第七話 越境
夜が明けきらぬ梼原の村には、冷たい霧が立ちこめていた。
神谷彦太郎は那須家の軒先に立ち、吐く息の白さに指先をこすり合わせる。空気は澄んでいたが、寒さが骨に染みるほどだった。
それでも、心には奇妙な高ぶりがあった。今日、自分は“国境”を越えるのだ。土佐から出るということが、どれほど重大な意味を持つのか、まだ正確には分かっていない。ただ、龍馬の背中にその重みが宿っていることだけは、強く感じていた。
「朝餉は軽うにしちょいた。腹が空いても、道中で止まる暇はあんまりないきに」
信吾が味噌汁と麦飯を手早く並べながら言う。
「ありがとうございます。……あの、昨夜の話……」
「気にすることやない。おまんがあそこで“今に居る”って答えたことが、いちばんよう効いたぜよ」
そう言って笑った信吾の顔に、初めて弟らしい無邪気さが浮かんだ。
食事を終えた頃、龍馬が鞘の革紐を締め直しながら声をかけてきた。
「そろそろ行くぞ。俊平どん、世話になった」
「礼は無用。……だが、気をつけてな。番所は通り道に過ぎんが、あすこには目を光らせる奴も多いき」
「心得ちょる」
俊平と握手を交わす龍馬。その横で、信吾がひとつ小さな包みを差し出す。
「干し飯と梅干し、少しばかりじゃが、道中で役立ててくれや」
「すまんの。よう気の利く男や」
彦太郎も深々と頭を下げた。口では言えないほどの感謝が胸に詰まっていた。
二人は村を後にし、山道を北へと進む。
木漏れ日が差し始める前の森は、まだ深い影を落としていた。足元には霜の残る箇所もあり、慎重な歩みが続く。
「宮野々番所は、この道を越えた先じゃ。山を抜ければ番屋の屋根が見える。……その先は、もう伊予の地や」
龍馬の声は低く、しかし力強かった。
「越えるだけで、そんなに違うんですか」
「違うとも。国境とは、役人の帳面だけのもんやない。越える者の心に、何を刻むかが肝や」
その言葉に、彦太郎は自然と背筋を伸ばした。
山道は徐々に傾斜を増し、やがて一本の尾根道へとつながっていった。
杉と檜の間を縫うように登ると、空が開けた一角に出た。
そこには石積みの簡素な小屋があり、木製の門柱には墨の薄れた看板が打たれている。
「宮野々番所——」
龍馬が立ち止まり、目を細めた。
屋根から立ちのぼる煙、門前の番士らしき影。気配に緊張が走る。
「ここからが肝じゃ。……何も起きんとは限らん」
そして、龍馬が一歩踏み出す。
その後ろを、彦太郎もまた、息を整えて歩み始めた。
歴史の一頁に、音もなく足を踏み入れた瞬間だった。
宮野々番所の前に立ったとき、神谷彦太郎の喉は乾いていた。
見た目は鄙びた小屋に過ぎないが、そこを通ることの意味は重い。屋根から立ち上る煙の匂いに混じって、番士の張り詰めた空気が微かに感じられた。
龍馬はすっと背を正し、門の前で立ち止まると、大声ではなく通る声で名乗った。
「土佐藩、郷士・坂本龍馬。宮野々番所に通行を願う」
しばらくの沈黙。木戸の向こうから、草履の音が近づく。
現れたのは、中背の男。三十代半ばほどだろうか、身なりは簡素だが、腰の脇差が目を引いた。
「……坂本どん、か。話には聞いちょる。ずいぶん、騒ぎの尾を引いちゅうき」
「そうかのう。拙者としては、風のまにまに参るばかりよ」
にこやかに応じる龍馬に対し、男は目を細める。
「もう一人は?」
「神谷彦太郎。供をさせちょる。土佐には親類もおらず、通行証もありゃせんが……」
龍馬がそこで言葉を切る。
「この者が何者か、判断してもろうた上で、通すか否か決めてくれて構わん」
彦太郎は思わず目を見開いた。だが、龍馬は穏やかに頷く。
「この先に行く者は、いずれ己の足で道を定めんといかん。通るべきか否かは、自分で語らせた方がええ」
男は少しだけ目を見張ったが、やがて顎で内を指した。
「こっちに来いや、若いの」
