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第五話 朝霧の向こうへ

 鳥のさえずりで目を覚ました神谷彦太郎(かみやひこたろう)は、昨晩と同じ空の下にいることを再確認した。まだ明けきらぬ空には淡い藍が残り、森の奥からは冷たい霧が静かに流れてくる。


 隣では坂本龍馬が既に身支度を終えており、湧き水で顔を洗っていた。手拭いを絞る音が、しんとした空気の中で心地よく響く。


「お、目ぇ覚めたか。よう寝られたのう?」


「……はい、たぶん」


 体の節々は相変わらず痛むが、昨夜よりも明らかに眠れていた。慣れとは恐ろしい。


 龍馬が荷をまとめる間、彦太郎も草履を履き直し、衣を整える。着慣れない着物にもようやく動きのコツが掴めてきた。


「ほいたら、ぼちぼち参ろうか」


 火を完全に消し、跡を残さぬよう地面をならしてから、二人は森を後にした。


 霧の立ちこめる朝の山道は、どこか幻想的だった。白い靄の中に木々の影がぼんやりと揺れ、風の音すら輪郭を失っている。


(まるで、どこか別の世界に紛れ込んだみたいだ)


 現実感のない風景に足を踏み入れながらも、彦太郎はもう戸惑わなかった。むしろ、その曖昧な空気が、かえって今の自分にはちょうどよかった。


「次の宿場まで、一日ちょっとかかる。途中で補給もするき、金子(きんす)も使い方を覚えちょいた方がえい」


「……金子、ですか?」


「銭の呼び方もそうじゃけんど、実際に使うてみらんと、覚えられんもんよ」


 龍馬は懐から布袋を取り出し、銭と小判の入った巾着を見せる。


「分かったようで分からんのが、銭勘定ちゅうもんや。けんど、それが分からんと、誰とも話ができんき」


 その言葉に、彦太郎は小さく頷いた。歴史としての「貨幣制度」は知っていても、目の前でじゃらりと鳴る銭には重みがある。


 やがて霧が晴れてきた頃、小さな峠の茶屋跡が現れた。瓦は崩れかけていたが、まだ営業しているらしく、湯を沸かす煙が立ち昇っていた。


「ちょっと寄っていこうか。喉も乾いたろう」


 茶屋の老婆が縁台からこちらを見て、目を細める。


「あら、龍馬さまじゃありまへんか。今日はまた、若い衆を連れて」


「まあ、ちくと訳ありでな。助けたと思うて、水をひとつ頼むぜよ」


 龍馬は気さくに笑い、手拭いで首筋を拭う。その様子を見ていた老婆は、にっこりと笑って茶を湯飲みに注いだ。


 彦太郎は、そのやりとりを横目に見ながら、茶屋の片隅に吊るされた値札や、銭の使い方に目を凝らしていた。龍馬の言う通り、紙ではなく金属の重みが、やけに現実的だった。


「金子はな、額面よりも渡し方が大事ぜよ」


 龍馬が小声でそう言い添える。


「まごまごしちょったら、足元見られるきに」


「……はい。気をつけます」


 こうして少しずつ、この時代の暮らしが肌に馴染み始めていた。


 出発のとき、老婆が小さく囁いた。


「……お気をつけなされや。最近、このあたりにも侍風情の妙な連中が出入りしとるそうですさかい」


「そうかえ。そりゃまた物騒な」


 笑いながらも、龍馬の目が一瞬だけ鋭くなった。


 道のりはまだ始まったばかり。だが、その先にあるものが、旅という言葉では括れぬ何かであることを、彦太郎は直感的に感じていた。


 茶屋での短い休憩を終えると、龍馬は道具の点検を念入りに行った。

 荷を背負い直し、刀の位置を確認しながら、彦太郎にも目配せをする。


「足、大丈夫かえ?」


「はい。草履、だいぶ慣れてきました」


 彦太郎は頷いた。朝の冷気で痺れていた足の裏にも、今では温もりが戻っている。


「ならえい。今日はもうひと山越えて、谷筋の村まで出ようか。ちくと早いが、そこに泊めてもらえる宛があるがよ」


 そう言いながら、龍馬は腰に提げた布袋の中を探ると、絹の小包を取り出した。


「おまんにも一つ渡しちょこうか。銭も持たんとな、勘定は学ばんぜよ」


「えっ、でも……それって、龍馬さんの……」


「分け持つちゅうことぜよ。盗られたら二人とも終いやが、一人なら残るきに」


 それはただの警戒策にとどまらなかった。信頼の証――そう感じた彦太郎は、黙って頭を下げた。


 再び山道に戻ると、朝霧は徐々に晴れ、代わりに陽射しが木の葉の間から差し込み始めた。

 鳥のさえずりも力強さを増し、辺りには少しずつ人の営みの気配が混じりはじめる。


「この道は、かつて参勤交代の脇街道として賑うちょった。けんど、今はもう人通りも減ってしもうた」


「そうなんですか」


「京と江戸の風向きが変われば、こうして町も人も、流れるように変わる。いずれ、おまんも実感することになるろう」


 龍馬の言葉には、重みがあった。歴史の転換点を肌で感じている者の言葉だ。


 その頃には、道の両側にぽつぽつと畑が広がり、小さな農家が見え隠れし始めた。


