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第六話 梼原への道

 夜明け前の山村は、まだ深い闇に包まれていた。


 神谷彦太郎(かみやひこたろう)は眠りの底から意識を引き上げ、囲炉裏の火の残り香とともに目を覚ました。寝返りを打つと、畳の軋む音と、ほんの少し冷えた空気が肩を撫でる。


 布団の端をまくり上げて体を起こすと、向こう側で坂本龍馬が既に起きていた。湯を沸かしながら、静かに空を見上げている。


「もう起きたがか?」


「……はい。外、まだ真っ暗ですね」


「ほうじゃ。けんど、そろそろ動かんと、昼には峠にかかるき」


 そう言って龍馬は湯呑を差し出した。彦太郎は礼を言い、両手でその温もりを受け取る。


 湯気とともに、静かな覚悟が胸に満ちていく。


 昨夜の言葉――「自分が何者でありたいか」。それは今でも胸にくすぶっていた。けれど答えはまだ出ない。ただ、進むしかないと思っていた。


 身支度を整え、家の主へ礼を述べてから、二人は再び旅の道へと足を踏み出した。


 山道はまだ薄暗く、足元には霜の名残が残っていた。霧はなく、風も穏やか。歩みには申し分ない条件だった。


「今日のうちに、梼原(ゆすはら)に入る。そこで人に会う約束をしちょる」


「人……ですか?」


「那須ちゅう者が二人おる。昔からの知り合いでの。向こうも分かっちょる。わしが来るのを」


 その名に、彦太郎の脳裏で微かな記憶が反応した。歴史の書物で見たことのある姓。だが詳細までは思い出せない。


「梼原までの道はきつうはない。けんど……念のため、気ィ引き締めといた方がええ」


「はい」


 龍馬の声には、普段とは違う静かな鋭さがあった。


 やがて道は山の尾根沿いに変わり、眼下には渓谷が広がりはじめる。冷たい空気が頬を打つが、不思議と身を切るほどの寒さではなかった。


 歩きながら、龍馬は小声で話を続けた。


「脱藩ちゅうのはな、道を越えることやない。覚悟を越えることじゃ」


 彦太郎はその言葉の意味を、まだ理解しきれてはいなかった。

 けれど、何かが確かに変わりつつある予感がした。


 次の峠を越えたところで、林の間から小さな茶屋が現れた。竹で編まれた軒先から湯気が上がり、炭の香りがほんのり漂っている。


「ちくと腹ごしらえしとこか。ここで食うたら、次は昼まで何もないき」


 木製の暖簾をくぐり、茶屋の奥へ入ると、数人の旅人が温を取っていた。どれも目立つ風体ではないが、時折こちらへ向けられる視線には、ただの関心ではない何かが混じっていた。


「……気にせんでえい。いまは、どこも風が立っちゅう」


 龍馬の声は低く、それでいて淡々としていた。


 旅の緊張は、すでに始まっている。


 外では鳥が囀りはじめ、夜明けの気配が空を薄く染めていた。


 茶屋を出た頃には、すでに朝の光が谷間を照らし始めていた。

 山の斜面に沿って伸びる道は、苔むした石段と細い獣道のような山道が交互に現れ、足元に気を抜くことはできなかった。


 彦太郎は肩にかけた荷の重さを意識しながら、龍馬の後ろを一歩一歩踏みしめて進んでいた。


「もうすぐ谷を抜けたら、梼原の入口が見えてくる。……その前にな、ひとつだけ伝えちょく」


 龍馬が歩みを緩めて振り返った。その目には冗談も、笑いも浮かんでいない。


「この地には、名ばかりの勤王(きんのう)攘夷(じょうい)とは違う、“本気の志士”がおる。話す言葉の重さも違えば、生き方の軸も違う。……おまんの目が試されるかもしれん」