狭い番所の中には、低い机と帳簿、奥には小さな囲炉裏があった。
木窓から差し込む光が埃を照らし、空気は少し乾いていた。
「名を言え」
「神谷……彦太郎です」
「どこから来て、どこへ行く」
「……和霊神社のあたりで気づいたら……。でも、龍馬さんに会って、ここまで来ました」
「ふむ」
番士は何も言わず、しばらく彦太郎の顔をじっと見た。
その眼差しは、値踏みでも詮索でもなく、“測って”いるようだった。
やがて、口元にほんのわずかな笑みを浮かべた。
「目が曇っちょらん。妙な色もない。……通してよかろう」
番士は立ち上がり、外の龍馬へ呼びかけた。
「二人とも、通ってよし。気ィつけて行きいや」
「かたじけない」
門を抜けたその瞬間、彦太郎は足元が軽くなるのを感じた。
何かを越えた、という実感。それは紙切れの許可ではなく、自分自身への問いと答えだった。
しばらく歩いたあと、龍馬がふと口を開いた。
「よう言うたな。言葉の数やのうて、迷いの無さが通じた」
「……緊張しました」
「緊張してもええ。けんど、“決めちょる目”は、どこでも通用するきに」
彦太郎は黙って頷いた。
道の先、木立の間から、青い山並みが顔を覗かせていた。
その先が、どんな未来であろうと。
自分の足で、越えていくしかないのだと、今は思えた。
宮野々番所を越え、ふたりが踏みしめたのは、伊予の大地だった。
山を一つ越えただけで、風の匂いが変わったように感じた。湿り気を帯びた空気、木々の葉擦れの音、鳥の声すら、どこか微妙に違う。
龍馬は歩みを緩めず、しかし淡く笑みを浮かべて言った。
「どうや。空気が違うじゃろ」
「……はい。たしかに、何かが変わった気がします」
「人はな、見える景色よりも、“越えた”という感覚で世界が変わるがや。番所を越えるってのは、そねん重たいもんじゃ」
それは、物理的な境界ではなく、心の境界。
彦太郎はその意味を、肌で感じ始めていた。
坂を下り、木漏れ日の中をしばらく進むと、やがて視界が開け、小さな集落が谷間に広がっているのが見えた。茅葺の屋根がまばらに並び、麦畑の向こうに川が流れている。
「ここが松ヶ峠と韮ヶ峠の間にある、伊予の入り口や。……道はさらに北へ続いちょるが、今日はあそこに宿を取るとしよう」
集落の入り口には、荷を担いだ旅人が二人、腰を下ろして休んでいた。龍馬が軽く会釈すると、ひとりがこちらに視線を向けた。
「おや、坂本どんじゃないか。珍しかの」
「おう。……もしや、千屋の親方のお連れの?」
「そうじゃ。今は長浜で世話になっちょる。今宵はこの先の水場に幕張っとりますきに」
さりげない会話の中に、確かな情報のやりとりがある。彦太郎はそのやり口の自然さに、目を見張った。
「旅人は多いですが、みな“同志”とは限りませんね」
「おまん、よう分かっちょる。そやけど、ここらで顔を覚えられちゅういうのは、ちと気になるの」
龍馬の目が鋭く光った。
その夜、ふたりは小川のほとりで幕を張り、焚き火を囲んだ。周囲には何組かの旅人の灯がぽつぽつと見えたが、距離は保たれている。
「次は、韮ヶ峠を越えて長浜へ出る。そこまで来れば、道も港も広がる」
火を見つめながら、龍馬が呟いた。
「……これまでが“山”だとすれば、そこから先は“海”の道、ってことですか」
「おお、ええ喩えじゃ。まさにそのとおりぜよ」
海。
彦太郎はその響きに、不思議な期待と不安を覚えた。
山中の旅には、静けさと孤独がある。だが、海沿いの道には、人が集まり、言葉が交わされ、思惑が渦巻く。
「けんどその分、“出会い”も増える。よう観ちょきや。人の数だけ、世界はあるきに」
龍馬の言葉は、焚き火の爆ぜる音に紛れて、夜空に溶けていった。
山の向こうから、かすかな潮の香りが運ばれてくる気がした。
越えた者にしか届かない、新しい風だった。