「この辺りからは、もう村の者も通るきに、余計なことは言わんほうがえい」


 彦太郎は軽く会釈し、背筋を伸ばして歩く。

 やがて、小川を越えた先に、三軒ほどの屋根が連なる一角が見えてきた。村の入り口だ。


 すると、遠くから荷車を押す男が手を振ってきた。


「おーい、坂本どんじゃなかか!」


「おう、久しゅうのう。元気にしちょったか?」


 龍馬はにこやかに応じながら、足を速めた。


「こっちは知り合いの家や。ちくと顔を出しちょこう。腹の足しにもなるやろ」


 荷車の男は農具を脇にどけると、彦太郎に向かって人懐こい笑みを浮かべた。


「おや、新入りかえ? どこぞの若殿かと思うたが、ちいと雰囲気が違うのう」


「まあ、旅の供じゃ。迷子を拾うたと思うてくれ」


「ははは、坂本どんに拾われるちゅうたら、こいつも運のええ男じゃの」


 和やかな笑い声が、風に乗って揺れた。


 通された家は、土間の奥に囲炉裏を構えた素朴な造りで、台所では若い女が煮物の鍋を見ていた。


「ごめんよ、通りがかりのもんじゃ。水と火を少し、借りられるかの」


 龍馬がそう声をかけると、女は振り向いて微笑み、静かに頷いた。


「どうぞ、うちも父が坂本様にはよくしてもろうてますけ」


「それはありがたい。この若い衆も一緒じゃき、よろしく頼むぜよ」


 夕暮れが近づき、窓の外の畑が茜色に染まりはじめていた。


 囲炉裏の火にあたりながら、彦太郎は湯呑みを両手に包んだ。

 草履に慣れ、言葉を選び、目立たぬよう気を配る。

 ほんの数日前には考えもしなかった感覚が、いまでは当たり前のように身に染みついていた。


(……このまま、馴染んでいけるんだろうか)


 問いに答えはない。ただ、静かな火の揺らぎの中に、時代という流れが音もなく満ちていた。


 夜が更ける頃、村の家の囲炉裏には、静かな火が揺れていた。


 神谷彦太郎は、坂本龍馬の横で湯呑を持ったまま、ぼんやりとその火を見つめていた。

 木のはぜる音と、風の吹き抜ける軒先の鳴りに、耳が慣れていく。東京の喧噪では味わうことのなかった、静寂の中の多彩な音だった。


「……眠れんかえ?」


 龍馬がぽつりと呟いた。湯呑に残った茶を揺らしながら、目を細めてこちらを見る。


「……少し、頭が冴えてて」


「まぁ、はじめのうちはそんなもんじゃ。夜が怖いとは言わんが、静かすぎて気が休まらんとな」


 彦太郎は頷いた。たしかに、今は“何もない”ことの方が怖い。

 時計の音も、街灯の明かりも、コンビニの看板も、なにもない夜。


「けんど、慣れてくると逆に妙な安心もあるもんよ」


 龍馬は立ち上がり、火に薪を一本くべた。

 ぱち、と音が立ち、炎が少し大きくなる。


「人間、見えんもんに怯えるきに、灯りをつけたがる。けんど、ほんに怖いもんちゅうのは、心の中にあるもんやろ」


 火の明かりが、龍馬の横顔を照らす。その瞳の奥にある光は、炎ではないと彦太郎は思った。


「龍馬さんって、すごい人ですね……」


「なんじゃ、藪から棒に」


「いや……なんていうか、余裕があるというか。時代に振り回されてない、って感じがして」


 龍馬は少し笑った。


「それはたぶん、わしが“時代の外側”におるように見えるだけじゃき」


「外側、ですか?」


「せや。わしはまだ何者にもなっちょらん。武士やが、藩を飛び出しちょる。かといって町人でも浪人でもない。……だから、世間から見たら、ちょっと変なもんじゃろ」


「……そういうの、羨ましいです」


 ふと出た本音に、彦太郎自身が少し驚いた。


 龍馬は茶をすすりながら、しばし黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「誰しも、何かにならんといかんとは限らんぜよ。せやけど、自分が“何者でありたいか”を知っちゅう奴は、つええ」


 その言葉に、彦太郎は胸の奥がざらつくのを感じた。

 自分が、何者でありたいか――その問いは、今の自分には重すぎる。


「急がんでえい。いずれ、自分の足で立つ時がくる」


 そう言って龍馬は立ち上がり、背伸びをひとつした。


「明日も歩くき、もう寝ときいや。今日はようよう頑張ったがやき」


「……はい」


 布団に入ると、焚き火の香りがほんのりと染み込んでいた。

 目を閉じると、昼に見た峠道や、茶屋の老婆の笑み、畑の土の匂いが頭に浮かんでくる。


(……何者になりたい、か)


 かつての自分なら、“高校生”としての生活の延長しか思い浮かばなかった。

 けれど今、目の前の龍馬やこの土地の人々と触れるうちに、自分の輪郭が少しずつ変わっていくのを感じていた。


 明日はまた、新しい道が待っている。


 星の見えない夜空の下、彦太郎は静かにまぶたを閉じた。

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