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第四話 旅の始まり

 翌朝、神谷彦太郎(かみやひこたろう)は夜明けとともに目を覚ました。


 薄紅色の光が障子越しに射し込み、空が徐々に明るみ始めていた。鳥の囀りが近くの竹林から響き、昨夜の冷え込みとは打って変わって、空気には微かな温もりが含まれている。


 寝返りを打つと、敷き布団の下から軋む音がした。柔らかさとは無縁の寝床に、体の節々が鈍く痛む。


(やっぱり……これが“本物の”江戸時代の朝か)


 夢じゃなかった。現代へ戻る道はまだ見えない。だからこそ、今は“ここ”を生きるしかない。


 気を引き締めながら身支度を整え、土間に降りると、すでに坂本龍馬が囲炉裏の前で支度を終えていた。藁草履に足を通しながら、ふと顔を上げる。


「よう寝られたかえ?」


「はい。まあ、慣れない布団ですけど、ぐっすり……」


「そりゃようござった。今日からちくと歩くきに、体は休めちょかんとのう」


 龍馬は鍋の蓋を開け、昨夜の味噌汁を火にかけ直す。湯気とともに立ち上る香りが、彦太郎の胃袋を刺激した。


 朝食は味噌汁に焼き魚と漬物、それに麦飯。質素だが、腹を満たすには申し分ない。


「ほら、よう噛んで食べんと、腹で重うなるぜよ」


「……はい。いただきます」


 言われるままに箸を進めながら、彦太郎は昨夜のやりとりを思い返していた。


 “行く当てがないなら、わしといっしょに来るか?”


 その問いに対する返事は、もはや済んでいる。選んだのは同行の道。だが、これがどこへ続いているのか、それは誰にも分からなかった。


「さて、腹が満ちたら出立ぜよ」


 龍馬が立ち上がり、刀の鞘を確かめるように腰に当てる。その一連の動作は、まるで毎朝の儀式のように滑らかだった。


 その後、借りていた家の主に礼を述べ、二人は村を後にした。


 木漏れ日の差す山道を抜け、川沿いをしばらく歩く。時折すれ違う旅人が、彦太郎の異様な身なりに眉をひそめることもあったが、龍馬が「身内ぜよ」と一言添えるだけで、不思議と皆は深く詮索しなかった。


 龍馬の名が、この地域でいかに信用されているかがよく分かった。


「……龍馬さんは、普段からこうして一人で旅を?」


「いや、そうとも限らん。けんど、脱藩の前後は人を頼りすぎると、かえって面倒が増えるもんじゃ。おまんも、覚えちょいた方がえい」


 “脱藩”――その言葉に、彦太郎の胸が少しざわめいた。


(本当に、歴史の“その日”に居るんだな……)


 知識だけでは届かない、現実としての重みが背中にのしかかってくる。


 午前のうちに一つ目の峠を越え、見晴らしのよい丘に出たところで、龍馬が足を止めた。


「今日はここまでにしちょこう。ちと早いが、無理はせん方がええ」


 見下ろせば、遥か彼方に連なる山々。その麓に小さく光る川の流れが、まるで絹糸のように蛇行していた。


「……きれいですね」


「おう。日本も、まだ捨てたもんやないろ」


 その言葉に、彦太郎は目を細めた。


 現代にいた頃は、山や川の風景など目にも留めなかった。それが今、まるで初めて目にするかのように美しく感じられる。


「けんど、ここも、いつまでこのままでおれるかのう」


 何気ないように呟いたその一言が、妙に重く感じられた。


 まだ見ぬ未来を知っている者として、その言葉には決して安易に頷けない。だが同時に、反論もできなかった。


 風が通り抜け、春の匂いを運んでいく。


 彦太郎はただ、その景色を黙って見つめていた。



 峠を越えた道の先は、緩やかな下り坂となっていた。二人は昼を過ぎても足を止めず、木々の影を縫うようにして歩を進めた。


 道すがら、何度か旅人とすれ違った。中には彦太郎の格好に露骨な視線を向ける者もいたが、龍馬が軽く頷くだけで、皆は言葉を飲み込んだ。


 だが、彦太郎自身はその視線を無視しきれなかった。背中にまとわりつくような居心地の悪さ。現代的な服装が、ここでは異物以外の何物でもないことを、嫌というほど実感させられていた。


 そんな様子を察したのか、午後の休憩中、龍馬が荷を解きながら口を開いた。


「……ちくと目立ちすぎるき、これを着いや」


 差し出されたのは、濃紺の木綿の着物だった。畳んで丁寧に包まれていたそれは、使い古されてはいるが、しっかりとした縫製で仕立てられている。


「え、これ……?」


「昔、世話になった者のもんじゃ。もう着んちゅうて、預かっちゅう。いま着てるその妙な装束より、よう馴染むやろ」


 冗談めかした口調ではあるが、気遣いは明らかだった。


「……ありがとうございます。助かります」


 彦太郎は素直に礼を言い、少し離れた茂みの陰で着替えを始めた。


 パーカーとジーンズを脱ぎ、初めて袖を通す時代の衣。

 袴ではないが、着物を身体に巻き付ける手順は、知識としては頭に入っている。


(よし……なんとか、いける)


