい」
その返事は、心からのものだった。
星なき空の下に広がる黒い海。その先にあるのは、未知の地、宇和島。
次の波が来る前に、自分の立つべき場所を探したい——そう思いながら、彦太郎は波打ち際に、一歩踏み出した。