「……わかりました」


 覚悟を問われているのだと察し、彦太郎は真っ直ぐに頷いた。


 やがて、細い山道を抜けた先に、茅葺屋根の家が二、三軒見えてきた。

 遠くから薪を割る音が聞こえ、谷の湧水が小さな段々畑を潤していた。


「おーい、俊平おんちゃん、居るかえ!」


 龍馬の声に応えるように、家の戸口から年配の男が姿を現した。

 浅黒い肌に刻まれた皺、しっかりと締められた帯、そして油断のない眼差し――ただの山間の村人には見えない何かが、そこにはあった。


「……坂本か。よぅ来なされた。こんどは一人じゃねえようじゃの」


「うむ。そっちも変わりはないか?」


「いや、世間もこっちも、揺れっぱなしじゃ。……信吾、客人を通してくれ」


 奥から若者が顔を出した。俊平とよく似た目元をしており、動きに無駄がない。


那須信吾(なすしんご)と申します。どうぞ、こちらへ」


 彦太郎は小さく頭を下げ、静かにあとに続く。


 囲炉裏の部屋に通されると、湯がすでに沸かされていた。

 炭の匂いとともに、土壁に反射する火のゆらぎが部屋を包み込む。


「さて、若い衆。名はなんちゅう?」


 俊平が低い声で訊ねた。


「……神谷彦太郎と申します」


「ふむ、よう覚えとる名じゃないな。どこから?」


 そこで答えに詰まる。身元を偽るにも、嘘をつくにも、この家に満ちる空気がそれを許さない。


「……事情あって、流れて来た者です。龍馬さんに拾ってもらいました」


「正直でよろしい」


 俊平は目を細め、湯呑を手に取った。


「このご時世、正体の分からぬ者も珍しゅうない。だが、言葉や振る舞いは誤魔化せん。おぬしが何を思い、何に目を向けちゅうか、それだけは見させてもらうぜよ」


「……はい」


 信吾が火に薪を足しながら、ふと笑った。


「親父殿の言葉は重いで。けんど、嘘っぽくないのがええ。旅人の目をしちょる」


 彦太郎は、わずかに肩の力が抜けるのを感じた。

 龍馬が湯を啜りながら言った。


「この梼原の地には、世を変えたいと願う者が、草の根のようにおる。おまんが何を見るかは自由じゃが、心して目を凝らしちょき」


 外では風が吹き、杉の葉がさやさやと揺れていた。

 この場所に集う人々の思いが、静かに、しかし確かに、彦太郎の胸に届きはじめていた。


 囲炉裏を囲む晩のひとときは、どこか張り詰めた静けさに包まれていた。


 那須家に泊まることが決まり、彦太郎は端座して湯呑を持ちながら、火の揺らめきに目を凝らしていた。外はすでに闇が降り、風の音と虫の声だけが耳に届く。


 俊平は口数少なく、信吾は時折薪を調整しながら場を見守っている。そして龍馬は、まるでこの時間すら必要な布石のように感じているのか、口を挟まず湯を啜っていた。


「神谷どの」


 俊平の低い声が、静けさを破ることなく届いた。


「今宵、おぬしに問うことは一つだけじゃ」


 火がぱちりと鳴った。


「おぬしの“今”は、どこにある。過去か、未来か。それとも、この“今”そのものか」


 問われてすぐに答えられるものではなかった。


(今……? 俺の“今”って……)


 高校生としての日常、友人とのたわいない会話、現代の街並み。タイムスリップしてからの数日間は、それらすべてが遠い記憶のようだ。


 今の自分は……


「……この“今”に、いたいと思っています」


 その言葉が口をついたとき、自分でも驚いた。

 だが、それは確かだった。


 俊平は長く目を閉じてから、頷いた。


「それでええ。迷うもまた道。けんど、居場所を定めぬ者に志は立たん。まずは“ここ”に立て。話はそれからじゃ」


 その言葉は、決して強制でも説教でもなかった。ただ、火の熱と同じように、じわりと染み込んでくるものだった。


 信吾が湯を継ぎ足しながら、やわらかく言った。


「兄さん、よう言うちょった。志っちゅうのは、何かに抗うことじゃない。自分に向き合うことやって」


「兄さん……?」


 思わず尋ねた彦太郎に、信吾は少しだけ目を伏せた。


吉村虎太郎(よしむらこたろう)――この村で生まれ育った志士です。いまは京で命を張って動いてますけど……僕にとっては、いつまでも背中の遠い人です」


 その名を聞いて、彦太郎の記憶が騒ぎ出す。確かに、吉村虎太郎。後に名を挙げ、志の果てに斃れる人物だった。


 だが、その未来を知っている自分は、いま、彼の身内の前にいる。


(これが……歴史の中にいるってことか)


 現実感と責任の重みが、静かにのしかかる。


「明日は、宮野々番所へ出るつもりじゃ。坂を越えてしばらく行けば、分かれ道に至る。そこから先は、もう土佐ではない」


 俊平が炭を見つめながら言った。


「覚悟が要る道じゃ。されど、誰かが行かねば、道は道にならん」


 その言葉を、彦太郎は噛み締めるように受け止めた。


 今夜、何かが自分の中で変わった気がする。

 それが何かはまだ言葉にできない。だが、変わったことだけは確かだった。


 布団に入ったあとも、しばらく眠れなかった。

 藁の香り、風の音、囲炉裏の名残。

 それらがすべて、いま自分がいる“ここ”の証だった。


(……この時代を、生きる)


 そう心の奥で静かに呟いた時、ようやくまぶたが重くなってきた。


 明日、また一歩、歴史の深みへと踏み込むのだ。

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