 帯を締め終え、草履を履いて戻ると、龍馬が頷いた。


「おお、よう似合うのう。町の衆に混じっても気づかれんかもしれん」


 その言葉に、彦太郎は少し照れながらも、どこか安心したように笑った。


 それからしばらくして、小さな茶屋のある分かれ道に差しかかった。

 茅葺の屋根からは湯気が立ち上り、軒下に吊るされた暖簾が風に揺れている。


「ちくと寄っていかんか。水も補がんといかんき」


 龍馬の言葉に頷き、二人は茶屋の縁側へ腰を下ろした。老婆が運んできた麦茶を受け取り、乾いた喉を潤す。


「この先は、しばらく山道が続くきに、今のうちに腹拵えもしちょいた方がえい」


 出されたのは、焼き餅と塩むすび。それだけの簡素な品だったが、腹には優しく染み渡る味だった。


 食事を終え、再び歩き出す頃には、陽はもう大きく傾いていた。


「日が暮れる前に、今日は野営にせなあかんの」


「野営、ですか……」


「慣れんことじゃろうが、旅ゆうもんは、そういうもんぜよ」


 笑いながらそう言う龍馬の背に続き、彦太郎は再び歩き出した。

 足元の草履はまだ馴染まない。けれど、さっきよりも“この時代の地面”に、少し近づけた気がしていた。


 太陽が山の端に沈む頃、二人は小高い丘の斜面に腰を下ろした。昼間に歩いた分だけ、今は視界が開けている。西の空は橙に染まり、遠くの稜線が切り絵のように静かに浮かび上がっていた。


「今日はここで野営にしようか。風も穏やかやし、湧き水もある」


 龍馬が荷を下ろし、手際よく焚き火の準備を始めた。火打石の音が響き、火種が藁に移ると、ぱちぱちと乾いた音が夜気を揺らした。


 彦太郎は持ち寄った薪を重ねながら、どこか落ち着かない心持ちで空を見上げる。


 ――夜が来る。


 文明の灯りも、通信も、家屋の庇護もない、漆黒の闇の中で過ごす夜。

 それは現代の暮らしでは想像もつかない不安を連れてくる。だが、龍馬はそんなことをものともせず、黙々と湯を沸かし始めた。


「……こがな風に野営するんは、初めてじゃろ?」


「はい……正直、ちょっと怖いです」


「それでえいがよ。怖がらんやつの方が危のうて、いかん」


 湯が沸くまでの間に、龍馬は飯盒のような鍋で米を炊きはじめた。

 塩を混ぜただけの握り飯と干し魚の膳。華美なものは何もない。だが、不思議と心は温まる。


「旅っちゅうのは、贅沢を求めるもんやない。身の軽さと心の重さが釣り合う時、ようやく前に進めるがやき」


 龍馬の言葉は、火の揺らめきの中で深く沁みた。


 食後、焚き火を囲んで並んで腰を下ろす。

 空には星が瞬きはじめていた。彦太郎は思わず、そのあまりの数に息をのんだ。


(こんなに……見えるもんなのか)


 東京では見ることもなかった夜空。それが今、まるで手が届きそうなほど近い。


「わしはな、時々思うがや。こんな星空を見て育ったら、人間の考え方もちいとは違うろうかって」


 龍馬がぽつりと呟いた。


「どういう、意味ですか?」


「文明が進んで、便利になって、遠くが見えるようになっても……空を見上げる余裕がなくなったら、人は何を頼りにするんやろな」


 彦太郎は何も答えられなかった。

 今の彼にとって、それはあまりに刺さる問いだったからだ。


 スマートフォンのない世界。電気もない、地図もない、時計すら当てにならない世界。

 その中で、今、自分は龍馬という“人”を頼りにしている。


「おまんが、どこから来たか……いや、どこへ向こうちゅうか。そういうことは、わしにとってはどうでもええ」


 焚き火の火が、龍馬の横顔を浮かび上がらせる。その眼差しには、どこか遠くを見るような静けさがあった。


「ただ一つ言えるがは、わしがこの先、面白いもんを見に行くいうこと。もし、おまんにもその覚悟があるなら――共に来いや」


 火の粉が空に舞い上がった。まるで星に届こうとするように。


 彦太郎は小さく頷いた。

 自分の中で何が変わったのか、はっきりとは分からない。

 だが今、この夜空の下で、自分は確かにこの時代を“生きている”と、そう思えた。


 それは、どんな教科書にも書かれていなかった“幕末”の手触りだった。

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